1 突然のこと
政人は不意に人の気配を感じた。鏡の前で歯を磨いているときのことである。鏡に人の姿はないが、確実に後ろに何かいると思った。
政人がおそるおそる振り返ると、黒っぽいつなぎを着た人間が立っていた。しかしその人物の顔を見る前に、頭を硬い物で殴られ、気を失った。政人は、薄れゆく視界の中で、その人物がヤギのようなマスクをしていたように見えた。
✝✝✝
政人が次に目覚めたとき、視界は布で遮られ、手足も縛られていた。感覚から察するに、コンクリートの上に寝かされていた。拉致されたのか? 政人はもがいて、その状況から抜け出そうとした。
すると、人の声がした。
「起きたみたいだぞ」
若い男の声だった。
「本当にこいつが、カマキリなのか?」
別の声。これも若い男の声だ。
「間違いないでしょ。あそこにいたんだから」
今度は若い女の声だった。政人は誰かと勘違いしているのだろうと思った。なぜなら政人は、カマキリではないからである。
「しかし、俺たちが追っていた相手が、こんなにも簡単に掴まるもんかね」
「まぁ、それも、今からわかるわ」
「気を付けろよ」
「私を誰だと思っているの?」
女が近づいて来る気配があった。政人は女のことを気にしつつ、辺りの様子を探った。そして、沈黙を保っているが、この場にもう一人いることに気づく。彼らは一体何者なんだ? 政人は眉をひそめる。
「ねぇ、あんた」
「俺はカマキリなんて名前じゃない」
「大丈夫。あんたの言葉なんて最初から信じていないから」
政人は、なんだこいつ、と思った。しかし自身の潔白を証明するために喋った。
「俺はさっきまで歯を磨いていたんだ。そしたら、後ろから殴られて、気絶したんだ」
「だから、あんたの言葉なんて」
「黒っぽいつなぎを着ていた! それに、何か、ヤギのようなマスクをしていた!」
「……本当?」
「ああ、本当だ!」
「ふぅん」
見えないから、女がどんな表情をしているかわからないが、声音から察するに、悩むか、それに近い表情をしていると政人は考えた。だから、自分を襲ってきた男について話せば、人違いであることを示すことができるのかもしれないと思った。
「何か硬い物で殴られた!」
「何かって何?」
「それは、わからないけど……」
「使えないわねぇ」
突然殴られて、何で殴られたかなんて、理解できるわけがない。政人は心の中で舌打ちをする。しかし女の食いつきから、この話題を続けることが重要であるように感じた。だから政人は考えた。硬い物。硬い物と言えば、バールか?
「……バール」
「えっ」
「バールで殴られた」
「本当?」
「うん」そのとき、体の内側から焼けるような痛みが、政人の全身に走った。「ぎゃああああああああああああああああああああ!」
「嘘、吐いたね」
痛い。マジで痛い。政人は涙が出るほどの痛みに悶えた。
「う、嘘?」
「言い忘れていたけど、すでに拷問は始まっているから」
「ご、拷問?」
「そう。あんたが嘘をついたら、電流が流れる」
それを先に言え! 政人は眉を吊り上げる。死を覚悟するような、強烈な痛みだった。
「で、どうして嘘をついたの?」
「だって、俺が潔白であることを証明したかったから! 俺は、あんたらが捜している人間じゃねぇ!」
「それを決めるのは私」
「そもそも! 俺がカマキリってやつだったら、カマキリじゃないと言った時点で、電流が流れるはずだ!」
沈黙。このクレイジーな女は自分の矛盾にしっかりと気づくことができるのだろうか? 政人は気づくことを願った。
「……話は変わるんだけどさ。あんた、人を殺したことある?」
「……ない」
再び全身に電流が走って、政人は気を失った。
✝✝✝
次に目覚めたとき、政人は夜の公園に横たわっていた。手足の拘束は解かれ、視界も良好である。しかしまだ、先ほどまでの痛みが残っていて、体が少しぴりつく。
「今度会ったら、ただじゃおかねぇからな。あのクソ女」
起き上がって辺りを確認する。見たことがあるような、ないような、そんな公園だった。
