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てさぐりあるき  作者: 鯣 肴
第五章第二節 書海真名真姿 剥奪叡智の書海
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書海真名真姿 剥奪叡智の書海 簒奪蒐集の書庫 意思を持つ無名の本 Ⅳ

「ぐすっ、ぐすっ……、ずぅぅぅぅ、ううっ……しっく、しっく、ぐすぐす……」


 依然として泣き続けているとはいえ、彼女の泣きの深度は、今はそう深くない。浅い。深まっていく様子もない。恐らく、今の彼女は自滅的であり、自責するかのような、彼女の内面から引き出された泣き状態なのだから。


 それでも、やはり、申し訳ない……。


 それを継続させているのは彼女自身であるが、そのきっかけの中に、私の割合は結構な入っているのだから。それに、先ほどはタイミングが合わなかったが、今なら言葉にしても大丈夫そうだ。


「お詫びをさせてくれまいか。女の子が目の前で泣いているのだ。だから、悪いのは私。君ではない」


 それは私の本心である。


「遅れたが名乗っておこう。普通は名前というのは最初に名乗るのが通例であるようだが、私はそういったことに慣れていない。言い訳がましくて済まない」


 あの名前を使うのでいいのか、と迷うが、


「私の名前は、"権兵衛ごんべえ"、という」


 結局私はそう言った。


「しっく、しっく、ずるるるるる、くいくい」


 彼女は胸の部分のそのモザイク状の布に、顔をこすりつけ、赤いインクのような鼻水と涙をき取る。


 そして彼女が再び顔を上げたとき、どういうわけか彼女の髪のモザイク(もや)は、そんなもの最初から付着なぞしていなかったかのように消え、灰色のつやのある長い真っ直ぐな、腰までかかりそうな髪が現れた。


 かと思うと、その髪たちは彼女が触れてもいないのに勝手にうねり、くねり出し、まとまっていく。


 まず、かたに掛かるように垂れた後ろ髪含む頭の半分から後ろ側の髪の毛が、首の後ろ下辺りから生えたかみの一部を残して浮かび上がり、一つのお団子状に、がっちり固く幾重にも重なり結ばれた形になった。


 そして、残った首の後ろ下辺りのかみがくるっと、ウェイブし、背中に掛らない程度の長さとなって、バネっぽく垂れ下がる。


 さらに、額にかからないように分かれていた前(がみ)ともみあげを含むが浮かび上がるように上へと真っ直ぐに上がった。


 それらは、旋状のカールを幾つも重ねたような、パイプを横にして断面を正面に向けて上に横に、直(けい)2センチ程度のそれが頭の形に合わせて積み上げるように積み上がっていき、頭より一、二段分上部辺りまで積み上がったところで、止まる。


 積み上げたかみの毛をは少々重いようで、後ろにゆっくり崩れていきそうになったところで、後ろから支えるような、厚みのある、灰色のカチューシャらしきものが彼女の頭上にぱっと現れてゆっくり被さっていってそれをしっかりと支えた。


 そのカチューシャの表面は彼女が本の形態であったときの表紙と同じものでできているようだ。


 最後に、残ったもみあげが素早く回転しながら高速接近してくる何かによって、スパっとり取られて、その何かは速度を落として回転を止めて、彼女の両耳の耳たぶへ。


 それは二つの小さな小さな、本の形態だった彼女のミニチュア。縦2センチ程度、横1センチ程度。そして、栞として使える灰色のひもが、そのミニチュアの本からのびてきて、彼女の耳たぶへくっついて、同化した。


 古代ローマ、紀元前1世紀頃の女性のかみ型に類似している。






 彼女はかみの毛の自律整(はつ)が終わったところで口を開く。


「"ごんべえ"、さん? これで、合ってるかしら? しっく、しっく」


 彼女は鼻で涙を飲み込みつつ、


【"権兵衛"】


 彼女はぷかぷか浮かべたその赤い文字を指指して、私に確認を取る。


「そうだ」


「"名無し"、しっく、ずるる、って意味、だったかしら」


 彼女はそう言って、合間に一際大きく鼻をすすり、布を抑えていた手を放す。布は地面に垂直に立って浮かんで、彼女の首から下から、足のすね辺りまでを覆い隠している。


「ちょっと、落ち着くまで待とうか?」


 次は自動で服でも編み上がるのだろうか? そう思って、じっくりと見ていたいからというのもあって、そう私は彼女にたずねたが、


「いい、わ、ぐすっ」


 と、彼女は鼻をすすって、私と会ってから初めて、微笑みを浮かべた。それはまさに、その年頃の人の少女の見せる表情そのものだった。






「ごんべいさん、わたくしにはね、しっく、しっく、名前は、無いの。名前が無いって、しっく、いう意味じゃあ、おそろい、ね、わたくしたち。……、しっく、しっく、ずるるるる」


