35
朝から、庭が静かだった。
いつもならリリアーナが花壇の縁にしゃがんで虫を探している時間に、今日は誰もいなかった。
庭師も下がらせていた。噴水だけが、静かに水を落としていた。
クライドは庭の中央に立って、空を見上げた。
よく晴れていた。
春の光が庭に満ちていた。
神殿の術師が来たのは、昼前だった。
白い法衣を着た、六十がらみの男だった。十数年前に封印の首輪を作った術師本人だという。
頭を深く下げて「このたびは」と言いかけたところで、クライドが「結構です」と遮った。
ルシアンが馬車から降りてきた。
「準備はいいか」
「ああ」
「リリアーナ嬢は」
「呼んでくる」
リリアーナの客室の扉をノックした。
「入ってください」
扉を開けると、リリアーナが窓際に座っていた。膝の上に手を置いて、背筋をまっすぐに伸ばして。
首輪に触れていた。
革紐を、そっと指で押さえていた。
「準備はいいか」
リリアーナは顔を上げた。
「……はい」
「怖いか」
リリアーナは少し考えた。
「怖くはないです」と言った。
「ただ、少し」
「少し?」
「ずっとここにあったので」
首輪に触れたまま言った。
「外れた後がどうなるか、想像がつかなくて」
クライドはリリアーナを見た。
「何も変わらない」
リリアーナは立ち上がった。
首輪に手を当てたまま、クライドの後についた。
庭に出ると、ルシアンと術師が待っていた。
術師がリリアーナを見て、深く頭を下げた。
「リリアーナお嬢様、このたびは」
リリアーナは術師を見た。
穏やかな目だった。怒っているわけでも、責めているわけでもない、ただ静かな目だった。
「……お守りだと思っていました」
リリアーナは言った。
「ずっと」
術師は何も言えなかった。
「母が大切にするよう言っていたので」
術師が頭を下げたまま、肩を落とした。
クライドが術師を見た。術師が顔を上げて、小さく頷いた。準備はできているという意味だった。
「リリアーナ」
クライドが言った。
「はい」
「その首輪を、外す」
リリアーナは少しの間、首輪に触れていた。
それから、手を下ろした。
「……お願いします」
クライドはリリアーナの前に立った。
リリアーナの首元に手を伸ばした。革紐に指をかけた。
術師が低い声で何かを唱え始めた。
封印を解く言葉らしく、聞き慣れない言語で、静かに、でも確かに庭の空気に染み込んでいくような声だった。
革紐が、ほどけた。
その瞬間。
光の粒が、リリアーナの首元から広がった。
小さな、淡い光の粒だった。一つ、二つ、それからあっという間に無数に増えて、リリアーナの周りに広がっていった。
春の光の中に溶けるような、柔らかい光だった。
術師が息を呑んだ。
ルシアンが空を見上げた。
「……土が」
ルシアンが呟いた。
「動いている」
庭の土が、かすかに揺れた。
揺れた、と言っても地震ではなかった。
もっと静かな、内側から何かが目覚めるような、そういう揺れだった。花壇の土がほぐれて、石畳の隙間から草が顔を出した。
枯れかけていた木の枝に、小さな芽が膨らんだ。
そして。
虫が来た。
最初は一匹だった。
花壇の土から、芋虫が顔を出した。
次に、草むらからバッタが飛んできた。
それからアリが列をなして、石畳の隙間から現れた。
カナブンが、どこからともなく飛んできた。
蝶々が一匹、二匹、三匹、ひらひらと舞いながらリリアーナに向かってきた。
それから、どこからともなく虫が来た。
次々と、次々と。
庭中から、集まってきた。
リリアーナの周りに、光の粒と虫が満ちた。
リリアーナは動かなかった。
ただ立って、目を丸くして、自分の周りに集まってくる虫たちを見ていた。
「……みんな」
小さな声だった。
「みんな、来てくれたの?」
蝶々が一匹、リリアーナの肩に止まった。
リリアーナの目が、きらきらと輝いた。
芋虫が足元に近づいてきた。リリアーナはしゃがんで、指を差し伸べた。芋虫が指の上に乗った。
リリアーナは指の上の芋虫を見て、それからぺろりと口に入れた。




