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向こう側からの帰還①

 むかし、山で怪我したキツネを拾った爺さんがいた。

 看病してやったら懐いて、どこへ行くにもついてくるようになった。

 爺さんとキツネの、ふたり暮らしが始まった。

 ある夜、爺さんがぽつりと言った。

 

 「息子がどこかへ行ってしまって、もう何年も帰ってこない」

 次の朝、キツネはいなくなっていた。

 

 「おーい、キツネやーい」

 

 探しても探しても、ついぞ見つからなかった。

 何日かして、なんと息子がひょっこり帰ってきた。

 「何年も帰ってこず寂しい思いをさせてすまない」と。

 

 ところが月日が経ったある日、もうひとりの息子が戸口に立っていた。

 「おう、帰ってきたぞ」

 

 同じ顔。同じ声。同じ笑い方。

 先に帰ってきた息子が、静かに言った。

 

 「俺は、爺さんに助けてもらったキツネだ。恩返しに化けていた。本物が帰ってきたから、俺はもう行く」

 

 そう言って、どこかへ消えてしまった。

 爺さんにとって果たして、どちらの日々が幸せだったのか。

 ――昔話は語らない。


 ◆


 古いビルの三階に、その店はあった。

 

 その日の午後二時を回った頃だった。

 階段を上がる靴音は不規則だ。上り切ると目線の先にはすりガラスの引き戸。

 タイムスリップしたのだろうか――女は思わずあたりを見渡してしまう。

 目線を上げた時、「白川書店」と薄れた文字が書かれた看板を見つけた。

 変な汗が額を伝う。

 

 ――本当にあの子にもう一度会えるんだろうか。

 

 私はコートの襟をもう一度直して、引き戸に手をかける。

 ここで引き返そうか――父の枕元でこれからも言い続ければいい。「賢治は立派に探査士として働いてるからお父さんも頑張って」と。父はその嘘を信じたまま苦しまず安らかに逝ってくれたら……。

 でも薄々父も分かっているのだ。だからこそ何とかしたくて。

 ぐっと力を込めて私は引き戸を開けた。

 

 ――古書の匂いが、懐かしい匂いが私を出迎えた。

 

 すこし黄ばんだ紙と薄れたインク、長く誰かに読まれてきたであろうシミ、あの独特の匂い。編集者の私には馴染みすぎるくらい馴染みのある匂いだった。

 

 流れて流れて、さらに流れて、行き着いた先の漂着。本にとっての終着点。

 遠い記憶、ふと本を好きになったあの本屋さんを思い出した。あのおじいさんもう居ないんだろうなぁ……そう考えているとふと声がかかる。

「いらっしゃい」

 

 辺りを見渡すと奥のレジには、細い目をした男が座っていた。二〇代後半だろうか。メガネをかけていて――。

 

 ……キツネ?

 

 一瞬、ほんの一瞬ひょろりとしたキツネが居たような錯覚に陥る。

 思わず何回か瞬きすると、ちゃんとメガネをかけた狐目の男がいた。

 男は私を確認するとすぐに視線を落とし、何かの本を読んでいる。

 保坂さん――ここを紹介してくれた友人の言葉を思い返す。

 

 「奥に進んで、一番奥の民俗学の棚の前で、合言葉を言うの」

 

 私は本棚を見て回るふりをして、奥へ進んだ。古い本の背表紙が並んでいる。知らない名前だらけだったが——民俗学の棚は、すぐにわかった。

 私は深く息を吸った。

 レジの男に向かって、振り返る。

 

 「すみません」

 

 声が、少し震えた。

 

 「狐の話を集めた本は、ありますか」

 

 男はゆっくりと読んでいた本を閉じ目線を上げる。

 本を机に置き、立ち上がる。

 

 「奥に、別の部屋がありますので」

 

 短い声だった。

 

 「ご案内します」


 ◆


 奥に進むとドアがあり、その先は応接室になっていた。

 古い革張りのソファ、低いテーブル、微かにコーヒーの香りが残っている部屋だった。

 私はそのままソファに腰を下ろした。長居はするつもりがない、だからコートは脱がなかった。

 

 「桐島と申します。ご紹介いただいて、こちらに」

 「どなたからでしょう」

 「保坂さん、という方は覚えてらっしゃいますか?」

 

 狐目の男は、小さくうなずいた。

 保坂さん——三年前にご主人を亡くした、私の高校時代の同級生。彼女は事故で旦那を失った後、しばらく心を閉ざしていた。半年ほど前、久しぶりに会ったとき、彼女は静かに言った。「私、不思議な場所に行ったの。でも、本当に行ってよかった」と。

 詳しく話を聞いても最初は何のことかわからなかった。

 それが意味することを、私が知ったのは、賢治が死んだ後だった。

 

 「ご依頼は」

 

