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文芸部 ほたる短歌班  作者: はあとのええす
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新しい世界を横断するウルトラなクイズ

新しい世界を横断するウルトラなクイズ




 


 この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。

 答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。


 風の中にあるんだ.

しかも風に吹かれちまっている。


 ヒップな奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。

 俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。

 でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。


 世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。

 俺はまだ二十一歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。


 あんたら二十一歳以上の大人は、だいたい年長者だし、もっと頭がいいはずだろう。






        ボブ・ディラン    雑誌「シング・アウト!」の記事(千九百六十二年)から







       言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの種芽吹くのを待つ






                        俵万智 「アボカドの種」






 あの、超磁力兵器が使用された大戦が引き起こした地球の大変動に残された人々は、わずかに生まれた陸地に、麦を蒔き、豚を飼い、生簀を作った。

 この時、その社会を支配したのは協力だ。みなで土地の大岩を運び柵を工夫し網の材料を探した。  

 いつかその島は、ハイ・ハーバー、と名付けられ育った小麦が精製され練られてパンとなり、豚の肉が食卓を彩り、魚料理が祭りに供えられる。

 社会は飽和した。そしてオーロ達の横行。


 オーロ達のことは村のみんなで考えなければならない問題。 


 麦畑では土地の奪い合いが起き、養豚の飼料を奪い合い、生簀はわずかなそれに適した入り江を奪い合う。

 そんな社会では、競争という、人の生業の一側面的な、一時的な価値だけが謳われる。あたかも争うことが「日常」であるかのようにみせかける錯覚の社会。

 協力は、年に一度の夏祭りと学校でしか現れない稀な心理となった。

 そして、ガン・ボートがやってきた。


 平和は戦争からしか学ばないのか。





    リバイバル アメグラの朝 この年になっって変わらぬものをみつけた 





                       ゆきのしたまりあ 「チョンボと緑一色」







            東海の小島の磯の白砂に

            われ泣きぬれて

            蟹とたはむる





                石川啄木  「一握の砂」






 部室棟を行く。一階には音楽室に吹奏楽部、廊下のつきあたりにはダンス部がある。吹奏楽部からは、あいかわらず『ラプソディ・イン・ブルー』が流れ、ダンス部からは、マイケルジャクソンの『スリラー』が聞こえてくる。


 二階に上る階段で、演劇部の部室から「ビーム ミー アップ、スコッティ。ゼアリズ ノー インテリジェント ライフ ダウン ヒアー」の叫び。スピン気味のセリフの反響。

 なんでも、『スタートレック』と『オズの魔法使い』『ポルタ―ガイスト』『ライ麦畑で捕まえて』に『ベルサイユのばら』をまぜて、『紅天女』でわって、『未知との遭遇』を浮かべ、さらに抽象数学でかきまぜ、やっと一滴の雫を絞り出したような小劇になるそうだ。


 やれやれ。そんなこと言うなよ。悪いのは僕だよ。優しすぎるきみたち。

 階段の踊り場を曲がればクラクションのような演劇部のセリフがとぎれる。

 三階には軽音部がある。

 「あのみそ汁の作り方をかいてゆけ」と、かぐや姫の『妹』の一節。

 そうだ。「二千五十年問題、そして平和のパラドックス」。

 


 文芸部のもう一方のお隣さんは数理物理部だ。

 去年の夏に全国大会で優勝を果たした「雪片フラクタル曲線の一般化によるホログラフィ原理のもつべき情報と広田のタウ関数。そして定言命法。」というテーマの論文のプリントを壁一面に貼りだしている。

 これが「みそ汁」のレシピの試みだ。アサリの味噌汁。それともなめこ汁。僕はジャガイモとわかめの味噌汁がすきだ。


 今日は、夕実はどこに顔をだしているんだろう。

 ひょっとしたら、これらの部室の鼓動は、去年の一年間、夕実が走り抜けたという、その痕跡なのかもしない。


 文芸部までの道順は自明だ。

 南棟から渡り廊下をとおって、東に折れてから階段を三階まで登ればいい。

 でも、そこに辿り着くまでに聞こえてくる音楽や言葉。それに耳を傾けると、突然、歩みは迷路に変わってしまう。ダンジョン。でも、探し物はみんな同じだ。

 出会い。





      踊り場に落ちた窓枠の影を踏む平均台をゆく足取りで  






                        伊波真人「ナイトフライト」





 そういえば姉妹部長代行と、ほかの三人の女子から「部室でサックスを吹いていいのはニ十分」と言い渡された。

 「ニューヨークは粉雪のなかあらあしい」

 粉雪、ああ。ああ。

 やれやれと思いながら部室へと近づいていく。演劇部といい、うちの女子部員といい。やれやれ。

 「成田からんの便はああ」「ああん」


 放課後の日没までの数時間。

 「片っ端から友達に借りまくれば」と吉田拓郎の『永遠の嘘をついてくれ 』の一節を口ずさむころには部室の扉をあけていた。

 「振り払え、風のようにあざやかにいいん」「えっ」

      


 「嘘じゃないよ」

 「タネは、肯定的、建設的に明かされたわ」

 松尾響子が僕の先手を打って王手をかけてきた。

 松尾響子はノートパソコンを覗きながら、ぼくの鼻歌をさえぎったのだ。それはこのあと長く十九手詰めの始まりだったのだが、僕はぜんぜんわかっていなかった。


 「ニューヨークと正岡子規のつながりは」

 「あたらしい詩だよ」




      空はかる(うてな)の上に上り立つ我をめぐりて星かがやけり





      

                            正岡子規






 松尾響子が続けた。キータイプが軽やかだ。

 「まず」

 「あららぎ」って「ノビルとかギョウジャニンニクの意味もあるらしいけど、これが、正岡子規の門下の歌人たちが集まった根岸短歌会の機関誌『馬酔木』、あしび、馬酔木、アセビ、生薬としてはバスイボクってことなんだけど。

 それを源流として「あららぎ」かもしれないし。


 玉、左下


 『阿羅々木』って字をつかってたから、阿羅漢、あらかん、っていう、仏教の最高の悟りを得た聖者こと、、迷いの輪廻から解脱し涅槃に至る存在。尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。