外灯に照らされたベンチに人が座っていた。季節感のない黒のローブを着た白い肌と銀色の髪をもつ中学生くらいの少女だった。少女は政人を見てニヤニヤしていた。感じの悪い少女だから、関わりたくないと思ったが、自分をここに運んできた連中のことを知っているかもしれないと思い、話しかけた。
「あの、すみません」
「知らないよ」
「えっ」
「僕がここに来たとき、君はすでに倒れていたんだ」
「そう、なんですか」
なら、助けろよ。と政人は眉根をよせる。
「なら、助けろよ。君は今、そう思ったね」
「いや、思ってないですけど」
ピリッと痛みが大きくなって、政人は唇を結んだ。先ほどまでの拷問を体は覚えているようだ。
「ふぅん」
少女は意味深に目を細める。何だか、気味の悪い少女だ。さっさと別れた方がいいかもしれない。
「まぁ、見てないならいいです。じゃあ、俺はこれで」
政人が立ち去ろうとした瞬間、少女は言った。
「人は生まれながらにして悪人なんだ」
性悪説か? 何だ、突然。政人は不思議に思って振り返る。
「だから、君が倒れていても、誰も助けようとしなかった。それは僕だけじゃない。公園の前を歩いている人だって、倒れている君に気づいていたけど、誰も助けなかった」
少女は空を見上げた。政人も訝しく思いながら、空を見上げた。空は厚い雲に覆われていて、いつ、雨が降り出しても不思議ではない空模様だった。
「この街では毎日誰が死んでいる。でも、誰もこの街から出ようとしない。なぜか、わかるかい?」
「わかりません」
「自分は大丈夫。そんな根拠のない自信を持っているからさ。他人に無関心で、自分のことだけを考えて生きている」
「……寂しいですね」
「でも、それがこの街の本質」
「なるほど。それで、あなたはどうしてそんな話を俺に?」
少女は答えなかった。政人の顔をじっと見つめたまま、微笑を浮かべていた。やはり気味が悪い。さっさと離れよう、と思った。
すると再び彼女は口を開いた。
「この街の住人は、死が身近すぎて、感覚が麻痺している。だからきっと、悲しまないように、他人に対して無関心なんだと思う。そして彼らは、心の底では望んでいるんだ。この当たり前を破ってくれる救世主が現れてくれることを」
「……そうなんですか」
少女は立ち上がって、政人に歩み寄りながら言った。
「では、問題です。その救世主は、どうやったら現れるでしょう?」
少女は政人の目の前に立ち止まって、政人を見上げた。自分の口臭を気にしてしまうほど近いから、政人はたじろいでしまった。
「わからないって顔をしているね。なら、正解を教えてあげる。例えば、こんな風に殺されたら、救世主が現れるんだ」
「えっ」
少女が政人にもたれかかってきたかと思うと、ドスっと鈍い音が下腹部からして、重々しい衝撃もあった。政人はおそるおそる下に目を向ける。少女の頭頂部が離れ、自分の腹が見えた。そして、服に裂かれた跡があって、血が滲み始めた。腹部から感じる激痛で、ようやく自分が刺されたことを理解する。
「うわ――」
政人は叫ぶことすら許されなかった。少女が、政人の首にナイフを突き刺したからだ。
力が抜け、崩れ落ちる政人。全身に力が入らない。傷口から血が溢れ出る感覚が、政人の脳内を支配した。
「また会おうね」
少女は政人の耳元で囁いた。
「やつだ! 捕まえろ!」
誰かの叫び声が聞こえた。少女が走って逃げて行く。少女を追いかける影がいくつかあったが、定かではない。それほどまでに政人の意識は朦朧としていて、視界は霧の中にいるように霞んでいたからだ。
政人は地にひれ伏して、自身の無力さを悟った。すでに痛みはなく、自分の命の炎が消えていくことを感覚で理解する。余命はあと数分か。この数分で俺は何ができる?
政人はそこで、自分の右手首にある古傷に気づいた。感覚のない自分の体に、鞭を打つような鋭い痛みが走る。その痛みで政人は思い出した。あの日、強く生きると決めた自分を。
死ぬわけにはいかない。俺はまだ死ぬわけにはいかない!
政人は光を失いかけていた瞳に、再び光を宿し、歯を食いしばって、地面を這った。あと数分で死ぬ。それでも残りの数分を必死でもがこうと思った。




