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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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034 全ては精霊の導きが故に


ーー南方の使節団が宿泊している客殿の一室。


ゼノンは窓辺に立ち、夜空を仰いでいた。

彼の周りには銀色の蝶が舞っている。


「…殿下、眠れないのですか?」


レイセルがそっと声をかける。

彼は書簡を机に置き、一礼する。


「…あぁ」


ゼノンは静かに答え、窓硝子に映る自らの影をじっと見つめた。


レイセルは少し眉を曇らせた。


「……皇后陛下のことをお考えですか?」


「……」


ゼノンはしばらく黙していたが、やがて低く答えた。


「……皇帝が倒れた時、彼女は俺の手を払いのけて、真っ先に駆け寄られた……。まるで俺など見えてないかのようにな……」


言葉は淡々としているが、内に揺れるものは隠しきれない。

レイセルは、主の拳が窓枠を強く握りしめているのを見逃さなかった。


「皇后陛下にとって、あの方は……」


「あぁ、わかっている」


ゼノンは自らの言葉で断ち切るように答えた。


「……殿下。皇后陛下は、あの瞬間、ご自身の心に正直に動かれたのでしょう。皇后陛下にとって皇帝陛下は、長く寄り添った唯一無二の伴侶。なので、あの状況は仕方なかったことです」


ゼノンの肩が小さく震えた。

握りしめた拳から、節の白さが際立つ。


「……ああ。お前の言うとおりだな」


ゼノンはそれ以上、何も言わなかった。


***


ーー夜も更けた頃、宮殿の広間。


セリスは月明かりの下で静かに佇み、広間で月明かりに照らされた精霊たちの壁画を見つめていた。

ゼノンは少し距離を置き、足音を忍ばせながら近づく。


「セリス」


「これは、王子殿下。こんな夜更けに、何かご用でしょうか?」


「……君と話がしたくてな」


ゼノンの声は低く、しかし柔らかく響く。


「彼女のことだが……」


セリスは軽く息を吐き、月光に照らされた輪郭がわずかに緩む。


「……やはり、皇后陛下のことで悩んでいるのですね」


「……あぁ」


ゼノンは、精霊たちの壁画を見つめながら険しい表情になる。


「殿下…人の心は、潮のように満ち引きします。見えるものだけが全てではありません。あなたが今何を考えているのか分かりませんが、その悩みもまた精霊の導きなのでしょう」


ゼノンはその比喩に、小さく笑みを漏らす。


「……君の精霊信仰は相変わらずだな、セリス。俺が怖れているのはな、もし俺がここにいることが彼女の心を惑わし曇らせるのであれば――それは俺の傲慢に過ぎないということだ。彼女の幸せを願うと言いながら、己の欲を満たしているに過ぎないのだから。そうだろう?」


「……そうですね。ですが、あなたの想いも大切ですよ。あなたが彼女のそばにいることを望むのであれば、彼女のために何を為すか、どのように振る舞うか──それが誠意の尺度となるでしょう」


ゼノンはしばらく考えを巡らせる。


「ですが、もし、あなたが彼女の元を去ることを選ぶのなら、去る時にも誠意を持って去ることです。どちらにしても、これから先の選択は、全てはあなたの想い次第ということですよ」


「だが、彼女を困らせたくはないんだ…」


「殿下。揺れる心を持つ人に、完璧な心の安定を与えようとするのは酷です。むしろ、相手が揺れるのを見守る勇気も必要なのですよ。あなたは、あなたの誠意を示し続ける。その誠意が、彼女にとって一つの拠り所になれば、彼女が未来を選ぶための力になるのではないでしょうか?」


ゼノンは眼差しを遠くへ向けたまま、セリスの言葉を反芻する。


「誠意の示し方次第で、それは押し付けにもなるだろう?」


「押し付けと誠意の違いは、相手の尊厳を侵さぬかどうかにあります。あなたがどれほど何かを強く願っていても、相手の選択を脅かしてはならない。分かりやすくいえば、相手の”選ぶ自由を奪わぬ配慮”が大切なのです」


ゼノンはやっとセリスに顔を向ける。


「そうだな。君はいつも正しい」


「私だって間違えることはあります。ですが、それもまた精霊の導きであり、我々が生きている証なのです」


セリスは優しく微笑む。


「加えて、私から一つだけ助言をーー。心が動くとき、人は言葉より先に行動を取ることがあります。あなたの行動は、彼女を安心させることも、不安にさせることもある。何かをするときは、その行動に裏打ちされた言葉を添えることを、どうか忘れないでください」


ゼノンは短く笑い、頷いた。


「ありがとう、セリス。君の言葉はいつも俺の救いになる」


セリスは柔らかく頭を下げる。


「恐れ多いお言葉です」


二人はしばらく言葉を交わさず、ただ精霊たちが描かれた壁画を見つめていた。

回廊に差し込む光が少しずつ増し、ゼノンの胸にあった重さが、風に流されるように和らいでいくのが感じられた。


***


——美しい花々が咲き誇ってる。


神殿のような場所に、光り輝く銀色の蝶たちが舞っている。

そして、目の前にひざまずく騎士の影がひとつ——顔は見えない。

ただ、低く澄んだ声だけが胸に刺さる。


『この花は…あなたの瞳の色と同じですね』


ルシェルは細い息を吐いて目を開けた。

胸もとに指を当てると、鼓動が速い。


夢の名残は微かな温度となって指先に残り、消えない。


(…夢…だったの…?)


