第3章 さよならは言わない 2
午後五時半を過ぎたころ、三人が階段を下りてくる音が聞こえてきた。勉強が終わったのだろう。
居間でだらだらテレビを見ていた俺は、お父さんに目で合図した。お父さんがうなずく。
「お邪魔しましたー」
睦美の声が玄関から聞こえた。お父さんがそちらに向かったので、俺もついていく。
睦美と藤崎さんは玄関で靴を履こうとしているところだった。それを立って見ていた津軽さんが、こちらを振り向いた。俺と目が合う。やるなら今しかない。お父さんが何やら二人に話しかけ、時間を稼いでくれている。集中するんだ。とにかく、津軽さんの体を借りることだけ念じろ!
津軽さんも目を閉じて、集中力を高めているのがわかる。いや、余計なことは考えるな。俺は、自分が津軽さんの体に入ることだけを必死にイメージし続けた。
と、突然何かに引っ張られるような感覚が襲ってきた。
おおおお、なんだこりゃ! 例えるなら、巨大な掃除機に吸い込まれるような……!
……。
……。
(先輩、しっかりしてください!)
直接頭の中に響いてくる津軽さんの声で、俺は意識を取り戻した。一瞬気を失っていたようだ。
(もう私の体を動かすことができますよ)
そう言われたので、とっさに手を開いたり閉じたりしてみる。おお、体が動く。懐かしい、この感じ!
すると俺の様子を見た藤崎さんが怪訝な顔をして、
「冥紗ちゃん、何してるの?」
「え? あ、いや、なんでもないよ」
(今の先輩も、はたから見ると私なんです。気をつけてくださいよ)
また津軽さんの声が頭の中に語りかけてきた。わかったわかった。どうやら、体は俺の自由になっても津軽さんの意識は失われないようだ。
「じゃあ、あたしたちはこれで。またね、冥紗ちゃん」
睦美たちが外へ出て行こうとする。すぐに睦美に全てを明かしたい衝動に駆られたが、ここは我慢だ。
「じゃあね、バイバイ」
俺はそう言って笑顔で手を振った。
二人が帰るや否や、お父さんが声をかけてきた。
「ええと、君はもう黒石くんなのかな」
「ええ、まあ」
そう口に出して、やっと俺は自分の声が女の子のものになっていることに気がついた。
「二年ぶりに体を動かすと、なんだか落ち着きませんね」
床を踏みしめて立ったり、呼吸をしたり、生きている間は当たり前だった感覚が、今となっては新鮮だ。
腕をぐるぐる回し、その場でジャンプしてみる。
(何してるんです)
「こうやって適当に体を動かすだけでも、楽しくて仕方がないんだ。生きてるっていいなあ」
俺が頭の中に響いてくる津軽さんの声と話しているとお父さんが、
「もしかして冥紗と話しているのかい?」
「ええ、彼女の意識はこの体に残っているようなんです。俺の頭に直接声が聞こえてくるんです」
「ふうん、そういうものなのか。一心同体ならぬ、二心同体と言ったところかな」
お父さんはうまいことを言うと突然、
「そうだ、黒石くん。今のうちに何かやっておきたいことはないかな?」
「へ?」
「とりあえず今日のところは練習ということだが、せっかく体を自由に動かせるようになったんだ。霊の状態ではできないことをやっておかないか。できる限りの協力はするよ」
「あ、ありがとうございます! 幽霊だとできないこと……」
ひとつ、すぐに思いついたことがあった。
「すいません、じゃあ遠慮なく。その、なんでもいいから食事をとらせてもらえませんか。食べるってこと自体、幽霊になってからご無沙汰だったんで」
「ははは、それはそうだな。じゃあ、これから外へ何か食べに行こうか」
「ありがとうございます!」
これは本当に嬉しい。「食べる」という感覚自体、忘れそうになっていたのだ。
と、外に出かけると考えたとき、津軽さんの体に乗り移ったときから感じていた微妙な違和感に気がついた。
「あの、それからもうひとつ、いいですか」
「なんだい?」
「津軽さんの体がスカートをはいているおかげで、なんか下半身がスースーして気持ち悪いんですが……ズボンにはき替えてもいいでしょうか」
(……待ってください、先輩)
「ん?」
(はきかえるということは、スカートを脱ぐということですね)
「ああ」
(つまり着替えるとき、私の下着姿を見ることになるわけですよね)
「あ」
(……)
「……」
(……)
「……だめ?」
(だめに決まってるでしょうっ!)




