書海真名真姿 剥奪叡智の書海 簒奪蒐集の書庫 彼女のその身尽きるとも Ⅰ
フゥオン!
その音とともに、階段を踏み外したような足の感覚を感じながら、
ゴトッ。
私は木の床の上に、着地していた。まるで、階段を踏み外したと思ったら、そこは階段の終わりで、次の段が無かったときのように。夢で、階段から踏み外して、現実で目を覚ましてその違和感を味わうときのように。
だが、これは夢ではない。段の終わりに気付かなかったわけでもない。あの場所から、飛んで、元の場所に戻ってきただけ。そこに至るまでの出来事は、真実だ。
その証拠に、隣に彼女はいないのだから……。
だというのに……、私のすぐ右に横たわっている、倒れて壊れた椅子と、私の正面にある机を挟んでその向かいにある椅子は、乱雑に引かれて斜めを向いたまま……。天井から差し込む光の強さは変わっていない。相変わらず明るく、この空間を照らしている。
分かっている。これが夢などと逃避するつもりはない。そんな気など、微塵も無い。
だが、なら……、何が、残って、何が、変わった……? 意味は、あったのか……? ある。だが……、結局、これ。これだけだ……。形としての変化は……。目に見えて残る結果は……。
下着一枚である体だ。見るまでもなく、感覚で分かっている。が、見る。左手の浸食のは微塵の痕跡もなく消えていた。
呪いが解けた。そういうことになる。
確かめる、か……? あの本を出し、開いて?
……。
また、同じことになったら、どうする……。それは、唯の、彼女に対する裏切りだ。私の為に命を燃やした彼女の……。
拳を強く握り、ただ、立ち尽くす。
私は彼女が座っていた椅子に座った。その角度を直すこともせず。時間経過は見られないというのに、椅子に熱は無かった。
そもそも、よく考えてみると、彼女自体に、平時では熱が、体温が、無かった……。
背中と首を椅子の背に預け、両手を真っ直ぐ下にだらんと垂らし、両足を曲げずに開いて伸ばしてだらり。
だか、心の中は、後悔の叫びで、一杯だった……。
どうしてだ、どうしてこんなことになった……。分かりきっている。私が愚かだったからだ。
なのに、どうして……、どうして…………、私ではなく、彼女がその代償を払うこととなった……。
そもそも、私が促されるまま契約したからだ。私が存在したから、いけなかったのだ。私ではなく、以前の私であれば、このような愚かな結末を迎えることはなかったのではないか? 何故、私なのだ? 何故、私何ぞが、以前の私に全てを託され、今、ここにいるのだ……。
……。
止めよう。
……。
どうしてだ、どうしてこんなことになった……。
何度止めても、再び考え出さずにはいられない。
そうしてしまう理由なぞ、考えるまでも無い。答えが出ていないからだ。答えが出ていないという答え。私はそれをどうしても受け入れられない。
目の前に存在することはない、命燃え尽き、存在しなくなった彼女に問う。
この旅を、私は、どうすればいい……。
初めて揺らいだ自身の目的。それは最も根底にあった一つの前提が崩れたと確定したから。最初から、おかしかったのだ。
彼女のことから、原因を遡り遡り遡り、結局は、契約の地点。いや、その前……。あの闇の中にて自身の意識に気付いて、それでいて、自身に関することの一切が空白だったあのとき。
そこで考えるべきだったのだ。
何故? と……。
自身の行動が絡む自身の可能性の枝葉が最も多いのは、自身の意志が存在するようになった地点そのときである。
私の場合、それは最初現れたあの場所。何も見えない通路の中。
そこで、別の決断をしていればよかったのかと思うが、……。あそこにはそういった選択肢は無かった。ただ、進むか留まるか。それだけしかなかった。そう思い込んでいた……。
……。
流石に無理がある……。あそこで選べる選択肢は、旅の始まりか終わりか。その二択。だから実質一択。そこには分岐は無い。
そして、私は進むことを選び、庭園に降り立った。一本道の順路に従って、手に取った本。
……。やはり、ここだ。