  こういう人は迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるらしいんだけど、その「『あら』らぎ」 からとってたかもね。


 同、玉


 一位の木にまつわる話としては、仁徳天皇がこの樹に正一位を授けたってことで「イチイ」の名が出たたって話もあるわ。


 玉、右上


 「まだあるわ。」

 「伊勢斎王が塔のことを、阿良良伎っていったみたいだわ。」


 長い松尾響子の話がひと段落付いた。


 桂、合い



 「ところで」

 「借りはどうやってかえすのよ」「おごらせてるばかりじゃ、今にみんなどっかいっちゃうわよ」

 松尾響子が警告のニュアンスをふくんだ声を発した。


 「そりゃあ、『ボヘミアの森からの贈り物』だよ」「一番ひかってるものってなんなんっていえば」「みんなが、幸せに暮らせるような何かだよ」今日は赤色のシャツ、ブルージンズのぼくが返答する。

 「それより、結局、子規がなんだって」


 つまりこれが桂、右だ。



 「わたしたちは、港へと向かう灯台を建てたんだわ。」「山頂への、空、宇宙の秩序と「この道」」、  

 「「地上の営み」が出会うところ」の「星」を発見したのよ」


 「でも、それは「あたらしい旅」の始まりよ」「終わってなんかないわ」

 「希望はあるわ」

 「現れる『二千五十年問題』、『平和のパラドックス』」「そして『恒久平和』の『夢』」

 「山のような仕事」。

 「「消去法かしら」、「演繹的帰納法かしら」、「イプシロン・デルタ論法かも」。」


 魔王討伐後のあたらしい冒険。


 「『解』。『夢』。の存在は示されたわ」松尾響子は続ける。


 うーん、同、玉

 「それが、『ニューヨーク』」「『自由の女神』ってわけか」ぼくはただ、相槌を打った。




 窓辺の丸机に椅子を持って行って三人でお茶会してる、姉妹部長代行、松井ありさ、森城いずみが三人でクスクスと笑っている。

 彼女たちはぼくがもう詰んでいるのを見えているのか。


 ただよう香りからして、どうやら今日は紅茶だ。それもレモンティーだ。

 レモンといえば、その実はいにしえの航海者を救った「奇跡の果実」だ。十八世紀のジェームズ・リンド達の研究でレモンが壊血病を防ぐことが判明したんだ。

 長い航海で多くの船員が壊血病で命を落としていたなか、当時の船乗りたちはレモンを神から与えられ 

 た果実って言ったらしい。

 ニューヨークへの航海。そのカギとなるレモン。

 「生のレモンですね」「だれがもってきたんです」。持ってきた人が真実を握っているに違いない。


 松尾のちょっとくらいの雑な論理なら残らず全部受けてやる。


 「はーい」

 「はーい」

 「はーい」

 姉妹部長代行、松井ありさ、森城いずみの三人が全員手をあげた。嘘つきじゃないのは誰だ。

 「もう一度訊きます」「レモンをもってきたのは誰ですか」

 しーん。

 今度は誰も、返答しない。

 「これが最後です」「正直に答えてください」「レモンをもってきたのは姉妹部長代行ですね」

 「違いまーす」

 「違いまーす」

 「違いまーす」

 三人ともまだ、ごまかしている。いつまでも続くもんじゃない。明日のこと考えた方がいいぞ。

 「もう、これが本当の最後です」「レモンをもってきたのは松井だろ」

 「ブブーッ」

 「ブブーッ」

 「ブブーッ」

 すると残るのは、森城いずみだ。

 三人とも黄色系の服装だ。松井ありさは制服だが靴下が黄色だ。


 「わたしがもってきたんだよ」

 松尾響子がポットに残ったティーを自分のカップに注ぎながら、なにやってんだこいつ。という感じで答えを明かした。

 ポットには僕の分は残っていなかった。


 なんて酸っぱいんだ。文芸部の部室。



 裏切りの意味、それは「隣人としての生き方」を選ばないことだ。文芸部の部則にするべきだ。



 部室の東側、軽音部側の壁に米利先輩からの青い色のはがきが、姉妹部長代行が百円ショップで買ってきた額縁に入って飾られてる。

 軽音部吾kらは、あいかわらずかぐや姫のメロディー・

 米利先輩のインクの色は黒。右肩上がりのくせ字の手書きの手紙だ。




       このたび、わたくし、米利門子は馬頭星雲出版社の新人賞

      「馬頭星雲賞」をいただきました。 

       今夏には、処女作『手漕ぎトロッコの取説を読め』が馬頭星雲出版社からでます。

       もし本屋で見かけたら、少し読んでみてください。

       気に入らなかったら棚に戻してくださってかまいません。

       ただ、もしどこかの一行でも、「ああ、そういうことってあるな」

      と思ってもらえたら、それだけで十分です。

       私は ただ腐海のなぞを解きたいと願っているだけです。

       わたし達、人間は このまま腐海にのまれて滅びるよう定められた種族なのか

      それを見きわめたいのです。

       賞をくれた人たちには感謝しています。でも、本当に感謝しているのは、

      原稿を書いているあいだにわたしを見捨てなかったあなた達です。

      まずはそんな報告まで。


                        陽の当たる坂道で              


                                米利門子




 「米利先輩は、船に乗り込んだわ」

 「社会実装が始まるのよ」

 「そして、その目的地は、『あたらしい文芸』の地」

 「わたし達、どうやらニューヨークにきているらしいわ」「リバティ島にいるんだわ」


 「誰だと思ったら」

 「自由の女神が待ってたんだわ」松尾響子はレモンティーをすすった。


 黄金律。 

 定言命法。

 ホッブス問題。

 パーソンズ社会学。

 無限回繰り返し囚人のジレンマのゲーム理論。

 ソリトン理論。

 ディブレイン理論。

 N公理。

 そしてスピノザのティカ。

  


