033
ーーノアの寝室。
「ありがとう、カイン。助かったわ」
「いえ、私は自分の勤めを果たしただけですので」
カインは、ノアが幼い頃から信頼している護衛の一人だ。
ノアの診察を終えた宮廷医は、怪訝そうな顔をしている。
「陛下は大丈夫なの…?」
ルシェルが不安そうに聞く。
「はい、皇后陛下。陛下は疲れが溜まっておられたのかと思われます。睡眠も十分に取れていないようですので、しばらくの間は、どうか安静にして下さいますよう……」
「…そう、わかったわ。ありがとう」
しばらくして、ノアの瞳がゆっくりと開いた。
その瞬間、ルシェルの顔を見つめ、わずかに微笑む。
「……ルシェル……?」
声は弱々しいが、確かに彼女を認識していた。
(……今、ルシェルって言ったの……?)
「……陛下……私のことが…わかるのですか……?」
ノアが不思議そうな顔をしている。
「……なんだ、陛下だなんて……他人行儀だな。どうしたんだ…ルシェル?」
「…まさか…」
ルシェルは驚きを隠せない。
「宮廷医!どういうことなの!?陛下は…ノアは…記憶が戻ったの…!?」
宮廷医も驚いている。
「……そ、そのようです……皇后陛下。私にも、何が何だかさっぱりでして……」
「…ルシェル…?一体どうしたんだ……?大丈夫か……?」
「…ええ、ノア……大丈夫よ…」
ルシェルはしばらくの間嬉しさに浸ったが、ゼノンのことが頭をよぎった。
(さっき…彼の手を振り解いてしまったわ…)
「陛下…大丈夫ですか…?心配しました、急に倒れられて…」
イザベルがノアに声をかけると、ノアは一瞬頭を抱えて、「イザベル…?」と彼女の名を呼んだ。
「はい、陛下のイザベルですよ!」
ノアは何かを思い出したかのように、顔面蒼白になった。
「……そんな……俺は……なんてことを……そんな…まさか…」
ノアが急に涙を流し、言葉を失う。
「…ノア、大丈夫?」
ルシェルがノアに声をかけると、ノアはルシェルの腕を掴み、抱き寄せた。
「…ルシェル…ルシェル…すまない…。俺はなんてことを……」
ノアは涙を流しながらルシェルに謝り続けた。
「陛下はきっと、急に記憶が戻ったことで混乱されているのでしょう…」
宮廷医が静かに囁く。
「……皆……申し訳ないのだけれど、私と陛下を二人きりにしてくれないかしら」
カインや宮廷医は「はい、皇后陛下」と頭を下げて寝室を出ていった。
だが、イザベルだけは留まろうとした。
「……なぜ私まで追い出すのですか!?私も陛下のおそばに居させて下さい!」
「……」
ルシェルはノアを見る。
「……イザベル。ルシェルと二人きりで話したいんだ…」
ノアがイザベルにそう言うと、イザベルは力が抜けたようにしゃがみ込んだ。
「ユリアナ……イザベルを支えてあげてちょうだい」
「はい、皇后陛下。イザベル様、私につかまってください」
ユリアナに支えられて、イザベルは寝室をあとにした。
ノアはルシェルの胸に顔を埋めながら、心の奥で小さく震えていた。
彼女の心臓の鼓動が、頬に温く伝わる。
髪の間からかすかなライラックの香りが立ちのぼり、ノアは思わず目を閉じた。
彼の抱きしめる腕の強さに、胸の奥まで満たされる。
けれど同時に、庭園でゼノンと交わした静かな時間、彼の微笑み、彼の真剣な眼差しーーその全てがどうしても脳裏から離れなかった。
(ノアが……私の知ってるノアが……やっと戻ってきた……。これ以上の幸せなんてないはずなのに……どうして……ゼノン様のことを考えてしまうのかしら……)
「……本当にすまない……ルシェル……。どうか……俺を許してくれないか……」
その声は、弱くて、幼子のように不安げだった。
「ノア……」
唇が震える。
言葉にすれば簡単なのに、胸に溜まった罪悪感が喉を塞ぐ。
――私はノアを愛している。
――でも、ゼノンを想う心も消せない。
ルシェルは目を閉じ、彼の胸に顔を寄せた。
「……仕方ないわ。だってあなたは事故で記憶をなくしただけだもの…」
「……だが、ルシェルを傷つけたことに変わりない……」
その言葉に、ルシェルの胸は強く締め付けられた。
ノアの謝罪は深く誠実で、彼の痛みと悔恨の重さが伝わってくる。
「…ひとまず、宮廷医が言うには疲れが溜まっているそうだから……ゆっくり休んで。そして、起きたらまた話しましょう……」
「…あぁ」
ノアはルシェルの態度が、これまでとは違うことに気づいていた。
自分を見つめるルシェルが、かつてのルシェルとは別人であるように見えた。
扉の外では、イザベルが息を詰めるように立っていた。
ルシェルが去った後、彼女はすぐに部屋に入る。
「……陛下、お加減は…?」
「…あぁ、大丈夫だ」
ノアは淡々と答えた。
心ここに在らずのようだった。
(陛下が私を見てくれない…)
「すまないが、休ませてくれ」
ノアがイザベルに背を向け、布団の中に入る。
「…はい、陛下」
イザベルはとても不安になった。
――私を、見てくださらない。
もしかしたら、自分はこのまま捨てられるのではないかーー。
(だめ……このままでは……)
イザベルは唇を強く噛んだ。
胸に広がる焦燥が、静かに彼女を追い詰めていった。




