17話 瞑想の玉座、新たな胎動
京都での死闘から数刻。
人里を遠く離れた、現代日本の地図からも忘れ去られたような深山みやま。
そこには、千年の時を経てなお朽ちることのない、古いにしえの神殿跡地がひっそりと佇んでいた。
苔むした巨石の柱が立ち並び、天井は崩れ落ちて夜空を仰いでいる。だが、そこを支配する空気は、下界のそれとは明らかに異なっていた。肺に刺さるような冷気、そして肌を焼くような濃密な「瘴気」。
奥座。
かつて神を祀ったであろう石の玉座に、一人の男が深く腰を下ろしていた。
酒呑童子。
その存在感は、ただそこに座っているだけで周囲の空間を歪ませるほどに強大だ。彼は気配を完全に断ち、半ば瞑想するかのように目を閉じている。
カサリ、と。
枯れ葉を踏む微かな音が、神殿の静寂を破った。
酒呑童子は動かない。ただ、その切れ長の目だけをゆっくりと開け、石畳の上を歩み寄る「人間」を見下ろした。
やってきたのは、二十代前半ほどの細身の青年だ。
黒に近い暗色の髪が無造作に揺れ、異様に白い肌が月光に透けている。整った顔立ちはどこか無機質で、人形のような美しさを湛えていた。だが、その足取りには一切の迷いも、そして「生気」もない。
酒呑童子は唇を歪め、低く、地鳴りのような声で口を開いた。
「……どうした、『茨木童子』」
「報告に参りました、我が主よ」
青年が答えた瞬間、その姿が蜃気楼のように揺らめいた。
人間としての仮初かりそめの姿が「滲み」、その本性が漏れ出す。
暗色だった瞳が、内側から発光するような不気味な金色へと変色する。
涼やかだった口元は耳元まで裂け、鋭い牙が月の光を弾いた。
何より異様なのは、その全身から漂う「違和感」だ。関節は人間には不可能な角度でしなり、地面に落ちる影は、巨大な角を持つ鬼の形へと変貌する。しかし体はやや細身のままだった。
そして、彼が片膝をついて首を垂れた際、その「最大の特徴」が露わになった。
左腕は人間のような白皙はくせいのままだが、右腕だけが明らかに異常だった。
それは人間よりも二回りほど大きく、煤けたように黒い。長く鋭い爪が石畳を容易に削り、その皮膚にはかつて切り落とされた際の「再生の傷跡」が、呪いの刻印のように赤黒く脈打っている。
平安の世、渡辺綱に切り落とされた伝承のままの、歪で、凄絶な破壊を司る腕。
「玉藻前が……やられました。京都御所にて、散った模様です」
茨木童子の声が、一瞬だけ低く、獣の唸りのような響きを伴って神殿に反響した。
酒呑童子は再び目を閉じ、ふぅと短く息を吐いた。
「……そうか。奴とは平安の昔より、長い間、共に夜を駆けてきたが……。あの毒婦め、ついに力尽きたか」
その言葉に悲哀はない。だが、古い戦友を失ったことに対する、王としての淡い追想だけがそこにはあった。
「相手は……例の第1型部隊か?」
「左様にございます。……そして、もう一つ。主あるじが直々に『侵食』を施した、あのアンドロイド……カイトと呼ばれている個体について」
酒呑童子の眉が、僅かにピクリと動く。
「……あ奴がどうした。壊れたか?」
「いえ。……我らの力を、自らの意志で『コントロール』し始めた模様です。玉藻前の核を穿つ最後の一撃、その起点となったのは、主のスパークを完全に支配下においた、あのアンドロイドの出力でした」
「……ふっ、はははは!」
神殿を震わせるような、豪快な笑い声が酒呑童子の口から漏れた。
彼は膝に肘をつき、手負いの獅子のような鋭い眼光で虚空を見つめる。
「やりおったか、あの小僧。……面白い。実に面白い」
「……主よ、あのアンドロイドは危険です。今のうちに私が……」
「案ずるな、茨木。本当はあのアンドロイド……『ルーク』という不思議な実験機体を、そのまま我らの肉体うつわとして取り込むつもりであったが……。奴らで毒を薬に変えたというのなら、それはそれで愉しみが増えたというものだ」
酒呑童子は、玉座から立ち上がることなく、茨木童子に鋭い視線を戻した。
「奴らは、自分たちの意志で勝ったと思っているのだろう。……だが、それは我が力が奴らの回路に深く、深く根を張った証拠でもある。……いずれ、その芽が吹く時が来る」
「御意に……」
茨木童子は深く一礼をした後、音もなく立ち上がった。
その動きは、滑らかすぎて生物としての質感を欠いている。彼は一歩踏み出すごとに、その異形の腕、裂けた口、金色の瞳を「人間」の姿へと塗り潰していく。
神殿の出口へ向かう彼の姿は、再び二十代の、どこにでもいるような、しかし不気味に美しい青年の姿へと戻っていた。
姿が完全に滲み、闇に溶けて消える直前。
茨木童子は振り返ることなく、主人に語りかけた。
「……次は、私が。あのアンドロイドたちに、真の絶望おにを教えてやりましょう」
「落ち着け。奴らを少し楽しませてやろうではないか。」
茨木童子の気配が完全に消失した後。
酒呑童子は、再び石の玉座に深く背を預けた。
「鋼の人形どもよ。貴様らが守り抜いたその『朝日』が、いつまで続くか……。我ら鬼、次はより深く、貴様らの心の内側にまで入り込んでやろう……」
男は不敵な笑みを浮かべ、再び目を閉じた。
神殿の周囲で、無数の狐火が消え、代わりに黒い、重苦しい霧が山全体を覆い始めていた。