 「これぞ、「重奏低音」だわ。世界の『ジャムセッション』よ」

 「わたしたちも、『カノン』にくわわるわよ」 

  姉妹部長代行もにこにこして言った。



 「ウェルカム」松尾響子が力強く返した。

 「君の名は」


 「『もくじゅ』よ」


 僕は矢継ぎ早の松尾響子の話の展開がちんぷんかんぷんだった。


 盤をよく見るんだ。早指しになってしまった。   玉、右

 「何言ってんだよ。意味深な言葉で核心にせまらないで欲しいな」





    「秘密ね」と耳打ちをして渡された卵がぐらぐら揺れるポケット 






                    山崎聡子「手のひらの花火」






 定言命法や黄金律、スティーブン・ビンカーの仕事。「世界中の人が幸せにならなければ個人の幸せはない」という宮沢賢治の達観。これらはN公理という情報をもった切片。

 それらはN公理を中心とさした同心円であると同時に、フラクタルでもある。

 N公理という規則からなるフラクタルだ。


 そう、人間社会、倫理社会は、N公理が、そのフラクタル的な自己相似像として現れたものだ。

 そして、リゾームもN公理の規則を深層に持つ。


 リゾームっていうのは「地下茎」を意味するんだ。ショウガやタケのように、中心となる幹を持たず、地下で横方向へ広がりながら増殖する構造。この構造から、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが著書「千のプラトー」で、「世界は本来、樹木に例えられるような階層構造ではなく、リゾームのようなネットワーク構造として理解できる」という概念を提唱した。

 樹木モデルっていうのは、神、国家、社会、個人のつながりを、中心がある、上下関係がある、起源や原理があるととらえる考え方だ。全体を統一する絶対的なルールがあってつながりととらえる考え方だ。

 一方で、リゾームは、中心の存在を否定し上下関係はなく、一点が壊れても全体は残るモデルを考えた。

 N公理が見つかった現在、この樹木モデルとリゾームモデルを同じ事象の別表現とみることができる。 

 N公理が中心なき中心原理だ。

 

 植物のリゾームは、自己と他者、すなわち自己の分身を、お互いに生かそうとするという法則化で繁茂している。

 たけのこ、生姜、アスパラガス。

 自己保存と、クローン個体の増殖を同時に実現させている。

 N公理だ。

 一本の地下茎から複数の芽がでて、それぞれが独立した個体のように見えながら地下ではつながっている。

 そして、中心個体はない。中心なきネットワーク。

 これは、ガタリ、ドルーズが強調したリゾームモデルだ。

 リゾームは森の菌根ネットワークにもみられる。異なる樹木間で栄養や情報が移動することが知られている。


 「自分ではない、分身でもない存在との協調」

 ジャムセッション、

 ソリトンの干渉、

 交通流の秩序形成、

 海岸線のフラクタル、


 共通して言えるのは

 「局所的な「自己の繰り返し」から全体の秩序が生まれる」だ。



 そして、雪片曲線、フラクタルの着眼点からは、「この宇宙はいわば二次元銅板にN公理を刻んで生じたフラクタル」という考えがうまれる。

 三次元空間の情報は、二次元境界面の記録できる。

 ホログラムを考えた時、ある小片の二次元境界面に、全体像である三次元空間の情報を含むことができる。三次元の部屋の情報が、その壁面に全部かけるというのがホログラフィック原理だ。

 一方、フラクタルは部分が全体を反映する。宇宙には、銀河団、銀河、恒星系、惑星系という階層構造がある。また、自然界には樹木、肺、河川、神経網などフラクタル的なものが多い。

 宇宙は、フラクタル的な傾向を持つと言える。

 つまり、部分の中に全体の法則が繰り返し現れる、という世界観だ。

 宇宙とは一つの根源情報が様々なスケールで自己展開している巨大なフラクタルなんじゃないのか。

 N公理のその構造は、スケール不変的な公理として機能している。

 量子から宇宙まで、どのスケールでも「自己保存する」単位が成立する。タウ関数がソリトンの「全ての情報を含む母艦数」であるように。


 海岸にもN公理がある。

 ジャムセッションにもN公理がある。

 リゾームにもN公理がある。 

 ホログラム原理のもとで、N公理の言葉の構成が世界を形作っていて、それは、N公理を規則としたフラクタルの複雑系なのかもしれない。


 そして、

 市街の夜景。

 日常の街並み。

 それは、中心市街、副都心、地域中心地、商店街、近隣店舗からなる。

 この構造も自己相似だ。フラクタルだ。そしてここもN公理を背景にもっている。


 また、

 同心円フラクタルモデルを考えた時、キリマンジャロにある赤道直下の「雪」としての山頂中心モデルの「雪」としての幸せ半分、悲しみ半分のN公理」と、そのすそ野、

 ホッブズ法原理、

 ロジャー正義論、

 囚人のジレンマ、

 パーソンズ社会学、

 なんかが挙げられる。


 海岸線フラクタルモデルで考えれば海岸線を決める規則としてのN公理。

 ニュートンの砂浜。

 ソリトン理論、

 Dブレイン理論。


 つまり、愛は海にあって砂浜には貝殻のようにそれを拾って耳にあてえれば愛の「声」、つまり黄金律を聞く、なんてポエムのモチーフを描くこともできる。

 ボブ・ディランへの答えは、そう、僕らはどうやら海にきているらしい。

 「男は大きな河になれ」、「女は大きな海になれ」という、さだまさしの「男は大きな河になれ」の詩がリフレインしている。

 探し物は机の中でもカバンの中にも無くて、それは「輪舞」。


 しょうが、

 アスパラガス。

 タケノコ。

 ソリトンをもたらす深層構造としてのタウ関数のリゾーム。


 しょうがも、アスパラガスもタケノコも、そしてソリトンもN公理、つまり、愛を持つ。

 北極星をたよりに旅する人の目に映るのは、その航海で欲してやまない新鮮な、しょうが、アスパラガス、たけのこ、ってことか。


 切片の指し示す中心、

 北斗七星が、カシオペアが指し示すポーラスター。こぐま座の尻尾。世界樹の年輪がもつ中心情報。

 海岸線の明け方の貝殻。


 ポエム、つまり短歌は、迷える子羊の心底のいななきかもしれない。そう、通過儀礼。


 ここで、同、玉

 


