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キツネの恩返し  作者: 7氏。


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5/10

深きにおいて血は呼ばれる②

5/17 セリフ一部修正しています。

 父はたぶん、私が思っているよりずっといろんなことを知っている。いろんなことを抱えて、背負って、そして私を育ててきてくれたのだと。

 根拠なんて無い。けれど確信するには十分だった。

 

 間に合わせたい、と思った。

 父が母を呼ぶうちにたとえ嘘でも、たとえ一度きりでも、父の前に母を立たせてあげたかった。

 

 そう思い始めた頃、私の頭に浮かんだのはダンジョン管理局の先輩である保坂さんという人のことだった。

 私よりベテランで同じ二級だが、たぶん階級以上に経験豊富な人だった。同じ現場に入った時、的確な指示で何度も助けられたことがあった。

 ただある時長期休暇を取得し、戻ってきた時には痩せて生気のない状態だった。目は空虚でどこかを見ているようでどこも見ていない目。

 気になって同僚に聞いてみると、奥さんが事故で亡くなったらしいと聞いた。


 その保坂さんがある時を境に少しずつ表情を取り戻した。

 何があったのか私は知らない。迂闊に立ち入っていい領域ではないから。ただやはり同僚もその変化には気づいているようだった。

 今では保坂さんは下層でも高い任務達成率を誇る、信頼される二級探査士に戻っていた。

 私は空っぽだった頃の保坂さんの顔を覚えていたから、「何が彼を元に戻したのか」とずっと思っていた。


 ある日の昼休み、休憩室で保坂さんと二人きりになったとき私は何の前触れもなく――今思えばずいぶん失礼なことを言った。


 「保坂さん。死んだ人にもう一度会いたい、って思ったことありますか」

 

 保坂さんは、缶コーヒーから口を離して、私を見た。


 「……あるよ」

 

 短い返事だった。どこか遠い目をした表情。

 それからしばらくして、手に持った缶コーヒーを見つめながらこう続けた。

 

 「会いたい人がいるのか?」

 「はい」

 

 私は迷いなく即答する。

 

 「そうか……これから言う話は冗談だと思って聞き流してくれて構わないんだが」

 

 目線は缶コーヒーに向かったまま、誰も居ないかのように続ける。

 

 「死者にもう一度会える店がある。表向きは古書店だ、けど裏では死者に会える」

 「死者に会えるだなんて……」

 

 保坂さんは、缶コーヒーを置いた。


 「俺は一度行ったんだ。それで……会えた。あの姿は確かにあいつだったよ」

 「奥さんに、ですか」

 「ああ」

 

 保坂さんは、私の顔を見て、少しだけ笑った。


 「ただし、代償が要る。その人との思い出の品、あと……人生で一番記憶に残った一日の記憶を持っていかれる。それでもよければ紹介する」

 

 私はすぐには答えなかった。

 けど代償の話は思ったよりも軽く受け止められた。私の中には、すでに失くされた記憶が多くあるからだ。母の声も、顔の表情も、葬儀のことも、私の中からは抜けている。

 その後の人生において印象深い記憶はいくつもあった。それらと引き換えに父に母と会わせてあげられるなら、軽い代償だと感じた。

 ただ、保坂さんに正直に話しておきたいことがあった。


 「私が会わせたいのは、死んだとされている人なんです」

 

 保坂さんは、そこで初めて私の顔を見た。


 「……どういう意味だ」

 「私が幼い頃に母は死んだと父から説明されていたんです。けど私はずっと疑っていて……」

 

 保坂さんは視線を下に戻し、しばらく黙っていた。


 「それでも、行ってみるといい」

 

 やがて、そう言った。


 「あの人は……たぶんこっちが思っているよりずっといろんなことを知ってる。多分何かしらの情報は教えてくれるはずだ」

 

 その夜、保坂さんから店の場所と、合言葉のような一文がメッセージで送られてきた。


 「狐の話を集めた本はありますか」

 

 私は、その一文を、しばらく眺めていた。

 偶然にしては、あまりに出来すぎていた。

 

 ◆


 古いビルの三階に、その店はあった。

階段を上がりきると、すりガラスの引き戸に「白川書店」と薄れた文字。引き戸を開けると、古い紙とインクの匂い。

 文化庁の特殊文物課に所属していた時、出入りしていた書庫を思い出した。


 「いらっしゃい」

 

 奥のレジから声がした。

 細い目をした、メガネをかけた二十代後半ほどの見た目をした男だった。

 視線がこちらを捉えた瞬間――ほんの一瞬、男の輪郭が揺らいだ気がした。


 瞬きするとちゃんと人の形をした細目のメガネをかけた男が座っていた。

 微かに感じる違和感。人では無いような匂い。

 普通の人間には絶対に分からないだろう、ごく微かな匂い。

 私は浅く息を吐いて店の奥に進んだ。

 

 保坂さんに教えられた通り民俗学の棚に立つ。知らない名前ばかりの古い古書を眺めながら、レジにいる男にいつ声をかけようかタイミングを図る。

 意を決して私はレジにいる男へ体を向き直した。

 

 「狐の話を集めた本は、ありますか」


 狐目の男は静かに頷く。

 

 「奥に、別の部屋がありますので」


 短い声だった。


 「ご案内します」


 ◆


 応接室は、革張りのソファと低いテーブルだけの簡素な部屋だった。私はソファに腰を下ろしコートも脱がずに男と向かい合った。


 「白瀬、と申します。保坂さんからご紹介いただきました。」

 「そうですか。私のことはキツネ、とでもお呼びください」

 

