書海真名真姿 剥奪叡智の書海 簒奪蒐集の書庫 その意は汝に刻まれた Ⅱ
「【どうやら、頭は冷えたようだな】」
奴が私を見る目が元に戻っていた。前回来たときに私に向けていた目。興味の目だ。無価値なものを見る目ではない。
……。ああ、なるほど。少し違うか。
愚か者。奴はそれが嫌いだった。まるで、ゴミでも見るような目を奴が向けるのは、それだけだ。
無価値なもの。それは奴にとって、唯の冷たい目を向ける対象。どうでもいいという目だ。嫌悪感を抱くことはない。
興味の対象となるもの。それに対して、奴は知的に、観察するような目を向け続ける。今のはその目。
「ああ……。ん……?」
そんなことを考えながら、私は彼に返事をした。少々気が重いが。そして、肺から喉の苦しさが取れていることに気付いたのだ。それに、身体が急に軽くなったような……。
だが、それよりも先ずは、
「ほう……、成程。初めから、そのつもり、マッチポンプ、だったのか。恐らく、契約の呪いが完全に解けているかの検査も込みでの、か」
気付いたことを口にした。
冷静になったら、焦点の合っていなかった現状を認識した、というべきか。それには、こいつとの遣り取りを省く、という目的もあった。
こいつは、私を今ここで処分するつもりは無い。なら、目的は本当に、話をすること。私が冷静な状態で、変な憂い無しに話し合いをする為の準備だったということだ、これは。
奴が酷く面倒な手順を取った理由はそれ。そして、登場時からの意味深な言葉の数々。それらは殆どが真実だったということだ。
奴の目的は、私と話し合いをすること。神を名乗る者の目を完全に逃れて。
「【ほう、これは興味深い。ただ、認め受け入れるだけで、それ程の効果が出るとは……。それと、今君が感じたその感覚は気のせいではないよ。ほら】」
そう言って、奴は、
コトッ、コト。
スッ。
二歩後ろに下がって、私の方を向いて立ち、左目をくいっと、下から上へと、動かした。その動きに1秒ほど遅れて、奴と私の間に突如、現れた、板。
眩しくて、思わず目を閉じる。
鏡、か。
目を瞑る前に、辛うじて、その淵全体は認識できていた。それは縦10メートル、横5メートルほどの、巨大な鏡。現状を把握しろ、ということだろうか? どれだけ自分の肉体が今損傷しているかを。
その証拠に、感じた重さの消失は真実だったようで。鏡越しだが確認できる。いつの間にか、私を覆っていた倒れた本棚と本は、倒れる前の状態に戻っていた。
精神さえ無事なら肉体は再生する。精神が壊れたらそこで終わり。そんな世界。ならば、肉体の状態を把握することは大切だろう。そして、直った姿を想像する。イメージによって、肉体の治癒や、鍛錬に効果の違いが生じる。以前の私が残した記憶にそれは事実としてある。ここでは、それがより強く作用する、ということか。
となると、鏡はその補助か? 患部を見ながらの方が、そこが直る想像も、容易に強固にできる。
精神の重要度が高いこの世界では、千切れたり、はじけ飛んだり、変質させられたりしていなければ損傷は回復する。
ゆっくりと、再び目を開いていこうとするが、天井から差す光は相変わらず強く、それに加えて鏡の反射率も相当なものらしい。こちらにやたらに眩しい光を反射してくる。これでは到底見えはしない。唯の眩しい光の板にしか見えない。
「【少々光が強過ぎるか。では、こうしよう】」
できるなら初めからそうして欲しかったところだが……。
奴がそう、鏡の向こうから言うと、
キュィィィィィ、スッ!
天井から差す光量が減る。そして、鏡に、私の姿が映し出されたから、その痛々しさやえぐさを焦点を合わせて捉えてしまう前に私は強く、自身の体の状態を想像した。
思い浮かべ、重ねる幻想は、自身の体を把握したときの庭園での記憶。泉での水浴び時の自身の裸体。そして、出て、服を着る自分。それは今でも鮮明に思い出せる。
私は目を丸くした。それと同時に、体の感覚が少しばかり戻ってきたのだが、痛みは無い。違和感もない。
そして、それは間違いでは無いらしい。私の目に映る光景からして。
「嘘、だろう……」
それは絶望の言葉ではない。目を見張るかのような奇跡のような現実に驚かずにはいられなかったから。喜びなどより、驚きの方が遥かに大きかった。
私の体は、背骨含む、肩より下全部、元通りに回復していたのだ。地面に磔にされた両手以外。そこは、奴が、回復できないように処理していたのだろう。
下着一枚だけの恰好であるため、都合よく体の今の状態が視認できる。
そして、少し遅れて、着ていた服も、上下元通りに、纏っている状態で再生した。
「【さっさと立ちあがりたまえ。君はもう、全快している。君自身の活力によって。私の治癒の魔法の関係無しに】」
「いや、両手の甲が床に釘付けにされたままなのだが……」
「【訂正しなくてはなるまい。君は失敗作ではない。今の君なら、やれる筈だ】」
「いや、だから……」
「【ははははは、ふははははははははは!】」
「床に手ぇ縫いつけられたまま、立ち上がれるわけねぇだろうがぁぁぁああああああああ!」
私はそう、立ちあがって、厚さ数十センチの鏡を突き破り、奴に私は飛び掛かった。
……つもりだったのだが、私の体は奴の体から1センチほどの空間に張られていたらしい透明な壁にぶち当たる。
ゴォォォォォォォォォォォォ、メリメリメリ、メキメキ、グチチグチグリ、ビチャァァァ、ブツゥゥ!
