書海真名真姿 剥奪叡智の書海 雲上青空鏡 中央天蓋 Ⅰ
パタッ!
本を閉じたその音と同時、だろうか。
ビュゥォオオオオオオオオオー、
何処からともなく、強い風が吹きつけてくる。私の正面へ。冷たく激しい風だ。だから踏ん張る為に、椅子から前に倒れ込んで小さく丸まるように、伏せる。
どうせ動けやしないのだ。それにここは、本棚からも身を守れる。机があるからだ。目を瞑ったまま、地面に伏せた私は、横へと移動する。風で吹き飛ばされないよう気をつけて。
というのも、その風が吹いた際、椅子や本棚が揺れる音はしなかったからだ。
きっとこれは、これは私を吹き飛ばす為の風。
だからこそ、机の下という場所に隠れることを選んだのだ。
ゴォォォォォオォオオオオオーーーー
そうして、いよいよ吹き飛ばす力が最大に達するかというところで、私は机の脚をしっかり抱き抱えるように掴んだ。
朧げにしか机の構造は覚えていなかったが、運よく、問題無く掴めた。
オオオォッ!
そうして、風は急に止んだ。腕が絡み付いていた筈の机の触感が、消えて……。
だから私は目を開く。すると――――空の上だった。
立ち上がり、周囲を見渡す。
そこは、白と青の世界。それは、空。雲の上の空の世界だった。
太陽や月に値するような天体の存在は可視できない。それでいて、満遍無く周囲は明るく、青々しく、白々しい。
作り上げた光景であるということ、か……。
さて、驚くべき光景かも知れないが、彼女を奴が創り出した事実等と比べれば、作り物の空間一つ驚くべきには値しない。
さて、奴は何処だ?
私の眼前には、見渡す限りの島のような雲の陸地、青い空が広がっていた。ところどころ、雲には切れ目があり、その下には青の空と雲が広がっている。
多層構造の島のような、板のような雲の集合体。その頂上。それがこの場所のようだ。
「【未だ最後の仕上げが終わっていなくてね。君の前で披露させて貰うとしよう】」
文字の表示と共に、空から奴の声が降ってきた。
すると、現れた、正方形の、鏡の板。数キロ四方の正方形であるように見えるそれが上空に現れた。
だが、私はその遠近感を、目測を、見誤っていたようだ。この場所の地面へ向けて近づいてくるそれは、私が思っているよりも遥かに大きかった。数十キロ四方、いや、それ以上だったかもしれない。その終端は、その鏡の落下が初めって直ぐに、見えなくなっていたのだから。
「【心配しなくともいい。それは君をすり抜ける】」
それは奴の言う通り、その場に立っていた私をすり抜け落ちて、私の立つ足元へ降りて新たな地面となった。そうして、風景が変わる。
「これは……」
コトッ、コトッ、コトッ、コトッ――――、コトリッ!
「【空の大鏡。私が前世で好きだった風景を再現したものだ。私の前世からの原風景でね。やはり、死ぬなら、ここで、と思っている。勿論、君にその花道を道を譲るつもりはないよ。とはいえ、私は手を抜かない。これは君に対する最後の試金石でもある。君は全力で私を打ち破らなければ、君がここで死ぬことになる。私すら倒せないようなら、この先に君が行く意味などありはしないのだから】」
「分かっている」
「【私は、君が途中で降参したとしても、君を消す】」
「こちらもそうするつもりでいる。そうでなくては、先へ進めはしないのだから」
「【では、改めて問う。戦いの場は此処。唯、綺麗なだけの、そんな場所。如何かな?】」
「ああ、構わない。にしも、これは何とまあ、贅沢な死に場所なものだ」
私は素直にそう答えた。
私と奴は、向かい合って椅子に座っている。
奴がこの場に出した、天蓋のような、アーチ状の屋根のついた半径5メートルほどの屋根。その縁から生える数本の柱。
天蓋の下に置かれた、網目状の、幾何学模様の、デザインされたテーブル。その上に置かれたそれぞれの分のカップと、そこから立ち上る香ばしい香りのする湯気。その発生源たる、カップの中の琥珀色の液体。二つの、向かい合うように置かれたこれまた網目状の、幾何学模様の、背の高い椅子。
カップの中身を、奴と共に、同時に口にする。
生憎、私はそれについては詳しくないらしい。紅茶であるということは分かるが。それを飲みながら、優雅に知的に、平和的に平等にルール決めようと言うのが奴の提案だったから乗ったまでのこと。
「ここにしよう。ここでなら、全力で戦って負けても、まだ少しはましな気持ちで死んでいけるかもしれない。そう思えるくらいには相応しい場所だとは思う」
繰り返しになると分かっているが、私は奴とそう遣り取りした。形式を取ることが大事なのだ。それが契約というものなのだから。