私はここで、余りに歪で誰かの作為が入ったかのような、手の加えられたような自身の、全ての意味を、考えるという選択を取るべきだったのだ。
もし考えていたなら、別の分岐があった筈だ。
庭園に落ちていたあの本。不用意に取らないで進む。それか、本を取ったとして、契約の内容を確実な方法で精査するべきだった。
あれに書かれていた内容が完全な意味不明であった訳ではない。
神を名乗るあの存在はそもそも、私を一方的に操るように契約させてきたわけではなかった。あれは強情だ。あんな呪いを仕込んでいた地点でそれは明らか。私を誘導してサインした地点でそれは明らか。
だが、だからこそ、それはつけ入る余地が明確にあった隙だったといえる。あのとき、決定権はこちらにあったのだ。それも、唯、契約する、しない、の二択ではなく、条件の変更の交渉も可能で、変則的な契約すら可能だっただろう。
看破する目もあった。書いてあることが全く分からないなんてことはなく、必要最低限な知識はあった。記憶映像の中にも、契約に関する悪どいものは沢山あった。
神を名乗るあの存在は、確かに恐ろしく、私に選択肢など一つしかないと思わせる程に、抵抗や交渉が無意味に感じられたとはいえ、決定権が私にあり、私に強制できなかった以上、呪いを仕込まれることもその発動も、避けられる事態だったのではないかと思う。
あの契約が、何処か別のタイミングで掛けた呪いを隠蔽する為の、気を逸らさせる為の手段だった、という考えもできるが、それは、ティアの言葉から、違うと分かっている……。
疑いだすときりがない、どこが嘘であっても、どこが間違っていても、おかしくはないのだから……。
それにこれは、後悔という傷を抉る行為でもある。
前を向かなくては。先へ向けて、考えなくては。過去は掘り返すのではなく、活かさなければ。
神を名乗る者が示したことは何一つ鵜呑みにしてはならないということはもう間違い無い。全部が嘘というわけではなく、意味のある嘘、意味のない嘘、真実。その三つが混ざり合っているからこそ、たちが悪い。
だが、そうなれば、私がそもそも、旅をし始めた動機までもが、嘘になってしまうかもしれない。いや、もう、私はそれを疑い始めていた。
だから、私は最初から、自身に問わなければならなかったのだ。
あれが提示した情報が嘘だとすると、契約前、私が自身の存在を自覚した、私という自身の存在の記憶の始点であるあの場所で、選択肢に関係なく、私は疑問を持たなければならなかったのだ。
そんな記憶喪失、そもそも、有りうるのか、と。それは、以前の私の手によるものか、本当に……? 神を名乗る者は関わっているか? 関わっているとしたら、一部か、全部か? そもそも以前の私というのは本当に存在するのか……?
きりがないのだ。疑問というものは。疑問が疑問を呼び、何処までも深く、思考の渦に意識は沈んでいく……。
……。そのそも、最初の疑問は、そのきっかけは……?
なら、全てを知っているかも知れない奴に、聞けばいい……。今ならそれを信じる土台も、ある……。
そう、奴だ。靄の悪魔。そもそもどうして、彼女が喪われたというのに、奴は、出てこない……。
「靄の悪魔よ、聞いているのだろう? 見ているのだろう? 私の目の前に姿を現し、貴様の知る全てを私に示せ。さあ、さぁ、さぁあああ!」
……、くそぉぉぉ!
椅子から立ちあがって、できうる限りの大声で天井に向かってそう叫んだところで、無駄だということは分かりきってるではないか……。
……。
当然、か……。当然、だよな……。奴が私の前に出てきていないか、なんて……。
今奴が出てきたとしても、まともに話なぞできはしない。私にその準備が、心の準備ができていないからだ。それは話し合いにならない。私はきっと、怒りを奴にぶつけるだけ、それで終わる。
無為に、終わる……からだ。
再び思い巡らせる彼女のこと……。堂々巡りは終わらない。だからせめて、切り口を変える。
その身を私のために挺したとはいえ、会ってから僅かな彼女のことにすら、これだけ揺らいだ私だ。自身の最も根幹、私という存在自身を否定するような事実が示されて、立っていられるか? 最後まで旅を続けられるか?
