017 再会
夜が深まりゆくにつれ、宮殿の空気はさらに張りつめていった。
だが、その張りつめた静けさの中に、ルシェルはひときわ異質な気配を感じていた。
それはかつて胸の奥に宿った淡い光が、再び微かに灯るような感覚だった。
月が天頂に昇る頃、ルシェルは庭園へと歩みを進めた。
空気は冷たく澄んでおり、月光が石畳を銀色に照らし出している。
音もなく、風もない夜ーー。
けれど不思議なことに、草の香りとともに、かすかな気配が確かに肌に触れる。
庭園のライラックの前で、闇をまといながらも月の光をその身に受けて立つゼノンの姿があった。
青と銀の礼装に身を包み、深い夜の闇を全て払いのけてしまうような青い瞳。
「…ゼノン様」
目の前にいる彼が、夢ではないと確かめるように、一歩だけ前へ進んだ。
「…無事到着されたようで……何よりです。アンダルシアからの長旅、お疲れ様でした」
「ありがとうございます。来てくださって嬉しいです。早くルシェル様に会いたくて、急いできましたので…」
「ええ、お手紙ありがとうございました」
ゼノンはゆっくり手を差し出した。
「少し…歩きませんか?」
その手を、ルシェルはしばらく見つめた。そして、少し躊躇いながらも彼の手を取った。
隣で寄り添うように歩いている。だが、決して越えてこない。これ以上はない。
「私がいない間、お変わりありませんでしたか?」
ゼノンの問いかけに、ルシェルは目を伏せた。
「ええ。いつもと変わらぬ日々でしたよ」
「そうですか…。私は……ルシェル様のことを思わない日はありませんでしたよ」
彼の声は静かだった。
けれど、その一言が胸を打つ。
「ルシェル様が笑っているか、誰かにいじめられてはいないか、また一人で泣いていないか……そればかり考えていました」
ルシェルは俯く。
「私も…あなたのことを、よく思い出していました」
唇が自然に動いていた。言葉が漏れた瞬間、自分も驚いた。
ゼノンは静かに微笑んだ。
その瞳には、慈しみと、切なさと、言葉にできない何かが揺れていた。
「この庭園は、あなたの心を映しているようですね。静かで、優しくて、そして…どこか少し寂しい」
「……寂しい…ですか…」
ルシェルは視線を遠くに向けた。
噴水の水音が、ふたりの間の沈黙をやさしく包み込む。
「明日からは、また忙しくなりますね」
ゼノンは足を止めて、振り返った。
「ええ……」
ルシェルは微笑んだ。
銀色の蝶が、再び夜空を舞ったのは、その直後のことだった。
ーー庭園の片隅で、ルシェルとゼノンは並んで腰かけた。
距離は保たれていたが、互いの体温が伝わりそうなほどの近さだった。
「……春の夜は、なんだか少し名残惜しいですね」
ルシェルの言葉に、ゼノンがそっと頷く。
「この国の春は、香りが深いです。風の中に、精霊の名残があるようにも感じます」
「精霊の名残…?」
「ええ。かつてこの地に多くの精霊たちがいた頃の名残が…この国の風に染みついている。今はもう誰もそれを知ることはできないけれど…」
ゼノンの声にはどこか懐かしさがあった。
まるでそれを、知っているかのように。
「ゼノン様は…不思議な方ですね」
「そうでしょうか?」
「……時々、すべてを知っているかのような眼をなさいます。私の心の奥底まで見透かされているような……そんな気がします」
彼は少し視線を落とし、静かに笑った。
「あなたの心に触れたいと願うから、自然とそう思われるのかもしれません。けれど、私にはさっぱりですよ……ただあなたを知りたりと思うだけで……本当はあなたのことを、何もわかってはいないのです」
ルシェルは返す言葉がなかった。
ゼノンがふと、彼女に視線を向けた。
「ルシェル様は、まだ…皇帝陛下を愛していらっしゃいますか?」
唐突な問いかけにルシェルは少し動揺した。今のルシェルには答えづらい質問だった。
ふと、ユリアナの言葉を思い出す。
『揺らぎがあるということは、そこになんらかの感情がある証です。自分の気持ちを蔑ろにせず、むしろその揺らぎに寄り添ってあげることが、心の平穏を保つことになるのではないかと…。ですから、どの気持ちも蔑ろにすることなく受け止め、その揺らぎと向き合うべきだと…』
(そうね、揺らいでいることは認めるべきだわ)
ルシェルは何かを決意して、そっと重い口を開いた。
「……ノアは私にとって、親友であり、同志であり……最愛の人……です。ですが……ノアの記憶喪失以来、私は皇后としての立場すら危ういことに不安を感じていました。そんな時、ゼノン様がこの国にきて、私にたくさんの癒しをくださいました……。それが、どんなに心強いことだったか……」
その声は、わずかに震えていた。
「……私は、正直なところ……ゼノン様に惹かれていました……。ですが……それが人としてなのか、男性としてなのか……それは分かりません。そして、私は皇后として、これからもノアを支えていくつもりです。たとえ、彼の記憶がもう戻らないとしても……」
「……」
ゼノンは何も言わなかった。
ただその横顔を、静かに見つめるばかりだった。
やがて、夜の風がふたりの間を通り抜けた。
その風の中に、微かにライラックの花の香りが混じっていた。
「ゼノン様」
「はい」
「……あなたは、どうして私にそんなにも‥…優しくしてくださるのですか?」
その問いは、ずっと彼女の中にあったものだった。
ゼノンはしばし沈黙し、そして静かに口を開いた。
「…ただ、あなたの助けになりたい。あなたに笑顔でいてほしい。本当にそれだけです。ルシェル様からしたら、出会って間もない男にこんなことを言われるのは、不思議に思われるでしょうが……」
「……そうですね。不思議です。どうしてそこまで思ってくださるのか……」
「……ルシェル様は、転生や生まれ変わりを信じますか?」
思わずルシェルは彼を見つめた。
「転生…生まれ変わり…ですか?」
ゼノンは目を伏せ、微かに笑った。
「……いえ、忘れてください。ただ、私が言いたかったのは、そういうものを信じてしまうほどに……私はルシェル様に、心惹かれているということです」
それ以上、彼は何も語らなかった。
ふたりの間に流れる空気は、穏やかで、そして切なかった。