 目の前の男が言った。

 「彼の本当の名前は知らないの」と言いつつ保坂さんは狐目の青年が営んでいる古書店がある、と教えてくれた。

 けれど、それは表の顔。

 彼が本当に何者なのか——私は、知らない。

 ただ、彼の裏の顔に縋りたかった。

 

 「弟が、二週間前に亡くなったんです」

 

 自分の声が、思ったより冷静に出た。他人に説明する時は意外と冷静になれるタイプなんだな、と。

 驚くほど、淡々と。

 

 「なぜです?」

 「ダンジョンで。攻略中の事故だそうです。ダンジョン管理局の説明では」

 「なるほど」そう言うと狐目の男はうなずいた。それ以上、何も訊かない。ダンジョン探査士の事故死は珍しくない、という顔だった。

 その淡々とした態度が少し信頼できるのかも、と思わせた。

 もし彼が「お悔やみ申し上げます」とか「お辛いですね」とか言ったら、私はきっと依頼をしなかっただろう。

 

 「父が、もう長くないんです」

 

 私は続けた。

 

 「がんで、あと一ヶ月か二ヶ月持てば良いほうだ、と」

 

 父・桐島宗一。六十六歳。地方銀行を退職してからは小説を書いていた。若い頃はプロを目指していたけれど、私と賢治が生まれてからは道を諦めて貴方達の為に懸命に働いていた、と母から聞いた。

 昔はすごく怖くて、たまに口出ししてくることが鬱陶しくて反発したこともある。それでも親が自分を生んだ歳になった時、父の偉大さに気づくのだ。自然と親孝行したい、そう思うことも多くなった。

 定年退職し、私たち姉弟が巣立ってからは憑き物が落ちたように穏やかな表情になり、また趣味の小説を書き始めた矢先、がんを宣告されたのだ。ステージ四で、治療の段階はすでに過ぎていた。

 

 「父は、弟が死んだことを知らないんです」

 

 八歳下の弟は私にとってはただただ、可愛い弟だった。可愛くて、聞き分けがよくて、よく笑う子だった。

 けど好奇心が強くてダンジョンに潜る仕事へ就きたい、それが夢なんだと。

 念願叶ってダンジョン探査士になれた時はみんなでお祝いもした。ダンジョン探査士は超がつく難関の資格だからだ。

 父は自慢の息子だと周りに公言していたくらい溺愛していた。

 

 私といえば出版社の編集者で文芸を担当していて本を作る仕事をしている。もちろん今も好きだ。

 ただ、忙しかった。

 賢治が探査士になって、年に一度か二度しか会わない時期が続いた。私は仕事で、賢治はダンジョン探査で。

 「今度の正月は会おうな」と電話で何度も言って、何度も流れた。

 最後に会ったのは、半年前だっただろうか。

 婚約者を連れて、私の家に来た。

 彼女は綺麗な人で賢治は嬉しそうにしていた。

 もっと、会うべきだった。

 もっと、たくさん。

 もっと――。

 

 「遠征中だ、と言ってあります。父は信じています。弟のことが自慢で」

 

 狐目の男は、黙ったまま聞いていた。

 

 「私が見舞いに行くたび父は聞きます。賢治は元気か、と嬉しそうに笑うんです」

 

 そんなの、嘘をつくしかない――。

 

 「だから、嘘をついたまま、逝かせてあげたいんです」

 私は細い、狐目をまっすぐに見つめる。

 

 「最後に父の自慢だった息子に、私の弟に……なってくれませんか」

 

 白川さんは、しばらく窓の外を見ていた。

 十一月の空が、低かった。隣のビルの非常階段で、誰かが煙草を吸っているのが見えた。

 

 「金額は」

 「保坂さんから伺った金額を持ってきました」

 「承知しました――それともう一つ。あなたの人生で一番記憶に残った一日を頂きますがよろしいですか」

 「……はい」

 「それでは遺品をお預かりします」

 

 私はバッグから小箱を取り出した。

 中に入っているのは、ダイバーウォッチだった。黒い文字盤に、白い針。ベゼルには細かい数字が刻まれている。防水、耐衝撃、ダンジョン内の特殊環境でも狂わないとされる、専門メーカーの一品。

 

 「八年前、賢治が探査士の免許を取った日に、父が買って贈ったものです」

 

 私は、そっと、文字盤を見つめた。

 

 「父はお祝いにこれを選びました。父が若い頃小説家を目指していた時に欲しくて、けれど当時は高くて買えなかった——そういうメーカーの時計だそうです」

 

 ベルトには使い込んだ革の艶があった。文字盤のガラスには、小さな擦り傷がいくつか入っている。八年間肌身離さず使ってきた、その時間の痕跡だった。

 狐目の男はウォッチを受け取った。革のベルトに触れる指が、少しだけ止まり、目を細めた。

 

 「お会いするのはいつでしょう」

 「今日、これからお願いしたいんです」

 

 私は深く頭を下げた。

 

 「今日でないと、間に合わないかもしれないんです」

 

 声が、少しだけ震えた。

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