033
ーー同じ頃、寝室。
ノアは横になったまま、しばらく天蓋の影を見つめていた。
扉の外で衣擦れの音。
控えていたイザベルが、そろりと一歩入る。
「陛下……お目覚めだと聞いたので…」
その声はかすかに掠れている。
「来たのか」
ノアは起き上がり、手近の外衣を肩へ掛けた。
「座ってくれ」
イザベルはおずおずと寝台脇の椅子に座る。
「…お加減は…いかがですか?」
「問題ない。医官の言うとおり、休めば大丈夫だ」
一拍置いて、ノアは視線を合わせた。
「イザベル……話がある」
「……はい」
「…まず、礼を言う。これまで、お前には本当に救われてきた。そのことは決して忘れない」
イザベルの表情が固くなる。
そして、ノアは続けて厳密な線を引くように続けた。
「同時に、明確にしなければならない。俺の妻はルシェルだ。――もう一度、彼女と向き合いたい」
沈黙が落ちる。
蝋燭の火がぱち、と小さく揺れ、影が壁を震わせた。
「私は…?」
イザベルが唇を噛み、続けて言葉を引き出す。
「この子は…?陛下の子は……?」
「子供は必ず守る」
ノアは遮らず、しかし重ねた。
「もちろんお前の身も。住まいを整え、専属の医師と侍女を手配しよう。必要なものは申すがいい」
「……陛下は私が嫌いになったのですか…?」
イザベルは大きな赤い瞳に涙を溜めながら、ノアに訴えかける。
「…すまない…」
「…そんなの嘘です!!あんまりです、陛下!皇后陛下のことを思い出したからですか?私のことが好きだとあんなにおっしゃっていたではありませんか!!」
イザベルの頬を大粒の涙が伝っていく。
「あの時の俺は…どうかしていたんだ…。だが、お前とその子の面倒は一生見るつもりだ。お前が望むのなら、側室から外して新たな相手を見繕おう。ただ、その子供は…俺と皇后の子として、育てていくことになるだろう」
イザベルの肩が小さく震えた。
瞳の奥に、焦りとも怒りともつかない熱が灯る。
「…陛下、私…陛下が何をおっしゃっているのか…分かりません…」
彼女は震えを押さえるように、膝の上で拳を握る。
ノアは苦い息を吐いた。
「俺は――ルシェルを愛している」
イザベルはすっと立ち上がり寝室を飛び出した。
***
廊下に出たイザベルは、胸の奥で渦巻く熱を抑えきれずにいた。
(陛下は……皇后を選んだ……?私ではなく……?そんなわけないわ……)
目の前が霞み、歩みは覚束ない。
そのとき、角を曲がった拍子に、人影が見えて咄嗟に避けようとしてよろめいた。
「きゃっ……」
目の前に現れたのは、黒い外套をまとった女だった。
艶やかな黒髪が闇のように揺れ、自分と同じ赤い瞳がじっと見つめてくる。
女はゆっくりとイザベルの頬にかかる髪を指先で払った。
「たった数ヶ月も持たないとは…本当に情けない」
「…え?」
「私はモルガン。あなたと同郷の者よ」
「…何を言ってるの?」
「本当はわかっているでしょう?自分が何者かーー」
「…何を言っているのかわからないわ」
「忘れたの?あの夜を。炎に包まれた村を。“魔女”として断罪された夜をーー」
脳裏に焼き付いていた光景が、鮮やかに蘇る。
燃え上がる炎、引き裂かれる母の手、血の匂い。
――ただ一人生き延びた幼い自分。
「……やめて……」
「あなたは名を偽り、血を隠し、怯えながら生きてきた。そうでしょう?けれど、どうやっても血は消せないのよ」
「…あなたは一体誰なの…?確かにあの日に……みんな死んだはずよ」
「私はモルガン。あなたの先祖にあたる魔女といえばいいかしら?」
「…先祖?どういうこと?」
「とにかく、私はあなたの仲間ということよ」
「……」
「まあいいわ」と言い、モルガンと名乗る女性はイザベルを憐れんだ表情で見つめる。
「かわいそうに。あなた、皇帝が自分を愛していると思っていたのね」
彼女の甘い声が、耳を灼くように忍び込む。
イザベルは息を呑んだ。
「…なにを…」
モルガンは呆れたようにため息をついた。
「全てあなたの間違いよ。あなたは初めから愛されてなんていなかったわ」
「…そんなはずないわ!!私は……陛下に選ばれたのよ!!」
イザベルの唇が震える。
女は微笑んだ。
だがその笑みには、慈悲のかけらもない。
「信じなくてもいい。でもこれは事実なのよ。このままでは、あなたは皇后にすべてを奪われるわ。やっとできたこの居場所すらもね。ここは本来あなたがいるはずのない場所ですもの」
イザベルの胸がざわついた。
(全て奪われる……?居場所を……失う……?)
女の指が、イザベル頬を撫でる。
「選びなさい。このまま皇帝に無情に捨てられ、皇后に子供を奪われ、哀れに生きていくのか。それとも、あなたがこの国の最も高貴な女性になるのかを」
その囁きはまるで悪魔の契約のようだった。