 なんか聞いたことのある話だな。

 ぼくは、松尾響子の話を僕なりに解釈しながら、ふと、思い当たった。

 米利先輩の去年の文化祭発表「河という河がそそぎ込む場所;海」だ。

 松尾響子の話は米利先輩の説を裏付けして補強した格好になってる。




 「わたし達を結びつける、重奏低音。」「それはどこから聞こえてくるのかしら」

 「いつかきっと分かるのでしょうね。きっと。見果てぬ夢が ある限り、だわ」 

 「ああ、もう一度、わたし達ががやりたいことをやればいい。」

 rモンティーをすすりながら、姉妹部長代行が、なかばミュージカルみたいな大げさな仕草で詠嘆した。


 口癖のような夢。何度も同じ話の繰り返しが現れる。



 そして、まだ続く松尾響子の話をききながら、いや、鬼詰めを受け続けながら僕は考えた。


 「一方の状態が決まれば、もう一方の状態も瞬時に決まる」という自己の境界が溶け合ったような相関関係が「量子もつれ」だ。これをN公理と解釈すると、ホロフィラフィック原理において、僕たちがいるこの宇宙の空間というスクリーンを織り上げている「糸」こそが量子もつれだ。

 量子もつれは、宇宙というホログラムを記述するための「もっとも根源的な関係性の単位」で基本情報だ。

 宇宙の根底には、個体よりも先に関係がある。量子世界では、その関係が量子もつれとして現れ、巨視的には時空を創発する。

 人間世界では、その関係が共感、黄金律、N公理として現れ、社会秩序や平和を創発する。量子もつれとN公理は同一じゃないけど、「関係性から秩序が生まれる」という共通構造を持つ。



 バスケットボールの協調構造。個人の得点欲求とチームとしての勝利欲求。一方の、責任回避。

 マイケル・ジョーダンの有名な言葉「タレントはゲームに勝つ。チームワークはチャンピオンシップに勝つ」。


 「つまり、松尾が言いたいのは、松尾流に翻訳すればマイケル・ジョーダンの『タレントはゲームに勝つ。チームワークはチャンピオンシップに勝つ』だろ」僕は合い駒をうつしかなかった。


 角、合い


 「マイケル・ジョーダンの言葉は、熾烈なNBAの闘いのなかで見つかった「声」だわ


 「これは『情報の非対称性の解消』という、経済的な命題だわ」

 無慈悲にも松尾響子は続ける。


 同、角


 「一人の選手はコート全体を見ることは出来ないけど、五人の眼と判断が統合されるとき、システムの認知能力は個人の総和を超えるのよ」

 

 玉、左下


 「アセモグルの包摂的な、みんなのための制度が、収奪的な個人を超えるんだわ」

 「包摂的な社会の時、現場からの声が届いて、異論もゆるされ、大失敗の前に、つまり、戦争に突入する前に修正可能だわ」

 

 歩、合い


 「対話、市場、議会、研究、芸術によって学べるんだわ」

 「市場、科学、芸術、民主主義、ジャムセッションなんかはみんな、戦争より小さなコストで学習するための社会的装置だわ」

 「戦争による学習」じゃなくて、『包摂的社会と制度による学習』だわ」

 「『飛ぶ教室』は循環するのよ」


 玉、左上、


 「最大利益は個人を消すのではなく、個人の能力を包摂的な協調の中で統合することで生まれるわ」

 「日々の小さな衝突、カレーまん構文の「幸せ半分、悲しみ半分」の日常の、ルールを求める平和的な闘いのなかで平和を学ぶわ」

 「大戦争という破滅を迎える前に利害関係を調整する「包摂的な制度」を少しづつ築くこと。これが、人類が平和を学習する持続可能な方法だわ」


 同、歩


 「争ったり奪い合ったりするより協力した方が、つまりエクスカリバーのカレーまん公理の構図のほうが利得があるってことを日々の小さな経験から、心底の直観で分かってる人が大多数をしめればいいのよ」


 同、玉


 姉妹部長代行は湯飲みをすすりながら宿題にもどったようだ。聞き耳を立てながら。

 受験をひかえ、塾にいく日数も増えるだろう。姉妹部長代行が部室にいるのも、もうすこしすれば珍しい光景になってしまう。

 米利先輩が去った部室。

 姉妹部長代行が去った部室。


 「サリンジャーはライ麦畑でつかまえて』で、ホールデンに、「ペンシーに入る前よりも、人間として良くなって出てきた奴を、僕は一人も知らない』って語らせたけど、ホールデンの批判は単に「成績優秀者を増やさない」という意味じゃないわ。ホールデンは、学校が広告では「立派な青年」を育てるように見せながら、実際には人間を本質的に成長させていないと感じていたのよ。ペンシーの広告に出てくる「馬に乗ったホットショット、できる男」のイメージも、ホールデンは偽善的だと嘲笑したわ。

 でも、それは『ライ麦畑で捕まえて』が出版された当時の、サリンジャーの世界観だわ。

 現代教育学では、教育によって、て言っても、「飛ぶ教室」も含んでのことだけど、『心底の直観では分かってる人』は増やせるって見解よ」

 「ホールデンは、もともとハートを持ってる人が、ハートの教育で、そのハートを発露するだけで、ハートの無い人にはハートの教育は無力だと嘆いたわ」

 「でも近年の研究では、ハートをふやせるっていうわ」

 「にんじんは、道祖神みたいに道に沿ってどこまでも植えられているのよ」

 「二者対立の毎回しっぺがえしをする社会より毎回交渉する社会の方がいいわ。でも、もっといいのは、「そもそも衝突が起きても修復できる制度を持つ社会。」


 選択肢は、同、玉、しかない。


 森城いずみが白濁のプラスティックトレイからスライスのレモンを一切れずつとりだして部員の湯飲みに入れている。

 「ありがとう。いずみちゃん」

 「ありがとう」

 「ありがとうございます」

 一斉に声があがる。

 これが女子の連帯感なのか。


 湯飲みは五つならんでいる。どうやら僕もレモンティーにありつけるらしい。


 「ありがとう」


 僕はそう言い終わるとレモンの香りにまた気づいた。



 ジャムセッションの例で言えば、毎回ミスを罰すれば演奏は止まる。何をやっても許せば演奏は混乱する。実際には「ある程度の規律」と「ある程度の許容」が共存する。

 一方、しっぺがえし戦略は「二者間で協力秩序を維持するための最小限の規則」。しかし、ジャムセッションや市場経済のような多数主体のネットワークでは、対話、信頼、制度、許容といった要素が加わらないと全体の活力を維持するのは難しいだろう。

