書海真名真姿 剥奪叡智の書海 雲上青空鏡 中央天蓋 Ⅱ
胸元から彼女の遺骸を取り出した。
それをじっと、見る。
"innocentia=gray=mist=nebula"。私が名を送った、そして、私の為に使命云々ではなく、自らの意思で散ったかのように思えてならない彼女。
それは、もう決して、文字を浮かべはしない。私がどう何を念じて触れても……。
唇を深く噛み、そこから流れ出る血を指先に付けて彼女の遺骸である紙片に触れる。が、血液は弾かれ、玉になり、あっさりと、その上から流れ落ちて……。
「駄目……か……。はは、分かっては……いたが……」
私は彼女の遺骸である、灰色の紙片を握りしめて胸に抱き、ただ、泣いた。
「【で、何が、聞きたい……?】」
奴も涙声だった。
「恐らく、お前は、彼女から、最後の言葉を聞いている筈だ。彼女はある種、お前の眷属みたいな存在だったのだろう?」
【その通りだよ……】
お互い、涙声を抑えて、やせ我慢するように話す。そうしないと、そのままいつまでも泣いてしまい、話が進まなそうだったから。
「どうして彼女は、私の為に命を賭けてくれたのか、教えて欲しい。あれは、明らかに、義務感や強制感や使命感から来るそれとは違っていた」
「【君と同じだよ。きっと。君は、娘の意味をそれだけ考えてくれた。】」
「【娘は、君を何としても、完全な形で呪いから救うと使命感だけでなく、心からそうしたいと思っていた。私が計画に参加すると決まって、君がこの世界に現れて、娘の運命は、君の為の贄と決まったのに。他の娘たち共々贄となると知っていて……。酷なことを……やらせたとは思う。だが、そうするしか……無かったのだ……。】」
「それについては、何も言わない。後からそれについて言うのは、彼女を足蹴にする行為に他ならない」
「【君は、あの図書館以前に娘と一度接触している。覚えているか? ……、そうか。なら、この話題は終わりだ……】」
何処だ、一体……?
考えられるのは、あの、書架か? だが……、どれだ……。分からない……。私はそのとき分からなかった彼女に、何かしたのだろうか……。
何故、分からない。何故、何故、何故、何故っ!
「【済まない……。そう、思い悩まないでくれ……。そういうつもりで言った訳では、無いのだ……】」
だが、それでいい筈が無いだろうが……。
「彼女は、私の呪いを引き受けるという意味で、このような言葉を使った。『貴方の為の』。だが、私と出会って、最初から、どうしてあんなに、私に関心が持てる? 彼女は明らかに、あの初対面で、私に好印象を抱いていた。なら、以前に何かあったと、どうして私は気付けなかった……。そんなもの、私の非に決まっている、ではないか……」
どうして、たったあれだけで、彼女は私のために身を捧げることができた? 彼女は感情を持った、心を持った存在。
そして、言いたいことを隠すこともでき、自身の行動にある程度の自由といえばいいのか、幅が許されていた。
名前を与えたことだろうか……?
「【それが、何よりの理由だ。あの子は言っていたよ。君が素敵な名前を与えてくれたことが何よりも嬉しかった、と。だから、ギリギリまで使命を先延ばしにして、君と共の時間を楽しんだ。そう、命終わる前に、言っていたよ。】」
よかった、合って……た……。そんなに、喜んで、感謝して、貰えるなんて……。挺身する位に……。私は、そんなまでして、助け……、いや……、ここは、こうだろう……。
ありが……とう……ティア……。私は、頑張るよ……。君に貰った時、活かして、みせる……。
「うぅ、ティア……、ティア……」
唯どうしようもなく嘆くなんて後ろ向きなこと、もう絶対にしないでおこうと思っていたのに……。涙も嗚咽も、止まりはしない……。
「【私が……、娘に、名前を付けられなかったことが、全ての……原因だ……。怖かったのさ……以前の娘と同じ名前を、もしも付けてしまったら、と……、怖……かったんだ……。だから……有難う……。娘に、名前を……与えて……くれて……。"innocentia=gray=mist=nebula"。善い、名前では、ないか……】」
そうして二人で暫く泣き続けた。
「ティアの、最後の、言葉、覚えてる、か……? 私が聞いたものと同じか分からないが……。もし、私に彼女が見せ、聞かせてくれたものを知らないというのなら、思い浮かべるから、見てくれ」