「……ルシェル」


掠れた声に、彼女は目を上げた。

ノアの寝室で看病しながら眠ってしまっていたようだ。


「ごめんなさい、私も眠っていたみたい…。あなたも起きたのね。喉は渇いていない?」


「ルシェル……話を、聞いてほしい」


名前を呼ばれることに、懐かしさすら感じてしまっている自分が、少し可笑しかった。

ノアは上体を起こし、迷いの残る手で彼女の指を取った。


「…また…思い出したんだ。記憶をなくしている間に、俺が君にしてきたことを…」


ルシェルは短く息を飲み、ゆっくりと杯を卓に戻した。

金の縁が木に触れて、小さく澄んだ音が鳴る。


「……そう」


ノアは顔を歪める。

悔恨の色が、口元の影に濃い。


「本当にすまなかった…。どう謝っても許してもらえないかもしれない…だが謝ることしかできない。本当にすまない」


ノアはルシェルの目を見ることができず、ルシェルはそんなノアを見ているのが辛かった。

ノアが言いづらそうに続ける。


「だが——あの時、崖の下に落ちたとき。俺は…イザベルに救われたのだろう?」


「ええ、そうみたいね」


「……それに、彼女が俺の子を授かったと聞いた時……、俺は…本当に嬉しかったんだ…」


時間が止まったようだった。蝋芯がぱちりと弾ける音が、やけに遠い。


「…ええ、そうでしょうね。わかっているわ」


ルシェルは微笑の形に口角を持ち上げた。

けれど頬の筋は固く、胸の奥で何かが静かに軋む。


「……ルシェル、聞いてくれ。イザベルには感謝しているし、子供のことももちろん嬉しい。……あの時の俺にとって、イザベルの存在は確かだった。否定することはできない……すまない……。だが、俺が愛しているのは、本当に君だけだ…ルシェル」


「話してくれて、ありがとう」


(本当に残酷な人。あまりにも誠実で……そして、優しすぎる。だからあなたは残酷なのよ)


「ノア、あなたはきっといい父親になるわ」


ノアは言葉を失った。


「…誤解しないでくれ。俺は、君と……もう一度、以前のように笑って過ごしたい。俺の妻は…この国の皇后は…君だけなんだ…ルシェル」


言葉は真っすぐだった。

だが、その真っすぐさが、今は刃のように胸に触れる。


ルシェルは寝台の覆いを整え、彼の喉元まで静かに掛けた。

視線はやさしく、声音は均されたまま。


「私は、あなたを愛していたわ。誰よりも、何よりも——。それでも、今の私には…もう前と同じようにあなたを思うことは…難しいわ。あなたが私を忘れていたあいだ、私はあまりにも辛かったから」


「……ルシェル」


「…ただ時間が欲しいの」


燭の火がふっと揺れ、ふたりの影が壁で離れ合う。

ノアはその揺れを見て、目を閉じた。


「…時間が経てば…以前のように戻れるのか?」


「……」


短い沈黙。

ルシェルは水差しを取り、杯に少しだけ注いで差し出した。


「…さあ、お水を飲んで。熱は、昨夜より下がっているわね。明日また宮廷医を呼ぶわ」


「……ああ」


ノアは受け取り、口縁に触れた。

飲み下す動きが喉を渡り、肩の力がわずかに抜ける。

杯が再び卓に戻る音。彼はそのまま視線を落とし、低く続けた。


「イザベルにはーー俺から話をする。責任は俺にある」


「何を話すというの?彼女はあなたを救い、あなたの子供を孕っているのよ」


「わかっている…。それでも、俺はルシェルを愛していると…言っておかなければ…」


「…今夜はもう休んで。……明日、またくるわ」


「…あぁ、わかった」


「おやすみなさい、ノア」


「おやすみ、ルシェル」


扉が静かに閉まると、回廊の冷気が頬に触れた。

喉の奥で小さく息を噛み、ルシェルは掌を握りしめる。

脈が整うのを待ってから、歩き出した。


ノアとやり直す幸せを願う心と、ゼノンの言葉を思い出してしまう心。

その二つの間で揺れる自分に、ルシェルは静かに唇を噛んだ。

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