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第二部 霊冥主義の認識論について

―――果たして、この世界に伝わる「幽霊」と言うものは、現実に実在するのか?


この問いを論証科学で以てしてでは無く、哲学的に解明しようとした先行者は沢山存在する。

カール・グスタフ・ユングや平田篤胤など、霊冥界の解明、言わばしてオカルティズムと言うものに身を注いだ人物は、虚誕妄説と世論で称された哲学を研究した。

しかし此の幽霊論争たるものに終止符は打たれる事は無かった。未だに続く論争に、人々の心の奥底にただオカルトと言う意識があるのは事実だ。

だが、そもそも「幽霊」とは一体何なのか。

我々が認識する霊怪な現象、不可解な表象は全て纏められて「幽霊の仕業だ」と、オカルトの意識に吸い込まれてしまう。

心霊スポットと言う、心の奥底のオカルティズムを引き出す為に作られた場所も、我々が認知するに遥かに凌駕される意識体の集合でしかない。

所詮は空ろな噂に過ぎなかった、と言えば「心霊スポット」と言うものの価値の指標はがらんと変わるだろうし、人々の心の中のオカルティズムと言うものが無ければ、そもそも心霊スポットなんて作られなかっただろう。


だけれども、絶対的な幽霊述懐は存在しないのも事実だ。

まず、「幽霊」と言う概念が固定されていない事に其の理由は存在する。

霊媒師と言う職業は、他の人に視えない幽霊を御祓いしたりする、言わばオカルティズムの中の骨頂を極めるものだ。

しかし、「他の人には視えない」は「他の人にとって証明させる方法が無い」に恒等する。

つまり、幾ら霊媒師が幽霊の見えない人に霊媒師の枢要を語ろうも、肝心の幽霊が語られる人に見えなければ意味は無いのだ。

此れは哲学者の言う「真理の形態」―――プラトンが語った真の世界(イデア界)が見れるのは人だけだ、と言えども見れない人からしたら懐疑的になる事と理論は繋がるだろう。


我々全員が可視出来ない、つまり「認識の構造の差異によって見れるかどうか異なる」と言う現実は、この世界に苛酷な妄執が勝ち誇って君臨する。

絶対的な証明など無い、この認識論に対して、我々はただ幻想や妄想に惑わされているに過ぎないのだ。

何故に夜が怖いのか?何故に心霊スポットに行くと怖いのか?どうして暗闇は我々に恐怖を与えるか?如何に証明理論の無い認識は我々を不安にさせるか?


答えはただ一つのみ、我々は盲目の動物だからだ。


相対的に推察すれば分かるが、我々が不安や恐怖を募らせる現象は断じて一つとは言えない。

例えば、恐怖症の差異がある。閉所や高所など、人それぞれにとって恐怖の実存性は異なるのだ。実際に異性が怖かったり、または同性が怖く感じる人もいる。

其れは我々の認識、つまり心の奥底のオカルティズムがまず絶対的では無い事を証明しているでは無いだろうか?

オカルティズムが統一されてない事に、幽霊の実存の絶対化は図れない。何故ならば、幽霊と言うあやふやな価値観の観測が不可能だからだ。

絶対論を信じる、論証科学によって過去を生き、そして今を生き、これから未来を生きる我々に、幽霊と言う仮象の例題を問えば、絶対論で幽霊を測ろうとする。

だから我々の中で幽霊論争と言う、オカルティズムの差異を嘗め合うことが起こったりするのだ。


一旦、「絶対」と言う言葉を忘れてほしい。其処に出てきたのは何か?

我々が存在する世界は本当に「世界」なのか?お前の目の前にあるものは何だ?お前は今何をやっているのか?

そしてお前が此の世界に存在する、と言う証明を果たして導き、其れを吟味する事は出来るか?

気付く人は気付くだろう。―――『我々は何を知っている?』―――『論証科学しか知らぬ』と。


我々は盲目だ。だからこそ、何でもかんでも見たくて見たくて仕方がない。

我々の感知されない世界を知りたい。我々の知らない世界を見つけて見たい。其処に在るのは、盲目な我々を縛り付ける『絶対理論(証明)』だ。

感覚による永遠で絶対の命題を、我々の知識とする。ならば、我々は何を知っているのだろうか。

ああ、数字論や記号論なら証明も容易い。無論、我々の知識はそれらによって構成されているに過ぎないのだ。


オカルティズムと言うのは、数字論や記号論から離れた、一種の認識なのだ。

其れを証明させるのは、盲目(数字論や記号論に縛られる)な我々にとっては不可能だ。

此の世界がバーチャルリアリティーで無い証明を誰が出来る?此の世界が実存する証明を誰が出来る?

其れと幽霊理論は同じ立場の葦に過ぎないのだ。


―――おれは昔は人間だった、がいまは悪霊だ。

―――前は無慈悲だった、がいまは憐れみぶかい。お前にはおれの震えているのがわかるだろう。

―――おれの歯はしゃべるたびにがちがちいうが、これは夜の――果てしない夜の――寒さのためではないのだ。

―――だが、この恐ろしさはたまらぬ。どうしてお前は静かに眠ってなどいられるのだ? 

―――おれはあの大きな苦痛の叫び声のためにじっとしていることもできない。このような有様はおれには堪えられぬ。立ち上がれ! 

―――おれと一緒に外の夜の世界へ来い。お前に墓を見せてやろう。これが痛ましい光景ではないのか? ――よく見ろ!


エドガー・アラン・ポーは著作「早すぎる埋葬」で、幽霊にこんな台詞を残している。

まさしく彼の思う死生観の顕れそのものだが、果たして悪霊は「おれと一緒に外の夜の世界へ来い」と誘おうとするのか?

其れは我々が数字論や記号論に縛られ、絶対化された生活を送る上で叩きつけられた命題なのでは無いのだろうか。

我々は「絶対的で相対的な理論に塗れた人生」を歩む事など出来ないという、アラン・ポーの読者に対する皮肉とも受け取れるだろう。


幽霊は存在するか?

―――認識によって、実存性も持つし、はたまた存在さえ許されないだろう。


我々は盲目だ。だからこそ、私はその『目』を開けて欲しい。自身を盲目だと模倣するのは終わりだ。

だからこそ、私は視てほしい。

幽霊を信じなくとも、また信じても、内奥性や神秘性を持つ此の世界の殆どは知らないことだらけなのだから。


―――我々は理性の眼を開眼させねばなるまい。そうしなければ、死生観と言う漠然且つ猟奇的な内奥性(障害物)にぶつかり、我々は滅びるのだ。

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