戦いの場を含む、ルールを決めること。それが、私と神を名乗る者との契約の呪いを処理したことをごまかすためのまやかしとして利用するとのこと。ここに移動する前に既に聞いていたことだ。
戦いの前に、呪いを解除した私と神を名乗る者との契約書に、処置を施すらしい。私が勝てば、それがその処置を強め、神を名乗る者に支配されるなんてことは理論上完全に防げるらしい。
その説明は全くもって、意味不明だったが……。奴の知識は私が以前の私に授けられた知識よりも遥かに広範だった。
せいぜい、大枠としての仕組みが分かった程度。それは私にとっても、奴にとっても、利があるものであるということ程度は理解できた。
「【私は死ぬとしたらこの空から、墜ちてゆきながら、死に絶えたい】」
「いい趣向かもしれないな。私もここで終わるとしたら、そうさせて貰うことにしよう。……、冗談だ。そもそも、私は未だ消えるつもりは無い。ここでお前を倒して、あの自称神とやらに会いに行く。もう一人の私がどうなっているか。それはあれしか知らない。だから、ここで終わる選択肢は無いのだ。力及ばなければ仕方ないとはいえ、自ら終わるつもりなどない」
要約。全力でお前に挑む。その上の結果なら、全て受け入れる。とはいえ、負けるつもりなど毛頭も無い。
互いにこうやって遣り取りすることが、処置を強めるそうで、こんな茶番をやっている。これはこれで、愉快なもので、悪くない。
「【しかし、面白い趣向ではないか。椅子に掛けて、紅茶を飲みながらルールを決める。互いの存在を賭ける勝負の。殺し合いの】」
「それも、言いだしたのはお前だろう? 私はただ、それを受け入れたに過ぎない。狂気染みているのは、あくまでお前だ」
怒りなどない、唯の皮肉。これは、唯の遣り取りとしての、棘のある一言に過ぎない。
「【互いに、最後になるかもしれないの憩いの時間を、このように過ごせるのだ。悪くはなかろう?】」
「ああ、それは違いない」
「【では、詳細を詰めていくとしよう】」
全ての条件を詰め終わった。奴が提案したものもあれば、私が提案したものもある。
「【まさか、物理的殴り合い、素手による殴り合いによる決着なんて、らしくない形式を呑まされてしまうとは、はははは!】」
その中の一つがこれだ。
「それなりに理には適っているとは思うが。肉体から繰り出す一撃には、心が乗るものだろう? 殴り合いというのは、自然とその過程において、互いの心を受け取るには、伝えるには最適な筈だ。遥か昔から存在する手段ではないのか? これなら、体も心も、同時にぶつかり合わせることができるだろう?」
「【はっははあは、ひゃはははは、げほごほっ。いや、な。嘗て叡智をその名とした私がこんな勝負をすることになるということが、おかしくて、おかしくて、な。だが、理性的に考えて、理に適っているというところが、また、笑いを誘うわけだ】」
私はふざけているつもりはない。これが、私と奴が、同じ土俵に立って、心の強さだけで、想いの強さだけで戦える唯一の方法と判断してのことだ。
この世界において、肉体と精神、主体となるのは精神。精神のダメージはそのまま精神のダメージ。肉体へのダメージも精神へのダメージ。肉体の強度なんてものは実質、ほぼ関係ない。
どこまでも、心が全てを決める。それがこの世界なのだから。
「【では、契約に移ろうか。……。君に渡した、……あの子の遺骸を渡したまえ】」
奴は真剣な面持ちで、そう言った。
「なるほど。混ぜ込むのか……私のあの、神を名乗る者との契約書に。それで、干渉する、と」
「【その通りだ】」
だが、私は、胸元から彼女の遺骸を出そうとして、躊躇する。
「【どうした? 胸元に携えているだろう? ……。私たちは、娘の全てを、有効に活用しなくてはならない。微塵も、無駄に、しては、ならない……。それが娘の……意向なのだから……】」
そう、奴は、私と同じように、未練を露わにする。
なら、
「別に渡すのは構わない。だが、その前に、彼女の遺骸を塵に変えてしまう前に、知りたいことがある。正直、迷う、こう提案するのは。しかし、すべきだ。彼女の話を、しよう。互いの心残りを、すっきりさせておくべきだと、やはり、思う」
と、私は口にした。奴の隠した彼女のことについて、私はもう少し、知りたかった。それに言いたかった。彼女は決して無為ではない。無為にはしない、と。そして、ずっと忘れない、と。
彼女にはもう言えないのだから、せめて、その創造主たる、父親たる靄の悪魔に、伝えたかった。
「【君が娘の意味を考えてくれるまで想ってくれるとは。娘も救われる。有り難う】」