 「しっぺ返し戦略」に対する ダロン・アセモグル 的批判の視点は、 その戦略は二者間では有効だが社会全体では不十分ということになる。

 しっぺ返し戦略は、

 相手が協力したら協力

 相手が裏切ったら裏切り返すという単純なルールだ。

 これは、ゲーム理論では繰り返し囚人のジレンマの有力な解として知られてる。

 だけど、

 アセモグルの制度論から見ると「社会は二人のプレーヤーだけで構成されていない」という問題に乗り上げる。

 現実には市民、企業、政府、地方自治体、国際機関、他国なんかの多数の主体が存在する。

 だから二者間で合理的なしっぺ返しが、社会全体では非合理になることがあるんだ。

 報復の連鎖が起きる。

 例えば、ある国が関税を上げる。対抗する国が報復関税。ある国が再報復。対抗する国が再々報復。となると両国とも損をする。


 アセモグルは包摂的制度が繁栄を生むと主張している。

 報復の応酬は、交易縮小、投資減少、イノベーション低下を引き起こしやすいんだ。個別合理性が全体非合理性を生むというわけだ。 そして、信頼の蓄積が難しい。しっぺ返し戦略は、相手の一度の裏切りに反応する。でも現実には、誤解、情報不足、事故、通信エラー、がある。

 

 アセモグル流に言えば、良い制度とは「失敗を吸収しながら協力を維持する仕組み」だ。

 単純なしっぺ返しよりも、裁判所、議会、国際機関、契約制度、の方が重要になる。制度がなければ発展できない。

 アセモグルの中心命題は「国家の繁栄は個人の善意ではなく制度によって決まる」というものだ。

 しっぺ返し戦略は「秩序の最小単位」としては有効だけど国家や世界経済を支える原理としては弱い。


 N公理でいえば、ジャムセッション、市街地形成、フラクタル的秩序、自発的協力、という観点で見ると、しっぺ返し戦略は局所的な均衡を作る原理だけど、僕たちがN公理に期待しているものは多数主体が協調しながら秩序を創発する原理だ。その意味ではアセモグルは「報復の均衡」よりも「協力を持続させる制度設計」の方を重視すると言うだろう。

 しっぺ返し戦略は秩序の出発点にはなっても、文明の発展原理そのものではないんだ。


 松尾響子のキーパンチの音が激しくなった。


 そして、カール・グスタフ・ユング の元型論。

 フラクタル、N公理、

 「元型」っていうのは、「人間の心には、個人的な無意識だけでなく、集合的無意識が存在する」というアイデアだ。

 集合的無意識とは、民族や時代を超えて人類に共通する心の深層構造だ。

 その中に存在する基本パターンが「元型」だ。例えば、母、老賢者、英雄。子供、影、自己などが元型だ。これらは個人が発明したものではなく、世界中の神話や宗教に繰り返し現れる。

 ユングは、歴史上のイエスについて論じるよりも、キリスト像が人間精神の中で何を意味するかに関心を持った。彼にとってキリストは、究極的には自己の「元型」だ。

 ユングは、キリストを人間が自己実現へ向かう象徴と考えた。ユングは『ヨブへの答え』なんかで、黙示録を単なる未来予言としては読んではいない。彼にとっては世界の終末ではなく心理的変容のドラマだ。つまり、「ハルマゲドン」とは「国家間戦争」ではなく、「個人の心の中でおきる対立」だ。最後の審判は「個人の心の葛藤と成長」だ。


 ユングは黙示録を「未来の歴史予言」として読むよりも「人類の無意識に生じる元型的な変容過程」として読んだ。特に『ヨブへの答え』では、その考えが明確に示されている。

 ユングにとってのハルマゲドン、終末論は一般に言われる、

 善と悪の最終戦争

 神と悪魔の決戦

 世界の滅亡

ではなく、ユングは、善と悪の対立は、人間の心の中にも存在すると考えた。

 光、意識。

 闇、影、シャドウ。

の対立だ。

 シャドウ、影とは、

 怒り、

 嫉妬、

 憎悪、

 権力欲、

 破壊衝動、

 など、人が認めたくない側面だ。

 ところが影を否認すると、「悪は自分ではなく他者の中にある」と感じるようになrる。すると、宗教戦争、イデオロギー対立、民族対立が激化する。ユングは、「外の戦争」は「内なる戦争」の「投影」であると考えた。

 例えば、人生の挫折、病気、離別、中年期危機、など、古い自分が壊れるとき、心の中でハルマゲドンが起こる。その後に新しい自己が生まれる。これがユングの見方だ。

 ハルマゲドンは地理的な中東の戦場ではなく「人類の集合的無意識における対立の極点」だ。

 つまり、個人の心、社会、文明、宗教、に同じ構造、「元型」が繰り返し現れる。

 この意味で「フラクタル的な秩序形成」と比較することは可能だ。


「ハルマゲドンとは外部の戦争の前に、まず「内面の対立」だわ」


 同、玉


 

 気がつくと松井ありさは、三月まで姉妹部長の特等席だった西空をみわたせる窓辺席を占めてマインドフルネスを始めていた。

 瞳をとじてスマホのガイド音声が松井ありさのヘッドホンから漏れ聞こえてくる。


 ユングにとってハルマゲドンや黙示録の戦いは、

 理性と衝動、

 善と悪、

 意識と無意識、

 自我と影、

の対立を象徴している。例えば、

「自分は善良な人間だ」と思っている人が自分の嫉妬や怒りに気づく。「自分は正しい」と信じている人が自分にも間違いや傲慢さがあると認める。こうした内面的な衝突は苦しい。でもユングはその葛藤を避けるのではなく、向き合うことが人格の成長につながると考えたんだ。

 ユングにとって、世界戦争そのものも人類が自らの「影」を外部に投影した結果として理解できる面があると考えた。

「フラクタル」という見方を借りるなら、個人の心の葛藤、家族の葛藤、組織の葛藤、国家の葛藤、は、規模は違っても似た構造を持つと考えることができる。

 ユング自身は「フラクタル」という言葉は使っていないけど心理的な対立のパターンがより大きな社会の対立にも反映されるんだ。

 つまり「ハルマゲドン」は単なる未来の戦争ではなく「人が自分自身の中の矛盾と向き合うときに起こる内面的危機」で、その構造が社会や歴史にも映し出される「象徴」なんだ。

