003
ヴェルディア帝国の宮殿は、朝の光に包まれていた。
広々とした回廊を抜けると、奥には皇帝と皇后の私室がある。
「ルシェル、もう少し寝ていてもいいんだぞ?」
優しく囁く声に、ルシェルはうっすらと瞼を開いた。視界に映るのは、淡い光を受けたノアの顔。彼は金色の髪を少し乱しながら、ルシェルの頬にそっと触れた。
「だめよ。皇后としての朝の務めがあるもの」
ルシェルは静かに微笑みながら起き上がる。けれどノアは彼女を引き寄せ、その額に軽く唇を落とした。
「お前はいつも真面目だな」
「当然でしょう?皇帝陛下の妻なのだから」
ルシェルは愛らしく言いながらも、ノアの腕の中に留まったままだった。
ノアとルシェルが幼い約束を交わしてから月日は流れ、2人は14歳の時に正式に婚約した。そして、2人が18歳の時、先代皇帝が病で崩御し、ノアが即位すると同時に結婚した。それはそれは華やかで盛大な結婚式だった。
2人は恋愛関係で結ばれたわけではなかったが、それでも互いを慈しみ支え合い良き友として、そしてよき夫婦として確実に愛を深めていった。
誰もが夜空に浮かぶ星々のように、2人の未来は輝かしいものだと信じて疑わなかった。
だが、この幸福が永遠に続かないことを、二人はまだ知らなかった——。
***
ーー結婚してから4年が経った。
ヴェルディア帝国の皇帝と皇后として、二人は幾多の困難を乗り越えながらも、寄り添い支え合っていた。ノアは公務に追われながらもルシェルとの時間を大切にし、彼女もまた、皇后としての務めを果たしながらノアを支えていた。
しかし、そんな穏やかな日々の中で、一つの問題が二人の間に影を落とし始めていた。
それは、世継ぎの不在。
結婚して数年が経つが、ルシェルにはまだ子が授かっていなかった。最初のうちは焦ることはなかったものの、皇帝の血を継ぐ者を求める声は次第に大きくなり、側近や貴族たちはノアに側室を迎えるよう強く勧めるようになっていった。
「陛下、このままでは王統が危うくなります。側室をお迎えするべきかと……」
「くだらん。ルシェル以外の女性を迎えるつもりはない」
ノアは強く否定し、ルシェルとの愛が揺らぐことは決してないと宣言した。しかし、重圧は日に日に増していった。ルシェルもそれを感じていながら、ノアの想いを信じ、耐え続けていた。
そんなある日、事件は起こった。
ノアが隣国との外交のために出向いた帰り道、馬車が突然暴走し、崖下へと転落する大事故が発生したのだ。
知らせを受けた宮殿内は大混乱し、急いで捜索隊を派遣した。ルシェルは探しに行きたい気持ちを堪え、皇帝不在の政務を代行した。心が引き裂かれるような思いだった。
ーーそして数日後。
崖の下でノアは奇跡的に一命を取り留め、宮殿に帰ってきたものの、目覚めたとき、彼の記憶からルシェルの存在だけが消えていた。
代わりに、彼のそばには一人の女性がいた。イザベル。
彼女は平民でありながら、事故現場で瀕死のノアを助けた人物だった。
「皇帝陛下、大丈夫ですか?」
不安げな瞳でノアを見つめるイザベルに、彼はなぜか懐かしさと安堵を感じた。
「……君は?」
「私はイザベルと申します。崖の下で偶然あなたを見つけて……」
ノアは自分の中にぽっかりと空いた穴を埋めるように、彼女の存在を受け入れた。
そして、それが運命のように思えた。
ルシェルは、ノアが目覚めたことを知り急いで駆けつけたが、ノアはルシェルには見向きもせずイザベルを愛おしそうに見つめていたのだった。
「陛下、大丈夫ですか?とても心配したのですよ。私のことがわかりますか?」
ルシェルは涙を流しながら安堵の表情でノアの手を握った。
「君は誰だ....?急に手を握るなど、無礼であろう」
「陛下....?」
ノアはルシェルの手を振り解いた。
「どうやら、陛下は皇后陛下に関しての記憶をなくされているようです」
宮廷医がルシェルに告げる。
「.....記憶をなくしている?それはいつ戻るの?」
「申し訳ございません、皇后陛下。私にも分かりかねます.....」
(ノア....きっと記憶は戻るわよね....)
その日からルシェルは、ノアに頻繁に会いに行き話をしたが、一向に記憶が戻る気配はなかった。
「皇后様、陛下はきっと記憶を取り戻されます!だから諦めずに耐えましょう」
侍女のエミリアが心配そうに見つめてくる。
「そうね。きっと大丈夫よ」
そして、ルシェルの思いとは裏腹に、ルシェルの記憶を失ったノアはイザベルに惹かれ、やがて彼女を愛するようになっていった。