第四部 脱却思想と合理性について
「反・近代合理思想」として挙げられるポストモダニズムと言うものは、近代思想である画一化などの決別と同時に、反伝統主義的実験を引き継いだものと言えよう。
近代思想の生産性は、進捗主義や人間中心などの産業性そのものであり、それからの脱却を目指した思想は、或る意味"解放されている"。
それはモダニズム(近代合理思想)の頃に疎かにされた多くの慣例、しきたりから完全に切って離されると見なすことが出来るからだ。
人を縛り付けるのは、人自身が生み出した慣例、しきたりに他ならないからであり、我々は生きながらにして桎梏を背負うようなものに他ならない。何故なら、我々は『慣例』の中で生きているからだ。
その点に於いて、我々個人の解放、枢要に言って束縛に囚われないで生きる解放主義的思想は、ある意味ポストモダニズムの近代脱却に類似している。
しかし、我々は電子メディアに囲まれて生きている。一貫性も独創性も無い電子メディアは、我々にひっきりなしに情報を与える。
情報は、我々を左右させる。その点で、"反・近代合理思想"であるポストモダニズムの視点から見れば、この今と言う時代は苦痛以外の物では無い。
だが、モダニズムとしてこれらのシンボル、電子メディアを特徴づけるのもいいが、我々の意思では無く、実証主義や科学主義によって生まれた賜物の恩恵を、世界が授かっているだけであり、我々個人の意思とは関係ないのだ。
つまり、我々の意に反しようが反しまいが、電子メディアはそこにあるのであって、ポストモダニズムはシンボリズムの回帰性を失ってしまっている。
近代思想に意識裡に韜晦され、ポストモダニズムの形骸化は進んでいるのではないのであろうか。要するに、ポストモダニズムとしての解放性が喪失しているのではないのであろうか。
私はここで、モダニズムがないがしろにしてきた神性思想の一つ、半ペラギウス主義と因果があると考える。
ペラギウス主義とは、人間元来の罪を否定し、神法は自分の力、理性で完全な解放、つまり自由を有すると主張して、神の愛を軽視する思想である。
この思想は多大なる論争を生み出し、柔和に変遷したのが半ペラギウス主義である。このニズム体系、ポストモダニズムと繋がる点が存在するのだ。
それは"脱却"と言う点である。ポストモダニズムも、半ペラギウス主義も、自身を縛るものへの解放を謳っているのではないだろうか。事実として、ポストモダニズムも近代思想からの脱却、半ペラギウス主義も恩寵からの脱却を中心とする。
"脱却性合理論"とも言うべきこの思想は、ポストモダニズムには決してなかった合理性、つまり電子メディアが持つ合理性とはまた別の、而して論理的な武器なのである。
我々は何かを遵守するほど叡智に満ちた存在では無く、只管の自由意思を持ち合わせた自由主義、脱却性を好むのは思想体系として当たり前のことなのだ。
何かが廃れると、新たな何かが生まれ、その新たな何かもいつかは廃れるものだ。正しく無常と言う。
制度化された慣例、しきたり、そして規範は我々を縛る枷だ。其れを破壊しようとするも、結局屈してしまい固化するだけなのだ。
破壊的意味を持つ慣例、しきたりへの解放主義性は、あらゆる意味で"危ない思想"とも言える。何故なら、我々はその枷を付けられていることを知らないからだ。
知らない人間は、見えない枷を外そうとするものを嗤う。嗤う物に、透明な枷が見えないからこそ、荒唐無稽に思えるのだ。だからこそ、我々は知るべきなのだ。
ポストモダニズムと、半ペラギウス主義。相互関係を癒着させると、我々が見るべき世界がゆっくりと見えてくるのではないのだろうか。
ポストモダニズムの形骸化は進んでいる。しかし、半ペラギウス主義の"脱却性合理論"を融合させることで、ポストモダニズムの解放性は再び取り戻せるのではないのであろうか。
我々は束縛されてはならない。同時に、我々は合理性を見抜かなければならないのだ。
下手な慣例やしきたりに従っているだけでは、何時しか自分が硬化、ペトリフィケーションしてしまう。我々は気づかぬ間に足を失ってしまうのだ。
我々は脱却しなければならない。
慣例と言う、主義性にも欠けた足枷から、逃れられねばならない。そうしなければ、我々は解放されないであろう。
さもなければ、我々が老いを待つように、我々は形骸化を待つことになるのだ。