転機!ゆっくりと…
警察が駆けつけた後、和也はすぐに救急車で運ばれた。
椎名は和也に付き添い、一緒に救急車に乗って行った。
豊と音子は、事情聴取とか言われて、警察に連れて行かれそうになったが、たまたまその場を目撃した事にして、いくつかの質問に答えるだけで帰る事ができた。
身元とか調べられたら、音子の事はどうにも説明できないので、豊は助かったと思った。
音子は帰る途中、ずっと笑顔だった。
豊が叫んだところで、和也の死が回避されたのを確認できたようだ。
豊は何故そこで、死を回避できたのか、考えなければならなかった。
何が人を救う事になるのか、どうしたら人を助けられるのか、知っておく必要があると思ったから。
その時の自分の感情や、言った事を思い出した。
(そういえば僕、椎名って呼び捨てにしちゃったな。きっと椎名って呼ばれるの、嫌だろうに。)
そんな事で運命が変わったと思えなかったが、椎名を通して何かが変わったのだろうという事は確信が持てた。
何故なら、結局和也とは話しもしなかったし、怪我が酷くて、見る事もあまり無かったのだから。
何はともあれ、椎名が最悪の不幸にならなくて良かったと、豊は思った。
次の日の日曜日は、豊も音子も、何をするでもなく、部屋でゴロゴロしていた。
音子は、怖かった事とか、意外とスッキリ忘れているようで、テレビのCMを見て大笑いしていた。
昨日の出来事を考えると、豊は勉強する気にもなれなかった。
刺激の強い経験をすると、人生自体見つめ直す機会になる事はよくある話だ。
豊にとっては正に、最近の出来事全てがそうであり、刺激としては、昨日の出来事は大きな影響を受けるものだった。
勉強ばかりしていて、その知識が昨日、何か役にたったのだろうか。
体を鍛えてばかりいる男を見て、そんなもの、今の世の中には不必要だと思っていたけれど、昨日のような場面では、むしろそちらの方が必要だったのではないだろうか。
勉強をする事が無駄だとは思わない。
でも、それだけでは駄目なのだと、豊は考えるようになっていた。
豊は、ふと部屋を見渡した。
そこには音子がいて、そして自分がいる。
ついこの前までは、こんな状況は絶対にあり得ないと思っていた。
それが今では当たり前で、こんな生活も楽しいと感じている。
豊は、自分が少しずつ、いや、大きく変化し始めている事を、自覚していた。
そして、今までの自分は、実は最初から、全て諦めていたのではないだろうかとも考えていた。
だから少しだけ、自らの力で、自らを変えてみようと思った。
豊は早速、両親に電話した。
「もしもし、僕だけど。勉強する為に今の高校にきたんだけど、どうしてもさ、今やっておきたい事ができてさ。成績落ちたらゴメン。」
両親には迷惑はかけたくないし、期待にはこたえたい。
でも、勉強だけでは駄目だと感じたから。
結局この日の豊は、音子と一緒にテレビを見て、笑ったりじゃれ合ったりして、一日を終えた。
月曜日、豊はいつもよりも少しだけ早起きして、10分ほどだが、その辺りを走ってきた。
スポーツが全く駄目というわけではないが、こんな事をするのは人生で初めてだ。
豊は流石に疲れたようだが、朝食はいつもよりも美味しく食べる事ができた。
音子を部屋に残して学校に行くのも、もう慣れてきてはいたが、やはり寂しい思いをさせているのではないかと、出かける時は後ろ髪を引かれる思いだった。
学校に着くと豊は、積極的にみんなに挨拶しよう、と思ったわけだが、いきなり変える事は出来なかった。
いつものように、黙ったまま教室に入り、挨拶してくる人には軽く挨拶を返した。
豊は席につくと、1時間目の予習をする為に、教科書とノートを取り出した。
本当はクラスメイトと、世間話に花を咲かせる事ができれば良いなと思っていたが、結局今までと変わらなかった。
豊自身も(ま、ゆっくり変えていければ良いかな?)なんて思っていた。
そんな事を考えいてると、何時の間にか、椎名が豊の前の席に座って、豊の方を向いていた。
「おはよw」
椎名は、土曜日に色々あったにも関わらず、いつもと変わらない笑顔だった。
というか、今まで以上の笑顔だった。
「うん、おはよう。」
豊は、椎名に対して罪悪感があった。
結局何も助けてあげられなかった事はもちろん、椎名の家庭の事情を知った上で尚、椎名と呼んでしまった事に。
だから謝ろうと思った。
だけど、それよりも先に、椎名がお礼を言ってきた。
「土曜日はありがとう。嬉しかったよw」
嬉しかった?豊は疑問に思った。
嬉しく思われる事なんて、何もしていない。
むしろ恥ずかしくて、何もできなった事が悪いと思っていた。
「いや、何もできなくてごめん。それに渡辺さんの事、椎名って呼んじゃってごめん。」
だけど椎名から、豊の予想しなかった言葉が返ってきた。
「別に良いよw椎名って呼んでも。じゃあ私も豊って呼んじゃうもんねw」
豊は思った。
(あれ?これって、よく小説やドラマで見かける展開だよね?それも恋愛ものの。)
豊は急に照れくさくなってきた。
冷静に考えれば、女の子と普通に話している事も、豊には不思議に思えた。
だけど、あり得ないとは思わなかった。
これがきっと普通なのだと思った。
豊は携帯電話をとりだした。
理由は、別に音子の写真を見ようというわけではない。
当然椎名と、番号とアドレスの交換をしようというのだ。
ちなみに、豊は此処までの人生で、同級生の女子に、自分から携帯の番号の交換を要求するのは初めてだった。
だけど、ごく自然にそれはできた。
「アドレス交換しよw」
「うんw」
と言っても、登録されている電話番号は、実家、自宅、三杯の番号、他は色々なサポート用電話番号だけで、赤外線での交換などしたことがない。
だから番号の交換は、全て椎名に教えてもらいながらする事になった。
交換が終わった後、豊は重要な事を話すのを忘れているのに気がついた。
「あ、そうそう、最初に言うべき事だと思うんだけど、お兄さん、もう大丈夫だって、音子が言っていた。」
豊は椎名の耳元で、小さな声で伝えた。
にも関わらず、椎名の反応は大きかった。
「ホント!!」
そう言って立ちあがった。
その声と椅子を引く音に、クラスメイトが注目した。
一応言っておくが、立ちあがる際、椎名からみれば、椅子を押している事は、当然理解しておいてほしい。
そこで先生が入ってきた事から、特にふたりの事にツッコミを入れる人はいなかったが、一人だけ、冷たい目で椎名を見る人がいたことに、豊は気がつかなかった。