私への彼女の二つの最後の言葉。
彼女が人の姿でまだ生きているうちに残した最後の言葉と、事切れてから文字として残した最後の言葉。
今も耳奥でこだまするかのように鮮明に聞こえる。
『ごめんなさい。約束、守れそうにな、い……わ』
今もその目に焼き付いている。
『早く上へ。この場所は燃え落ちる。わたくしを起点にして。貴方の呪いの全てと共に。この場所全て、わたくしを含め、貴方の為の贄なのだから。そんな私を、人として、愛おしんでくれて、ありがとう』
彼女から私へ望んだものは、結局のところ、使命を果たすことでも、自身の願いを叶えることでも無い。
唯、彼女は、私に礎にされて、私が前を向いて目標目指して生きていくことを求めているのだ。謝罪はきっと、最後まで、そう、奴の前まで私に付いて行けなかったことに対するもの。だが、それは、私のせいだ……。私が余りに不用意で、愚鈍だったからだ……。彼女が悔いて、謝ることではないのだ、本来は……。
彼女は自身の役割というものに非常に拘りを持っていた。本としての性質なのか。本は何かを伝えるためのもの。
そんな、僅かな時間のことを、彼女は……、私に、それほどに価値を見出し、愛おしく、思ってくれたのだろう……。それが、感謝という形で最後に彼女が体に表示した文字が示している。
だから、それらを踏まえて私がするのは、常に全力で考え、全力で前へ進むこと。最後まで諦めないこと。彼女のことを自身の生のある限り覚えておくこと。
彼女の意味を保障していくのは、私だ。
これが彼女が私に刻んだもの。彼女のおかげで心に刻んだ思いであり、自由でありながら破れないある種の契約。
誓い。
彼女を忘れず、彼女を無為にしないように、礎となった彼女に恥じないように、前へ全力で進み続ける。彼女に意味を生じさせ続ける。
そんな、誓い。
「どうだった……だろうか?」
恐る恐る、私は尋ねてみる。浮かべた思索は、私の独りよがりだ。彼女と話をして浮かべて思索ではなく、彼女の最後の言葉に対する私の感想でしかないのだから。そしてそれを彼女の親たる奴に包み隠さず見せてしまった。
だが、そう聞かない訳にはいかなかった。それの中身について判断するのは、彼女の親たる奴であるべきなのだから。
すると、
「【私へは、普通の親に向けるような感謝の言葉、決して貰えないと思っていた、父親へ向ける言葉だったよ……。それも、以前の私の娘としての演技ではなく、君が与えた名前、ティアを名乗る、私の二人目の娘としての言葉だったよ……。だから私は、君に感謝しても、しきれない。】」
「そうか……。こちらとしても感謝しきれない。ティアと出会わせてくれて、ありがとう」
「【そろそろ、娘とお別れしなくてはならない。君も私も。そうしないと、娘は心配で、この世に留まろうと頑張ってしまっているかも知れない。私たちはこれ以上、娘に心配を掛けてはならない……】」
「ああ……」
「【最後に一つ、言っておこう……。私は半端者だ。だから、娘に、言っていた。もし君の為に命を投げ出したくなんて死んでも御免だと思ったなら、用意していた別の方法を取るから、言うのだよ、と。だが、娘は、想定外の、図書館部での君の呪いの発動に際し、私に言った。死地に向かわせた父親に娘がそんなことを言った。その気遣いはとても暖かくてうれしかった。だが、同時に、私はこんなにも娘を心配させて、どうしうようも無い男だ、と思ったよ……】」
そこで奴は一度切り、大きく息を吐いて吸って、その内容を言った。
「【こんな風だった。『行ってくるわ。お父様。今まで、ありがとうございました。私の意志でそうしたのだから、お父様は一切悔いる必要なんてないわ。けど、そうね、ちゃんと最後までやり遂げてね、お父様が、彼との決闘に勝っても負けても、途中で投げないでね』】」
「そうか……」
「【だからこそ、私たちは互いに、全力を尽くさなくてはならない。私が決闘に負け、君が先に進んでくれることが理想だが、そういう事情があっても、手は抜けないのだ】」
「分かっている」
「【ということだから、互いに死力を尽くそう。娘、ティアの為に】」
「ティアの為に」
私は合わせてそう言いながら、彼女の遺骸を、奴に渡した。