035
ーーその頃、寝室にひとり残ったノアは拳を握り締めていた。
「……俺はなんて愚かなんだ」
掠れた声が、闇に溶ける。
イザベルへの感謝と、ルシェルへの愛情。
どちらも真実であるがゆえに、言葉はルシェルの心を最も深く傷つけた。
(取り戻したい……だが、俺はすでに取り返しのつかないことをしているのではないか?)
脳裏に蘇るのは、イザベルが懸命に寄り添ってくれた日々。
ルシェルに対する冷たい態度と、ひどい言葉の数々。
何度思い返して悔やんでも、ももう時間は戻らない。
それでも――やはり、胸の奥で求めるのは、ただ一人の妻の温もり。
ノアは額を押さえ、荒い息を吐いた。
ノアは横になったまま、しばらく天蓋の影を見つめていた。
扉の外で控えていたイザベルが、そろりと入ってくる。
「陛下……お目覚めだと聞いたので…」
その声はかすかに掠れている。
「来たのか」
ノアは起き上がり、手近の外衣を肩へ掛けた。
「座ってくれ」
イザベルはおずおずと寝台脇の椅子に座る。
「…お加減は…いかがですか?」
「……ああ、問題ない。宮廷医の言うとおり、しっかり休めば大丈夫だろう」
一拍置いて、ノアはイザベルに視線を合わせた。
「イザベル……話がある」
「……はい」
「…まずは、礼を言う。これまで、お前には本当に救われてきた。崖の下で傷ついた私を救ってくれたこともだ。この感謝は決して忘れない」
イザベルの表情が固くなる。
そして、ノアは続けて厳密な線を引くように続けた。
「だが、明確にしなければならないことがある。俺の妻はルシェルだけだ。――俺は、もう一度彼女と向き合いたい」
沈黙が落ちる。
蝋燭の火がぱち、と小さく揺れ、影が壁を震わせた。
「……私は……?」
イザベルが唇を噛み、続けて言葉を引き出す。
「……この子は……?……陛下の子は……?」
「……子供は必ず守る」
ノアは続ける。
「もちろん、お前の身の安全も。新たな住まいを整え、専属の医師と侍女を数名手配しよう。必要なものはなんでも言ってくれ。なんでも用意しよう」
「……なんですかそれ。陛下は……私が嫌いになったんですか……?」
イザベルは、大きな赤い瞳に涙を溜めながら、ノアに訴えかける。
「…すまない…」
「……そんなの嘘です!!あんまりです、陛下!皇后陛下のことを思い出したからですか?私のことが好きだと、あんなにおっしゃっていたではありませんか!!」
イザベルの頬を大粒の涙が伝っていく。
「あの時の俺は…どうかしていたんだ…。だが、お前とその子の面倒は一生見るつもりだ。お前が望むのなら、相応しい新たな相手を見繕おう。ただ……その子供は……俺と皇后の子として、育てていくことになるだろう」
イザベルの肩が小さく震えた。
瞳の奥に、焦りとも怒りともつかない熱が灯る。
「……陛下……私、陛下が何をおっしゃっているのか……分かりません……」
彼女は震えを押さえるように、膝の上で拳を握る。
ノアは深くため息をついた。
「俺は――ルシェルを愛している」
その言葉を聞いた瞬間に、イザベルはすっと立ち上がり寝室を飛び出した。
***
(陛下は……皇后を選んだ……?私ではなく……?そんなわけないわ……)
目の前が霞み、歩みは覚束ない。
そのとき、角を曲がった拍子に、人影が見えて咄嗟に避けようとしてよろめいた。
「きゃっ……」
目の前に現れたのは、黒い外套をまとった女だった。
艶やかな黒髪が闇のように揺れ、自分と同じ赤い瞳がじっと見つめてくる。
女はゆっくりとイザベルの頬にかかる髪を指先で払った。
「たった数ヶ月も持たないとは……本当に情けない」
「…え?」
「私はモルガン。あなたと同郷の者よ」
「あなたは誰なの……?……何を言ってるの?」
「本当はわかっているでしょう?」
「……何を言っているのかわからないわ」
「忘れたの?あの夜を。炎に包まれた村をーー」
脳裏に焼き付いていた光景が、鮮やかに蘇る。
燃え上がる炎、引き裂かれる母の手、血と人間が焼ける匂い。
――ただ一人生き延びた幼い自分。
「……やめて……」
「あなたは名を偽り、血を隠し、怯えながら生きてきたーーそうでしょう?けれど、どうやっても血は消せないのよ。あなたが魔女であることは覆りはしない」
「……あなたは一体誰なの……?確かにあの日に……みんな死んだはずよ……」
「私はモルガン。あなたの先祖にあたる魔女、とでもいえばいいかしら?」
「……先祖?どういうこと?」
「とにかく、私はあなたの仲間ということよ」
「……」
「まあいいわ」と言い、モルガンと名乗る女性はイザベルを憐れんだ表情で見つめる。
「かわいそうに。あなた、皇帝が自分を愛していると思っていたのね」
彼女の甘い声が、耳を灼くように忍び込む。
イザベルは息を呑んだ。
「…なにを…」
モルガンは呆れたようにため息をついた。
「全てあなたの間違いよ。あなたは初めから愛されてなんていなかったわ」
「…そんなはずないわ!!私は……陛下に選ばれたのよ!!」
イザベルの唇が震える。
女は微笑んだ。
だがその笑みには、慈悲のかけらもない。
「信じなくてもいい。でもこれは事実なのよ。このままでは、あなたは皇后にすべてを奪われるわ。やっとできたこの居場所すらもね。ここは本来あなたがいるはずのない場所ですもの」
イザベルの胸がざわついた。
(全て奪われる……?居場所を……失う……?)
女の指が、イザベル頬を撫でる。
「選びなさい。このまま皇帝に無情に捨てられ、皇后に子供を奪われ、哀れに生きていくのか。それとも、あなたがこの国の最も高貴な女性になるのかを」
その囁きはまるで悪魔の契約のようだった。
「皇后にすべてを奪われる……居場所を失う……」
その言葉が胸の奥で反響し、イザベルの赤い瞳に不安と怒りが入り混じった光が宿る。
(私は…陛下に選ばれたはずなのに…。あの方を死の淵から救い、慰め、心を繋ぎ止めたのは…この私なのに…。どうして?皇后陛下は全て持ってるのに…私には陛下しかいないのよ…)
だが同時に、ノアの冷たい言葉が脳裏をよぎる。
《俺は、ルシェルを愛している》
その言葉がまるで処刑宣告のように、イザベルの心に重くのしかかっていた。
モルガンは彼女の内心を見透かすように、さらに言葉を重ねる。
「あなたはもう気づいているはず。皇帝はあなたを“責任”としてしか見ていない。今の皇帝があなたに求めているのは、腹に宿っている子を無事に産むことだけよ。愛しているのは皇后。それだけよ」
「やめて……!!」
イザベルの声はかすかに震えた。
「でも、方法はあるわ。あなた次第よ」
モルガンの声は甘やかに、しかし底冷えする響きを帯びていた。