できない、とは言わない。彼女を無為にしないためにも、言えない。だが、できる、とはもっと言えなかった。
私の旅、旅……。道筋、選択……。やり治せるとしたら、どこから、どう、変える……? 変えられはしないと分かった上で、それを考える意味、意図……。
隠された情報、偽られた情報、それら全てを真実として並べた上での、辿るべき道筋……。
それが、彼女に尋ねようとしていた、私にとっての"汝の望みし真実"そのもの……。
ドサッ。
再び、椅子へもたれかかるように、力なくその身を任せた。
始まりから、辿る。
情報が足りなさ過ぎた。情報を集めるために移動できる範囲が狭すぎた。一本道。そう言って差し支えなかった。
……。あれ自体が、あの庭園自体が、そう思わせる為のもの? 契約も、一択だと、思わせる為の? その次の選択肢も……?
そこから接続する世界を順に巡らせて、そして、何をさせる? 神を名乗るあの者の目的が、自身の切り取られ、奪われた力を取り返してもらうことだけ、とは考えにくい。
そもそも、最初から全く違う狙いがあり、そっちが本命だった、というのも十分に有りうる。
根拠はあの呪い自身。契約書にかけられていた呪い。あれは恐らく、契約を結んだ者の意志を、行動を、支配する類のもの。
一度味わっているのだ。分かる……。
浸食とともに押し寄せてくる快楽が、私の恐怖を増大させていくのを、私の意志を、考える意思を塗りつぶしていくのを、鮮明に思い出せる……。
何処までも恐ろしい筈なのに、暖かいのだ……。快楽のせいで……。それが味わえる幸福に巡り合えるなら、何だってしてしまえる、いや、何をしてでも再びそれを味わいたい。そう思わせるだけの中毒性があるかに思えた……。たったあれだけの浸食の程度でそのざまだった……。
命令に素早く、抵抗なく、従順に、まるでそれが褒美かのように動く、脳の報酬系を乗っ取られた、パブロフの犬。命令という名の隷属義務で動くのではなく、快感という名の自発的忠誠で動く、
それは、快楽と命令の連結による、対象の本能の支配だ……。唯の支配何ぞより、ずっとたちが悪い……。
一度、快楽欲求が逆らえないものとなる深度まで浸食されてしまえば、逃れる術は無い。
怖いに決まっている……。意思持つ存在であれば、その恐ろしさが分からぬ筈はない。それは死ぬこと以上の恐怖。
だから……、どうして、君は、ああできたのだ……。使命を果たそうが、死ねば何も残らないではないか。だが、最後の瞬間まで、浸食に負けず、意志を、貫き通した。
君は最初からそういう風にできていた、ということかも知れない。だが、それを除いても、君には、確かに心が、あったではないか……。
だというのに、ただ、死ぬためだけに、私のためだけに……、君の全てはあったというのか……? 仮にも神を名乗る程の者の呪を受けて、何も曲げず、自身の全てを私の為だけに捧げられる程に……。
ただ、それが使命であり、役割であり、そのためだけの道具だから、なんて理由なのだとしたら、余りに救いが、無さ過ぎる……。
……。知らないうちに、また、彼女のことへと立ち戻ってしまっていた。
私はそんな自分が情けなくて、愚かしくて、許せなくて、
ガタッ、スゥゥ。
ガシッ、ィィィィィ、ゴォォォン、バキィィ。
立ち上がり、座っていた椅子を持ち上げ、床に叩きつけた。その椅子の足の、杭のような形に折れた断片を、私は右手に握った。
私の咎で彼女が散ったというのに、私だけ何事もなかったかのように無傷であることは、許されない。
……。
許せないではなく、許されない、か……。まさしく今現在も逃避を続けている証そのものではないか……。
「はぁ……」
そう、溜め息を声に出す。
そして、鋭く尖った側を下に来るようにして持ったそれを左手の甲へと、ありったけの力を込めて握り、振り下ろした。