 ユング的に言うなら、「最後の審判」もまた単純な未来の裁判ではなく心理的な自己認識と統合の象徴として理解できるんだ。

『ブック オブ レボリューション』つまり『最後の審判』では「死者がよみがえり、それぞれの行いが明らかにされる」んだ。伝統的なキリスト教では「善人は救われる・悪人は裁かれる」という終末の出来事として理解されることが多い。でもユング的には、


「隠されていたものが意識の光の下に現れる瞬間」


 と読むことができる。

 心理学的な「審判」

 人は普段、認めたい自分、認めたくない自分を分けている。でも個性化の過程では、嫉妬、怒り、恐れ

傲慢さ、欲望、なども含めて、自分自身と向き合わなければならない。そのとき起こるのは、「神が自分を裁く」というよりも、


「自分自身の全体像が暴かれる」だ。


 だからユングにとって最後の審判とは、「神から点数をつけられる日」ではなく、「自分が自分自身の全体と向き合う日」だ。「ブック オブ レボリューション」は新約聖書の最後の書だ。「世界滅亡の予言書」という印象を受けるけど原語では本来、


「隠されていたものが明らかになる」


という意味だ。


 隠されていたもの。N公理。


 有名な場面として、七つの封印、四騎士、獣、バビロンの滅亡、ハルマゲドン、最後の審判、新しい天と新しい地、新しいエルサレムなどがあるんだ。キリスト教的解釈の伝統的では、現在の世界、終末の苦難、キリストの再臨、最後の審判、神の国の完成を描いた預言書として読まれるんだ。特に、ジーザス・クライストの最終的勝利が主題だ。

 一方、ユングの解釈は、この書を「未来の歴史予言」というより「人類の集合的無意識が描いた変容の象徴劇」として読んだんだ。

 彼にとって、竜、獣、ハルマゲドン、最後の審判は、人間の心の深層にある元型の表現だ。


 だから、、「ハルマゲドン 」とは、むしろ「個人の内面の対立」と考えるんだ。


 そう、最後の審判 とは 自己認識。

 「新しいエルサレム」は「 統合された人格」と解釈できる。

 ユング的読解では『ヨハネの黙示録』は「世界の破滅の物語」というより、「古い自己が終わり、新しい自己が生まれる」物語になる。だから、構造的には仏教の悟り、密教の即身成仏、錬金術の変成、そしてユングの個性化と並列される。

 そして、その変容は、単純な「克己、自分に打ち勝つこと」とは少し違う。

 「克己」は、欲望を抑える、感情を制御する、自分に厳しくするというニュアンスがあるけど、つまり「怒りを抑える」、「欲望に負けない」という方向だけどユングは影を抑圧するだけでは不十分と考えた。たとえば怒りがあるなら、なぜ怒っているのか、何が傷ついているのか、そのエネルギーは何を意味するのかを理解することが重要だと。つまり、克服する、打ち負かすというより、

 「認識する、受け入れる、統合する」だ。

 煩悩を単純に消し去るじゃなくて、そのエネルギーそのものが悟りへの道になる、という発想だ。ユング的に言うと「ハルマゲドン」とは「心の中の善悪の対立」。「最後の審判」は「自分の光と影の両方を見る」という「統合、新しい自己」なんだ。

 武道や禅で言う深い意味の克己、「自分を知り、自分を一つにする」という意味なら、ユングの個性化過程とかなり重なる。

 




           荒海や 佐渡に横たふ 天の川





                        松尾芭蕉






 N公理を、宇宙を構成するフラクタル構造の基本規則とすると、ユングの「元型」はそのときの基本規則、つまり「N公理」だ。


 喜びと悲しみのクラムチャウダー。


 元型は「個々の経験の背後に繰り返し現れる深層の「型」だ。フラクタルでは「局所と全体」が、異なるスケールのところで同じ生成規則を繰り返している。小枝と樹木、海岸線の部分と全体。

 N公理の「第一項、自己保存。第二項、他者も自己保存。第三項、第二項と第三項の両者は両立する」という関係が、個人の心理、家族、社会、生態系、文明、へとスケールを変えながら繰り返し現れる。

 「英雄」という元型なら、「自己保存という第一項」と「共同体への奉仕という第二項、第三項」の緊張として理解できるし「影」は、意識から切り離された「第一項の、攻撃性、利己性」と理解できる。そして、ユングの「自己」は「対立するものを包摂する全体性」として「第三項」を表すんだ。

 ユークリッド幾何では、その公理群から、三角形、円、多角形なんかが現れるけど、N公理がフラクタル世界の生成規則なら、元型はN公理からの図形として現れる。

 その図形は、英雄、母、影、自己、、、だ。

 つまり、ユングの元型は、N公理がフラクタル的に反復として現れたパターンなんだ。



 そして、この元型から出現する「バオバブ」。

 その種がN公理だ。

『星の王子さま』の中で、星の王子さま のバオバブは単なるアフリカの木ではなく重要な象徴だ。心の中の悪習慣や欲望、小さな嫉妬、憎しみ、怠惰、偏見などは、芽のうちは取るのが簡単だ。でも放置すると巨大化して人格全体を支配してしまう。

 サンテグジュペリは、毎日の手入れが大切だ。という倫理的メッセージを込めている。

 

 『星の王子さま』は千九百四十三年に出版されたんだ。当時のヨーロッパは、第二次世界大戦 の最中。だから、全体主義、ファシズム、ナチズム、戦争を生む憎悪などが「バオバブ」の暗喩だという解釈も有名だ。社会を破壊する思想としての「バオバブの種」。

 危険な思想も最初は小さな芽だけど、放置すると、その国全体を破壊するというんだ。

 ユング流に読むと「影、シャドウ」に近いだろう。

 人は自分の中の怒り、恐怖、支配欲、攻撃性を認めずにいることがある。しかし無視すると無意識の中で成長し、やがて人格全体を覆う。王子さまが毎日バオバブを抜く姿は自己認識と自己修養の象徴とも読めるんじゃないかな。