音が、やたらに遅くなって、間延びするかのように響いて……。その衝撃音とともに、私の目に映る世界は遅く遅くなって……。
そして、体感時間は元に戻る。全身が弾けたかのような痛みと共に……。
私はその壁に押し付けられたかのように、
メキミシベチャッ!
と、音を立てて潰れるように張り付いてしまっていた。
先ほどの、本棚で下敷きになったときの方が損傷はずっと深く、危険なものだったのだろうから、このような状況に陥っても多少余裕はある。何せ、痛く苦しいが、体は未だ、動くのだから。
透明な壁でもあるかのように、僅か1センチほどの奴までの距離を、詰められない……。
この透明な壁のような何かを使われたのは、恐らく二度目。一度目は、私が自身に降り下した木片が弾かれ縦に割れたとき。
今回は反対側へ飛ばされる程の斥力は発生していないとはいえ……、この透明な壁は、到底突き破れる硬度ではないらしい……。
「ぶごぉ……」
顔をその透明な壁に張り付けたままなのだから、言葉は崩れて唯の音にしかならない……。
奴が嘲笑うかのように口元を歪めながら、二歩下がると、
スゥゥ。
その壁は消え、私は地面に
べちゃり、
と落ちた。
今度は、血みどろ、か……。
「【ふははははは。惜しかったな、ふはははははは、ひゃははははははははぁぁ。『殴りかかってやるぅぅぅ』、ねぇ! 強くイメージし過ぎだ。自身が重々しい本棚と本の下敷きになっていることも、両手の杭も無視して、ただ、鏡を突き破って私に飛び掛かかる自身の姿を鮮明に想像する、か】」
奴の、これまでの中で最大級の嗤い声が耳障りにも上から振ってきて、止まない。
裂傷と打撲と内出血と各部位の骨折はすぐさま治った。が、痛みからは逃れられない。全身をすりつぶされたかのような痛みは全身を既に信号として駆け回ってしまい始めた後だったのだから。
私も、妙に、痛みに強くなってしまったものだ……。こんな僅かな期間で……。まあ、変な性質、嗜好に目覚めないだけ、まし、か……。
私は恨めしく、愉悦を浮かべて私を見下ろして嗤っている奴の顔を苦く睨み付けた。
ああ……。こいつは、読んでいやがったのだ。私の心を、ずっと鏡の向こう側からですら、ずっと。そして、今も。
それも、寒気を感じさせない程、ひっそりと。そうできるのだ、こいつは……。
なんと悪どく、精度の高い読心能力なのだ……。こいつの性格と、知性と合わさって、最悪で災厄な噛みあい具合……。
読心。
唯ですら頭が回る奴がこんなもの持っていたら、どう足掻いても対処などできない。何を考えても先回りされる。何か仕掛けようとしても、逆にそれを利用して先手を打たれる。今のように。
籠の世界の双子とはランクが違う……。あのときでも、隙を付くのに、私の心から気を逸らさせるのに苦労したというのに。
読まれたことにも気付けない程の精度でそれを行うこいつに、どうやって、心を隠せば、いい……。
どうやって、戦って、勝つ……?
……、ん?
そもそも、本当にこいつと私は戦わなくてはならないのか?
こいつとの初接触から、色々と間違っていたことに私は漸く、気付いた。
こいつは私を弄って、玩んで、愉しんではいるが、敵対行為は取っていない。敵対行為のように偽ることはあっても。
奴は最初から、契約の本に警戒を強く抱いていた。危険だと知っていた。私が今一つ信じていなかっただけで。私が泣きたくなるような手段であるとはいえ、それの解除の手段を用意していた。
あの水路の、エメラルドブルーの液体。
一度目は、道具を置いて行け、という内容の看板があった。そうしないと通常はあの通路を抜けられないようにしていた筈だ。その役割が、あの水路の液体での、私が空間に仕舞った品々にも何かあの、神を名乗る者の仕掛けがあるとして、それを解く効果でもあったのではないかと思う。
二度目は、彼女が私から肩代わりした呪いを薄める効果を発揮したように見えた。あの液体に、呪いが染み出すように見えた。
一度目、どうして私にあのような手段を許して通したのかは、よく分からないが……。
他にも意図を考えるべき奴の行動は色々ある。とはいえ、結局のところ、奴の行動の先にあるのが、愉悦と、私への遠回しかつ面倒な形での援助。その二通りしかない。
総合的に見て、私に味方していると言ってしまっても問題ない……。奇妙な言葉や言い回しで、断片的に私に与えてくる情報も、援助の一環と見て間違い無い。
だが、なら、こいつは私に何をさせたい?
初めから見ていた。私への期待。失望。それらの言葉から分かることは、私を最初から、何かさせる為の駒として見ていた、ということ。最初というのは、私が奴と遭遇した時より前だと考えないと辻褄は合わない。
そして何より、大きな三つの疑問。
一つ目。私のことを、"素体"と呼称したり、失敗作やら、成功やら、一体……? まるで私と言う存在自体が、奴の仕込みみたいではないか。
二つ目。こいつがどうして明らかに、あの神というものを敵対視している?
三つ目。どうしてこうも回りくどい手段をわざわざ、取る?
それらが分からない限り、私はこいつを信頼していいかすら、分からない。