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029


光華祭の熱狂は夜を迎えてなお収まらず、絹を纏った楽師たちが竪琴を爪弾き、

葡萄酒の香りが甘く漂う。


各国の使節団とヴェルディア貴族が混ざり合い、杯を掲げては笑い合う。

その賑わいの只中で、ひときわ静かに佇む影があったーー藍だ。


琥珀の杯を細い指に挟み、静謐な眼差しを広間に巡らせる。

やがて藍は口を開いた。軽やかに、けれど確かに場の空気を攫う声音で。


「そういえば……アンダルシア王国では、”暁蝶”という蝶が、特別な意味を持つそうですね」


会話のざわめきがすっと静まり、耳が傾けられる。


「暁蝶……?」と、ある貴族が小声で繰り返す。


藍は杯を置き、まるで物語を語る吟遊詩人のように微笑んだ。


「《黎明に現れし暁蝶。翼に白銀の光を宿し、空へ舞い上がるその姿は”魂を結ぶ印”なりーー》」


「羽根は雪のように白く、月光に照らされてその姿は銀色に輝く。古き伝承では、暁蝶が舞い降りし時に結ばれた魂は、共に来世へと導かれると……」


ざわめきが波紋のように広がる。

藍 はさらに言葉を重ねた。


「けれど、その契りは長くは続かぬとも。暁蝶が消える時、必ず別れが訪れる……。しかし――長い時を超えて、暁蝶はまた朝を告げる。来世で、二人は再び出会い、同じ契りを結ぶーーと」


ルシェルの胸がどくりと鳴った。


(何…?)


心臓を鷲掴みにされたような痛みと同時に、脳裏の奥で白い光が揺れる。

蝶の翅のきらめき、温かな笑顔、手を取り合う女性と背の高い男性。

ーーけれど、二人の顔は霞んではっきりと見えない。


そこへ追い打ちのように、藍 の声が響く。


「そういえば――、皇后殿下もアンダルシアの王子殿下から、暁蝶を模した飾りを賜ったそうですね?」


ーーその瞬間、広間の空気が凍りついた。


(なぜ彼がそれを…まさか…)


ルシェルは顔が引き攣った。


「……なんと」

「暁蝶の髪飾りを……アンダルシアの王子殿下から?」

「暁蝶といえば、今しがたの伝承の……」

「お二人がそんなに深い関係だとは……」


囁きが渦を巻く。


人々の視線が一斉にルシェルとゼノンへ注がれた。

ルシェルの頬が血の気を失い、思わず胸元に手を当てる。

秘密にされるはずだった小さな贈り物――それがこうして衆目に晒されるなど。


「……っ」


声にならぬ吐息を漏らすルシェルの様子に、ゼノンは藍を鋭く睨みつけた。

だが、彼はその場で声を荒げることはしない。

杯を置き、にこやかに見える笑みを浮かべたまま――

しかし、その掌は白くなるほど拳を握り締めていた。  


藍 はあくまで無垢な顔で微笑んでいた。


「失礼しました……場を和ませるつもりだったのですが…。暁蝶は美しく貴き絆の象徴。皇后殿下に相応しい逸話だと思いましたので…」


ゼノンの胸の内で煮えたぎるのは激怒。


(あれは…俺と”彼女”だけの……なぜ、他人の口で弄ばれなければならないんだ!)


彼の脳裏に、過ぎ去りし時の記憶がよみがえる。

薄明の空に舞う暁蝶の群れーー愛らしい笑顔で自分の元に駆け寄る彼女。

そして俺は、彼女の手を取りーー。


ゼノンは杯を指先で弄びながら、わざと軽やかな調子で言葉を重ねた。


「暁蝶の話をするとは。あなたは実に趣深く、我が国の伝承にもお詳しようだ。『黎明に舞い降り、契りを結び、そして死を超えて再び出会う』……でしたか?」


場内がひたりと静まり返る。

藍 は怯むまいと扇を口元に当てたが、その手はわずかに震えていた。

ゼノンは一歩、また一歩と藍に近づき、笑みを深めた。


「ですが――その伝承は、アンダルシア王国の王家に古より伝わる神聖なもの。精霊の誓いにすら比せられるほどのものです」


低い声が次第に鋭さを帯びる。


「……それを、酒の席での戯れのように持ち出し、ましてや……あなた如きが皇后陛下を語るとはーー」


杯が床に落ち、赤い雫が弾けた。


「璃州国は――我がアンダルシアを侮辱する気ですか?そう受け取ってもいいのでしょうか?」


笑みを張りつかせたままの声には、冗談めいた余裕と、冷酷な威圧が入り混じっていた。


(怒っている彼を見るのは初めてだわ…)


初めて見るゼノンの怒りに、ルシェルは驚いていた。


藍は凍りつき、周囲の使節団たちは誰ひとり息を呑む以外のことができなかった。


「…そんな、私は貴国を侮辱する気など…」


「では、どのようなおつもりで?」


「…ですから…私はただ、場を和ませようとしただけで…」


「この場が和んだように見えるのでしたら、あなたはとても目が悪いようですね」


「…」


藍はもう何も言い返せなかった。


「…申し訳ございません、王子殿下。藍様に悪気はないのです。どうかご容赦くださいませんか…」

「その通りでございます!私どもは、決してアンダルシアを侮辱するつもりなどございません!」


璃州国の使節たちが口々にいう。


ゼノンの怒りに満ちた表情を見ながら、ルシェルもまた、胸の奥で微かな記憶の扉が開きかけていた。


(なぜか……私もあの伝承を知っている気がする…。光に包まれた朝、蝶が舞い、誰かが私の手を……誰……誰なの?)


ルシェルは突然頭痛に襲われる。


「…皇后陛下!大丈夫ですか?」 エミリアがルシェルにそっと声をかける。


「ええ、大丈夫よ…。少し気分が悪いだけ」


その様子に、イザベルの侍女であるユリアナが咄嗟に水を渡す。


「皇后陛下、こちらをどうぞ」


「ありがとう、ユリアナ」


「いいえ、お顔の色が優れませんね。どうか、ご無理なさいませんよう」


「ええ、助かるわ」


ユリアナは心配そうにルシェルを見ていた。

イザベルは気に入らないと言った表情でユリアナに声をかける。


「あなたは私の侍女でしょう?私にも飲み物を頂戴」


「申し訳ありません、イザベル様…。こちらをどうぞ」


ユリアナは慌てて飲み物を渡す。


周囲の囁きはますます膨れ上がる。


「あんなに怒るということは、やはりアンダルシアの王子殿下と皇后殿下が……?」

「馬鹿な……たかが伝承であろう?」

「ですが、王子殿下は皇后陛下に、ギンバイカの花冠も渡していましたし…」


そのざわめきを、ノアの低い声が断ち切った。


「――くだらぬ、たかが贈り物如きで騒ぐでない」


氷の刃のような声音。

ノアは冷然と一同を冷たい目つきで見渡した。

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