 そして、小さな種が巨大な結果を生むんだ。種は良い種、悪い種、その二極じゃない。

『星の王子さま』で危険な存在として描かれたバオバブは現実のバオバブそのものというより、制御されない成長の象徴として使われたんだ。

 現実のバオバブは、むしろアフリカでは「命の木」と呼ばれることもある有益な木だっていうけど。

 お釈迦様の「菩提樹」だって「樹」だ。

 

 「種」、「こころ」、は単純な二極じゃないってことだ。

  ユングの元型がとりうるモードが白、黒の二極じゃなくて、その間の灰色ってわけでもなくて、スペクトルの、虹の彼方にある心象風景はいろんな色があるってことだ。何色でもない花が咲き乱れる場所。


 雨の匂い。風の匂い。

 「われわれ」「われわれ以外」とか、黒色と白色、ひかり、影、、、、そんな世界の二側面しか見れない、うすっぺらい社会がおいてきぼりを喰らう。

 うっすぺらな青臭い社会はきっと短期的には栄えても、長期の社会実験では観測にかからない。


 ひとつでありながら、多様。



 森城いずみが部室の窓をそっと開けた。

 校庭には五月雨。あかるい雨。

 


 そして、ひとがソリトンの空色をとるとき、社会秩序は最大となり、でも、いろんな色があるから、それでもせめて日常的な秩序を僕は求めるんだ。

 社会が、フラクタル構造、あるいはリゾームモデルで、その両方を説明するN公理の規則にあって、人々が銀河の鉄路をいくとき、社会秩序が、ごく自然に自発的にフラクタルな広がりを見せる。


 そして、未解決のN現象。交差点でトラックやなんかとすれちがうタイミングの問題もそのうち分かるだろう。交差点にさしかかると、そのタイミングで「『愛』事運送」と描いたトラックにすれちがったり、信号でまちぼうけしてると「田『川』速便」のトラックが横切ったり、つまち、交差点や、踏切、橋をわたっているとかの象徴的タイミングで、象徴的な「サイン」を描いたトラックにすれちがったり、前の方に虹がでていたり、火球が、流星が流れたりする問題だ。

 二十世紀の研究で、ユングと物理学者のパウリの共同研究がある。

 『自然現象と心の構造』だ。

 かれらの着想は「心と自然、ネイチャーはより深いレベルで結びついている」だ。

 パウリの「ワールド クロック」の夢。

 そして、

 彼のあげた有名な事例は、

 「黄金の甲虫の夢をみた患者が、その話題の面談中に甲虫に似た虫が飛来した」という話だ。

 一方、パウリは、ヨハネス・ケプラーの業績を研究し、その幾何学的アプローチ、神秘思想、数の象徴性という土台に着目した。

 パウリの論文は「科学的発見の源泉にも、無意識な「元型」が働いている」というものだった。

 彼らは、

 「心と物質は、もっと深い一つの秩序から現れているのでは」と考えた。

 だから、僕はこの問題に対して、

 「元型の自己相似」

 「『意味」のフラクタル」

 「心と世界の構造的共役」

 のアイデアをもっている。

 トラックを一つの頂点として、信号機、そして僕の三点がつくる図形が、きっと心と世界のフラクタルという構造の一部なんだ。


 「宇宙のフラクタル」と「地上のフラクタル」の共役だ。


 シンクロニシティ。


 ユングとパウリの結論は、「ウヌス ムンド」。

 だから、僕は、「根源的な一つの世界、ウヌス ムンド」が、「ホログラフィックに描かれたN公理」、つまり「ホログラムのカレー構文」で、それが、人々の眼には「客観的な、ソリトンやディブレインという物理法則のフラクタル」と「主観的な、心のフラクタル、つまり黄金律や元型、定言命法」ということなる二つの見え方をしているんじゃないか。


 そして、そのふたつが出会うところ。それをぼくは見ていてそこにたっているんだ。






   もうだれもチョンボしないでオーラスのてんぱっているみどり一色 





            ゆきのしたまりあ   第四歌集「チョンボと緑一色」





            夜学子の 灯が水鳥の あたりまで





                           本宮哲郎








 「つまり、最後の審判は、森城いずみと松尾響子の由比ヶ浜の「チョコバット」の無邪気な奪い合い」

だったんだ」

 「チャリオット オブ ファイアーのラストシーンだ」。「エンドレスサマーだ」


 飛、合い


 例えば、短歌の対戦や、投稿なんかで負けたり、選外だったりして、僕は、「おー、ジーザス」とか「なむあみだぶつ」とか「なむみょうほうれんげいきょう」とかいうだろう。心がまっ黒に、影、シャドウに反転しちゃう前に、ジーザスの奴が僕の罪を引き受けてくれるってわけだ。そうして僕は、黒と黒に囲まれても、何かほかの豊かな色彩の色でいられるんだ。ただただ南無阿弥陀仏。オー、マイ ゴット。


 善人、真っ白けっけのひとはもしかしたらなにも気づかずあたりまえにただただ往生するだろう。でも僕たちはふぞろいのじゃがいもだ。N公理の世界で、だれもが罪びとだ。そしてだれもがN公理的に悪人であり、悪人と言われるすひとたちこそ通過儀礼、N公理をまのあたりにして世界を思い知るだろう。 

 モンゴメリは言った。だれもがそれぞれにそれぞれの黙示録を読むんだって。



 「祈りだよ。」

 松尾響子がつぶやいた。



 僕は、座ったまんま机のすみに右手の指先をそっとつけて、松尾響子におじぎをした。アーメン、あるいはアイムアマン。ミスター アイ エイント ア ボーイ アイ ム ア マン アンド アイ ビリーブイン プロミスドランド。いったいどれだけの高台まで歩けば森城いずみのみる景色に出会えるのか。ハウメニ。