 気のせいか、彼女の涙が少しぶり返したかのように見えた。


 そして今度は、笑顔を浮かべるのだが、そのとき、彼女の上睫毛うえまつげが赤く湿り始めたことに気付いた。


 錯覚では無いらしい。


 というのも、彼女の元の形、あの本には、タイトルが無かった。そして、それは本として、足りない、至らない。そういうこと。


 彼女が少女の姿をしていることの答えなのかも知れない。


「す、――……」


 私は謝罪の定型文をみこんだ。もっと良い言葉が、ある! 確信した。それを言葉にすることで、彼女の涙を終わらせられる、と。


 私は彼女にこう提案した。


「では、私が君に名前を送ってもいいかな?」






 彼女はびっくりしたかのように、きょとんとしている。


「えっ?」


 そう一言だけ言って。


 それと同時に、


 ばさり。


 垂直に立っていた布は地面に柔らかくなって落ちた。


 私と、裸で正面を向いて隠したり恥ずかしがったりすることなく立つ彼女。きっと、羞恥しゅうちを浮かべる余裕が、脳内に無いのだ。私の今の言葉に脳内を占有されているのだ。それだけ戸惑っているということなのだ。なら私も、ここで彼女に羞恥しゅうちを自覚させる動きをすべきでない。


 だから私たちは、向かい合って、お互いの顔を、目を、じっと見ている。


 すると彼女はそのほほを薄赤色に染めて、そして、まだみるみるそれは広がっていって、彼女の顔全体がそうなって、そしてさらにさらに、彼女の髪の毛が真っ赤に染まって、ぼとりぼとり、と、赤いインクのようなものが床に落ちる。


 落ちたインクは、木の床の上で、動いて文字となる。様々な文字に。"glad"、"delight"、"歓喜"、"幸せ"、"happy"、"delectare"、"gaudium"、"pleasure"、"áthas"。


 私の分かる分だけでもこんなにたくさん。読めない文字もたくさん。そのどれもが、彼女の今の、喜びの気持ちなのだろう。


 ハートマークなどの絵文字もある。


 羞恥しゅうち、という意味の文字は私の識別できる限り、一つもなかった。それ程に強い感激だったらしい。私が思っていたよりもずっとずっと。


 そして、彼女の瞳から流れ出す、四筋の涙。両目の両端から溢れ、ゆっくりと流れ出したそれは、紛れもない、うれし涙だった。






「喜んでもらえて何よりだ。ではご期待に沿わなくてはな」


 私はそう言って、布を拾い上げ、彼女の両(かた)に掛かるように、前に垂らすように被せた。そして、ずれ落ちないように、彼女の背中の、首の後ろで少し強めにくくる。


 結構タイミングが難しいところであったが、上手くいったらしい。


 彼女の涙の種類が転換した様子は見られない。


 名前というのは、テキトーではいけないが、考え過ぎるもいけない。付けるなら、大事なのは、イメージ。印象。


 ここで問われるのはつまり、


 彼女を体現するのは?


「君の本質は無()。でも未熟ながらも多くの知識を持ちどのようにでも成長する可能性のある灰色の存在。そして、君は、あの悪()もやの悪()の下にいる。だから、こうしよう。"innocentiaイノセンティア=grayグレイ=mistミスト=nebulaネビュラ"。それが、私が君におくる名前だ 」


 そして、紙にペンを走らせ、そのつづりを書き、千切り、彼女に手渡した。


 この場所が、やけに私の参考記憶の中の、新アレキサンドリア図書館に似ていることから、ラテンの、ローマ風の名前を付けることとした。彼女の顔つきも髪型もそっち系であるのだから。それに加え、彼女に言った理由を加え、完成。






 彼女はすっかり泣き止んで、


「いいわね、いいわね。でも……、長くない? いやっ、私はいいのよ。しっかり意味があって、重厚な名前。だって、主様は私に名前すら付けて、くれ、な、ぐす、ぐすん、しく、しくしく」


 また、泣き出してしまった……。


 だがそれは、一度()りつぶしたのと同じ種類の涙。そして、先ほどよりも悲しみの深度は浅い。長いこと放置するつもりもないから特に問題はない。


 長い、か。つまり、呼び名、それが必要なわけだ。


 なら、こうしよう。


「ティア、でどうかな?」


 彼女が涙をやたらに流すから、という理由でそう決めたわけでは断じてない。響きの綺麗きれいさで決めたのだ。


「ええ、ありが、しくっ、とう。すぅぅ、ぐぅぅぅぅ! もう、大丈夫。わたくしは、ティア。よろしく、()()()()()


 そう呼ぶのか……。私なりに、あれは結構考えて付けた仮称だったのだが。……そんなことを言うのも野暮か。意味は同じなのだから別にいい、か。


 それに、その言葉は、響きは、不思議と悪くない。

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