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姉の方を所望していたと言った婚約者に、突然連れ帰られて気づいたら溺愛されています  作者: もちもちほっぺ


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夏になった。


国中の土地が、少しずつ応え始めていた。

春に芽吹いた作物が、夏になって育ち始めた。

農民たちが「今年は違う」と言った。


土が柔らかくなった、水の吸いがよくなった、種を蒔いたら芽が出た。十数年ぶりのことだと、皆が言った。


ルシアンが公爵邸に来たのは、そんな夏の午後だった。


書斎にクライドを訪ねてきて、椅子に座るなり「土が戻ってきた」と言った。


「国中か」


「全部ではない。でも確実に、広がっている」


ルシアンは続けた。


「太陽の愛し子として感じる。土地の力が、じわじわと戻ってきている」


「時間はかかるか」


「十数年分の遅れだからな。でも戻る。必ず戻る」


ルシアンは窓の外を見た。


「あの娘がいる限り」


窓の外に、庭が見えた。

リリアーナが花壇の縁にしゃがんでいた。今日も虫を探していた。蝶々が三匹、その周りをひらひらと舞っていた。


「元気そうだな」


ルシアンは言った。


「ああ」


「お前も、元気そうだ」


「うるさい」


ルシアンは笑った。


「断罪から、随分と落ち着いたな。リリアーナ嬢は」


「ああ」


「夜会の後も、特に変わりなかったか」


「特に何も言わなかった」


クライドは答えた。


「翌朝、いつも通り庭に出て、いつも通り虫を探していた」


「……それがあの娘らしいな」


ルシアンは窓の外を見た。


「強いのか、鈍いのか」


「両方だろう」


ルシアンはしばらく、窓の外のリリアーナを見ていた。


「イザベラ・ベルテは」


「社交界から姿を消した」


クライドは答えた。


「それ以上は知らん」


「そうか」


ルシアンは頷いた。


「……あの娘がいなければ、リリアーナ嬢はもっと酷いことになっていたかもしれないな」


クライドは何も言わなかった。


「踏んだパンでも、持ってきていたんだろう」


「ああ」


「それがなければ」


「ああ」


二人とも、それ以上は言わなかった。

窓の外で、蝶々がひらひらと舞っていた。




ルシアンが帰った後、クライドは庭に出た。

リリアーナはまだ花壇の縁にしゃがんでいた。


土に指を入れて、何かを探していた。真剣な顔で、丁寧に、土をほぐしながら。

クライドはリリアーナの隣に立った。


「何を探している」


「セミの幼虫です」


リリアーナは土を見たまま言った。


「この花壇の土の下に、いるはずなんですが」


「そうか」


「今日のは特別に大きくて……あ、いた」


リリアーナが土の中から、丸々とした白い幼虫を取り出した。


大きかった。


リリアーナの目が輝いた。


「大きいですよ、これ」


「そうだな」


「大きい方が、じゅわっとして——」


口に入れた。

もぐもぐ。ごっくん。


クライドが視線を噴水の方へ向けた。


「……エビです」


リリアーナは言った。


「エビより濃くて、クリーミーで。夏のセミの幼虫は特に脂がのっていて——クライド様も一口いかがですか」


「いらん」


「今日のは特別に美味しいですよ」


「いらん」


「夏限定ですよ」


「いらん」


リリアーナは少し笑った。

土に指を入れて、また探し始めた。


クライドは噴水から視線を戻して、庭を見渡した。

花が咲いていた。


春に芽吹いた花壇の花が、夏の光の中で咲いていた。白い花、黄色い花、薄紫の花。色とりどりの花が、庭に満ちていた。


庭師が「今年は違います、こんなに咲いたのは久しぶりで」と嬉しそうに言っていた。

土が、生きていた。


「ルシアン様が来ていたんですね」


リリアーナが土を見たまま言った。


「国の土地が戻り始めているそうで」


「聞こえていたのか」


「窓が開いていたので、少し」


「そうか」


「よかったですね」


リリアーナは続けた。


「農民の方たちが、ようやく作物を育てられる」


「ああ」


「十数年分の遅れを取り戻すのは、時間がかかるでしょうが」


「ああ」


「私にできることがあれば」


リリアーナは土に指を入れながら言った。


「何でもしたいと思って」


クライドはリリアーナを見た。

しゃがんで、土に指を入れて、真剣な顔で虫を探している。

その横顔を、しばらく見ていた。


「……お前がここにいれば、それでいい」


リリアーナが顔を上げた。

クライドを見た。

クライドは庭の方を向いていた。


「土が生きている。虫が来る。花が咲く。お前がここにいるだけで、それだけのことが起きる」


リリアーナはしばらく、クライドを見ていた。

それから、また土に指を入れた。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな」


「でも」


「礼を言うな」


リリアーナは少し笑った。

土の中から、また幼虫が出てきた。


「あ、また大きいのが」


「そうか」


「クライド様も——」


「いらん」


「本当に美味しいんですよ」


「いらん」


「一生に一度くらいは」


「一生いらん」


リリアーナがまた笑った。


クライドは庭を見ていた。

花が咲いていた。蝶々が舞っていた。土が生きていた。


しばらくして、クライドはリリアーナの隣にしゃがんだ。

リリアーナが少し驚いたように、クライドを見た。


クライドは土を見ていた。


「……土が、いい色をしているな」


「はい」


リリアーナは答えた。


「豊かな土の色です」


「ベルテ家の庭とは、全然違う」


「全然違います」


リリアーナは土に触れた。


「あちらは乾いていて、ぱさぱさで。でもここの土は、ちゃんと生きている感じがして」


「お前のおかげだ」


「虫さんたちのおかげです」


「お前が来たからだ」


リリアーナは土に触れたまま、クライドを見た。


クライドも、リリアーナを見た。

夏の光が、庭に満ちていた。


クライドはリリアーナの手を取った。

土のついた手を、そっと、両手で包んだ。

リリアーナは少し驚いた顔をして、クライドを見た。

クライドは庭の方を向いた。


「……美味しかったか」


「え?」


「今日の、セミの幼虫」


リリアーナは少しの間、クライドを見ていた。

それから、笑った。


「はい」


「そうか」


「とても」


「そうか」


クライドはそれだけ言って、庭を見ていた。

リリアーナの手を、包んだまま。


庭に、夏の光が満ちていた。

花が咲いて、蝶々が舞って、虫が土の中を動いていた。


土が生きていた。

国が、少しずつ、戻っていた。


リリアーナはクライドの横顔を見た。

庭を見ている、その横顔を。


それから、また土に目を落とした。

クライドの手が、まだそこにあった。

温かかった。


首輪よりずっと、温かかった。

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