16
屋敷の玄関先に、クライドの馬車が止まっていた。
御者が手綱を持ったまま待っていた。
クライドが庭から戻ってくるのを見て、少し目を丸くした。隣に、服に土のついた令嬢がいたからだろう。
玄関の扉の前に、執事が立っていた。
クライドが訪問してきた時に取次をした、ベルテ侯爵家の老執事だった。
取次のため目を離した隙に消えたクライドをずっと待っていたらしく、リリアーナの姿を見てさらに目を丸くした。
「ア、アルスター様、お嬢様を連れて、どちらへ」
「公爵邸へ」
クライドは歩みを止めなかった。
「公爵邸、といいますと」
「婚約者として公爵家の作法を身につけさせます。いつまでも放っておくわけにはいきませんので」
執事が口をぱくぱくさせた。
「し、しかし奥様へのご挨拶が、旦那様へのお断りが、段取りというものが」
「お伝えください」
クライドは執事を振り返りもせずに言った。
「婚約者の教育を始める旨を。公爵家の嫡男として、当然の権利です」
「あ、あの、少々お待ちを、奥様に確認を」
「構いません」
馬車の扉を開けた。
リリアーナを手で示した。
リリアーナは少しの間、馬車とクライドと執事を見比べた。
「……荷物を、取りに戻ってもいいですか」
「何がいる」
「着替えと、小さな陶器の器と」
「器?」
「採集して作ったメープルシロップが入っています」
クライドは一瞬だけ黙った。
「……使用人に取りに行かせる。乗れ」
リリアーナは「はい」と言って、馬車に乗り込んだ。
クライドが続いて乗り込んだ。
扉が閉まった。
執事が「あ、あの、アルスター様!」と声を上げたが、馬車はすでに動き始めていた。
馬車の中は静かだった。
向かい合って座った。
クライドは窓の外を見ていた。リリアーナは膝の上に手を置いて、まっすぐ前を向いていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
馬車の車輪が石畳を踏む音がした。ベルテ侯爵家の門を出る音がした。
「……あの」
リリアーナが口を開いた。
「なんだ」
「公爵家の作法を身につけさせると、おっしゃっていましたが」
「ああ」
「虫を食べることは、公爵家の作法に含まれますか」
クライドが窓の外から視線を戻した。
リリアーナを見た。
「含まれない」
「では、引き続き私が個人的に行うことは」
「……屋敷の庭でやるな」
「庭以外なら」
「黙っていてくれ」
リリアーナは「はい」と言って、また前を向いた。
クライドは窓の外に視線を戻した。
馬車が石畳を進む音が続いた。
しばらくして、クライドがまた口を開いた。
「……メープルシロップが好きなのか」
「はい。採集して楓の樹液を煮詰めたものです。甘くて、虫と一緒に食べると美味しいんです」
「虫と」
「はい。バッタにかけるとナッツのお菓子みたいになって」
「もういい」
「はい」
また沈黙が落ちた。
クライドは額に手を当てた。
窓の外、街並みが流れていった。乾いた土の庭が続いて、それからベルテ侯爵家の屋敷が見えなくなった。
リリアーナは膝の上に手を置いたまま、窓の外を眺めた。
ベルテ侯爵家が、遠くなっていった。
地下室が、遠くなっていった。
玉ねぎの山が、廊下の雑巾がけが、薪割りが、イザベラの食べかけが、母親の「首輪はついているわね」が、遠くなっていった。
不思議な気持ちだった。
悲しくもなく、嬉しくもなく、ただ静かに、遠くなっていく。
お腹が、鳴った。
静かな馬車の中に、はっきりと響いた。
リリアーナは前を向いたまま、腹に力を入れた。
遅かった。
クライドが、リリアーナを見た。
リリアーナは「……失礼しました」と言った。
クライドは何も言わなかった。
窓の外に視線を戻して、御者に向かって「急げ」とだけ言った。
馬車の速度が、少し上がった。