 「まいりました。」




 「そうよ、カレーまん構文。」

 「果実くんが文芸部にもたらした、短歌の、愛と愛の闘いの構図。『なもなき公理』、これに帰ってきたのよ」


 今までの松尾響子と僕のやりとりをノートに記録していた森城いずみが僕に気づかせてくれた。

 森城いずみが僕のこと知っていてくれる。

 タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている価値はない。



 迷宮の最深部に辿り着いたら、そこには「僕」の鏡像が待ち構えていた。



 そして、森城いずみは、その記録のかかれたノートのページを破ると、紙ヒコーキを折って文芸部の窓からなげだ。

 いつかこのくもり空だって虹を架けるはずだ。 みんなをつれて。



 





     サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい  






                        大滝和子「銀河を産んだように」







 「そして、子規の「あたらしい詩」」

 松尾響子が続ける。


 「そして私たちは『次の世代に地球を渡す世代』を生きるんだわ」

 と、松尾響子は、もうなにか目当てをみつけているようなキラキラした瞳で語った。 


 「そうよ」

 「N公理の発見によって奈良の時代から詠われてきた和歌、短歌、そして子規によって再定義された短歌、近現代短歌、そしてこれからの短歌の価値が再発見されたのよ。」

 「あたらしい視点、角度が見つかったのよ」

 「アップデートされたのよ」

 

 「刷新ね」

 森城いずみがノートをたたみながら顔をあげて合図値をうつ。

 「浜辺で拾った貝を耳に当てたら、悲しいラブソングに聞こえていた歌たちが、カレーまん構文の発見の後に残った箱の中のパンドラの希望として、それをちょっぴり含んでいて、苦くて甘い、ダイヤモンド、それよりやわらかくてあたたかい世界だったことが見えてきたわ」





        くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる






                             正岡子規







 「そうよ」。松尾響子があざとく、レモンティーを飲み干しながら、

 「そして、世界のいろんな言葉で『短歌』が歌われるように、各言語での短歌の定型をみつけるわ」

 「そのなかで、「あたらしい「ヨーク」。わたしなりのあたらしい詩を見つけるわ」

 「『短歌』は千年の時を行く『宙船』だわ」


 「短歌の歌集は、『宙船』のいかりだわ。」「わたしを「そこ」にとどめてくれるわ」

 「そして、何冊もの歌集は「タグボート達」。わたしを港へいざなうわ」

 と、いっきに言い放った。

 僕も、ゆきのしたまりあの「タコ公園時代」をディパックにいつも入れて持ち歩いてる。



 だいぶ話し込んでいるのに窓の外はまだ明るい。

 軽音部から、今は渡辺美里の「テン イヤーズ」の弾き語りが漏れてくるのに気づく。

 そうだ、あれから十年、そしてこの先の十年。そして二千五十年。

 森城いずみの「深緑のサツマイモ畑」の未来。

 大切なものは何か。

 やがて月日が過ぎゆきぼくは知るだろう。カレーまん構文の言葉のほんとうの意味を。

 五月雨はやんでいた。新緑、深緑、みどりで一色だ。


 部室の窓のかたちの青空。西に大きく傾いた太陽。

 遠くに見えるカナツヶ丘の公園の緑があざやかだ。森城いずみがやっぱり虹をさがしている。



 「物を書いていると、自分も成長する気がするわ。」

 松尾響子が共用の文芸部のノートパソコンを閉じながら独り言じみたことを言った。

 「いろんな角度から物事をとらえなおして」

 「文芸、合奏、合唱、バンド、バスケ、ダンス。協調と競走。」「ジョギングもしてるし」



 サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンに、ルーシー・モード・モンゴメリは『アンの青春』でアボンリーの学校の教師となったアン・シャーリーに「学校教育の『人をかえる力』の無力さ」を語らせた。

 この話には僕はひっかるんだ。

 「制度としての学校は人格の成長を、そのまんまでは保証しない」という問題提起だ。

 ニ十世紀の教育学、発達心理学、経済学が正面から長く格闘し議論してきた問題。

 しかし、現代の学校への見方は、

 「『学校』の効果も確実に存在する」という結論に達している。

 人はみずから成長する存在であって、教育はその自己組織化を支える環境条件なんだ。

 学校は、種そのものはつくれない。でも、学校は、「日光」であり「水」であり「土壌」なんだ。


 パンデミックによる突然の学校閉鎖という出来事が、教育学上の史上最大の自然実験となったという。

 新型コロナによる学校閉鎖は「有意な学力損失をもたらした」んだ。

 もし、学校が単なる「選別装置」にすぎなかったら学校が閉鎖されても学力データは影響を受けないはずだ。でも実際には確実に低下したんだ。


 学校は「何か」を与えている。


 学校という場所は、勉強を教えるだけの場所としては非効率かもしれないけど、非認知な能力、「他者と交わり、ルールを生み出す力」「葛藤を乗り越える力」を経験をつうじて育む役割を強く果たしているんだ。





       真夜中の電話に出ると「もうぼくをさがさないで」とウォーリーの声




      


                      枡野浩一 『てのりくじら』


 




 「ふーん」

 「短歌の英訳研究なんて高校生っぽくっていいわね」「わたしもやるわ」「文化祭の展示テーマにしましょうよ」

 姉妹部長代行が、しめた、といった感じで松尾響子の長話に割り込んできた。松尾響子の話はひと段落ついたらしい。


 「じゃあ、週末、合宿所で『かんづめ』よ」「果実くん、合宿所、予約しといて」






        海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり





                            寺山修司





      レジで待つ一足先のきみのためただきみのためだけに歩けり 






                    ゆきのしたまりあ 「チョンボと緑一色」






        地下鉄の前方後方指す指に白き流星をともす駅員






                        梅内未華子






         流れ星うつくしかりき君とわれくつは虫啼く原にかかりぬ






                         与謝野晶子






 文芸部新人勧誘五月号が部室のドアに貼りだされた。




 後ろへとまわせと言われ問題は飛行機雲にあたる南風   姉妹もくじゅ


 おはようからおやすみまでを四百字詰め用紙にまとめていた日   松井ありさ


 平日と休日がある夏の日よ   松井ありさ

 

 夏ギフト競って早しハウス物  松井ありさ


 あのひととわたしは銀河さようなら二億年後にぶつかる銀河   松尾響子


 雨粒は手をつなぐのに疲れ果て両手はなした空の元カノ   ほたる


 きみの描くフリーハンドの真円はコンパスなんかなくたって丸   水辺果実





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