 狐目の男はそう言って、小さく頷いた。


 「ご依頼は」

 

 私は息を吸った。


 「母に、もう一度会いたいんです。正確には――父に、母を会わせたい」


 男は黙って聞いていた。


 「父がもう長くないんです。年内がもつかどうか。父はずっと母のことを忘れずにいて、最近うわごとのように母の名前を呼ぶんです。一目だけでいいんです。最期に母に会わせてあげたい、そう思いまして」

 「お母様は」

 「私が六歳の時に病で亡くなりました。二十年以上前の話です」


 そう言いながら、私は男の目を見ていた。男も、私の目を見ていた。

 私たちの間に、奇妙な間があった。

 

 「遺品は、お持ちですか」

 「はい」


 私はバッグから古い布袋を取り出した。中身は桐の小箱。

 蓋を開けると、櫛がひとつ入っている。黒檀の櫛。

 歯の一本が欠けていて、握り部分には小さな彫り模様がある。

 母が生前、髪をとかすのに使っていた、と父から聞いている。


 「母の櫛です。父が母の遺品としてずっと保管していたものを借りてきました」


 男は、櫛を手に取り指先でゆっくりと触れていく。

 丁寧に、丁重に、慈しむように。

 男の指が櫛の握りの部分で、わずかに止まった。

 眉が、ほんの少しだけ寄った。何かを確かめるように、櫛をもう一度撫でた。


 「白瀬さん」


 狐目の男の声のトーンがわずかに変わった。


 「お母様は本当に亡くなっていますか」


 私は答えなかった。

 正確には、答えられなかった。喉のずっと奥のほうで、魚の小骨のようにずっと引っかかっていた違和感、疑問。

 

 「亡くなった、と聞かされています」


 ようやくそれだけ言った。

 

 「葬儀の記憶がないのは確かです。父は私が取り乱していて当時の記憶が曖昧なだけと言っています。位牌があって、仏壇に写真があって、毎年命日に墓参りに行きます。墓石もあります。母は死んでいるはず、です」

 「はず、ですか」

 「……はい」


 男は櫛を桐の箱に戻した。蓋を、静かに閉めた。

 

 「私の異能は、死者にしか化けられません」


 男の言葉は、淡々としていた。

 

 「生きている人間には化けられない。これは私の異能の制約です。あなたが今お持ちになった櫛から、私は、お母様の気配を辿ることができます。けれど辿った先には――」


 男は言葉を切った。

 

「お母様は、生きておられます」

 

部屋の空気が、ふっと薄くなった気がした。

私の中で、何かが崩れた。あるいは、ようやく形をとった、と言うべきだった。ずっと感じていたものの輪郭が、ここで初めてはっきりと、目に見えるところに立ち上がった。


 「……どこに、いるんですか」

 

声が、自分のものではないような響きで、口から出た。


 「それは私には分かりません。気配の方向は、辿れます。場所は――」


 男は櫛の箱に手を置いたまま、私を見た。


 「白瀬さん。私はあなたに、ひとつだけ申し上げなければいけません。お母様は人ではありません。そしてあなたもその血を引いています。」


 私は、大きく深呼吸して目を閉じた。

 瞼の裏に蘇る映像は十歳までの私。

 分かっていた。たぶん、ずっと前から、分かっていたのかもしれない。ただ目を背けていただけで。


 幼い頃あの池で水面に映る尾を見たときから。

 母の声を、ほとんど覚えていないときから。

 私の疑問に母が答えてくれなかったときから。

 

 母は――私を置いて、どこかへ去った。

 

「父は」

 

 私は目を開けた。

 

「父は、知っているんでしょうか」

「それは、私には分かりかねます」

 

 男は静かに言った。

 

「……ただ、お母様のこの櫛を大切に保管していたお父様が、お母様の生死について、本当に何も知らずにいられるものでしょうか」

 

 私は答えられなかった。

 父の枕元での顔が、頭の中に浮かんだ。

 母の名前を呼ぶ時の、あの顔は――。

 

「依頼を、お受けすることはできません」

 

 男は櫛の箱を、私のほうへ静かに押し戻した。

 

「分かります」

 そう答えたものの、私は櫛を受け取れないでいた。

「……ただ」

 男が、続けた。

「別の依頼であれば、お受けできるかもしれません」

「別の」

「お母様を、お探しすることです」

 

 私は男を見た。


 「私の異能は下地として、人ならざる者の気配を辿る力があります。この櫛から辿れる気配を、ある程度の方角まで絞ることはできます。完全な居場所ではありませんが、手がかりにはなります」


 男は少しだけ間を置いた。

 それから、こう言った。

 

 「私も、ご一緒します」

 

 私は驚いて、思わず聞き返そうとした。なぜ、と。

 男はそれを遮るように、続けた。

 

 「理由は、お話しできません。けれど――対価は要りません」

 「対価は要らない、というのは」

 「私にとっても必要な用事が出来ましたので」

 

 私は男の顔を見た。

 細い目の奥に、何かがあった。けれど、それが何なのかは私には読み取れなかった。

 

 「お願いします」

 

 私はそう言って、頭を下げた。

 男も、軽く頭を下げた。

 

 「では、いくつか、こちらで手配します」

 

 何の手配だろう。

 それにダンジョン潜行で、彼に何ができるというのだろう。

 けれど私は、それを聞かなかった。

 なぜ聞かなかったのか、自分でもわからなかった。

 すんなりと聞いている自分がそこにいた。

 

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