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てさぐりあるき  作者: 鯣 肴
第五章第二節 書海真名真姿 剥奪叡智の書海
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書海真名真姿 剥奪叡智の書海 簒奪蒐集の書庫 意思を持つ無名の本 Ⅲ

 そのまま、呼吸をするために顔を上げることなく、ひたすらに額を床につける。顔を赤い水()まりに沈めたまま、私は唯、すまない、と心の中で一言呟つぶやいて、浸透してくる彼女の感情を、痛みを、じっと受け止め続けた。


 それ以外のことは考えず。


 そして、意識が、何故か、薄れていくような……。


 あぁ、空気()()、か。


 許してもらえなかったか……。


 ……。自分のことを考えているようでは、駄目だな。本当に、私は……。


 "許してもらう"。


 それこそ、唯の私の自己満足ではないか。私を分かってくれ、理解してくれ、という一方的で、この場で必要な方向とは逆の行為ではないか……。


 頭に浮かんでは消える言葉。


 謝罪している。わざとではなかったのだ。悪気はなかったのだ。私に非があるなら、教えてくれ、分からないのだ。それを分かってくれ……。


 酷……い、もの……だ……。


 ああ……、しかし、意識……無く……す、前……、これ……だけ、言……おき……た……い、な……。


「ブババビィ」


 振り絞った言葉は唯の泡としかならず……。


 はは、上手……く言え……な……、かぁ……。水……中、……ぁ。


 はは……、すま……ない……。






 はっ!


 何故か分からないが、死んでいないらしく、なら、すぐさま、続きを、言葉を、ここは水中では、ない、起き上がって、座禅! からの、


 それは禄に視界も覚(せい)していない、半ばまだおぼろげな意識の中での行為。だから、


「済っ」


 ガン!


「きゃぁ!」


 失敗する、


 ガタァァッ! ドドッ、バサササ、バサッ、バサササササ、ガタッ、ガクン、バタッ。


 のだ……。


 私は今しがた正座から頭を下げようとして前にそして、勢いよく身を引かせて半分立ちあがるような姿勢になりながら後ろの本棚に強くぶつけた頭を抑えながら、自らの言葉を途切れさせたのだ。


 尻餅しりもちをついたが、その音は、本棚が私の後頭部の衝突によって軋むように揺れて、その中身をぶちまける音に掻き消されたのだ。


 本の落下の前の甲高い驚きの声は、本の化生である彼女のもの。


 私の正面にいたらしく、びっくりした顔ではあるが、未だ少し目の虹彩以外の白い部分である強膜を薄い朱色に染まらせるという、先ほどまでの悲嘆の痕跡を色濃く残した彼女は、内(また)で立って私の向かい側の本棚に背を付けるようにして、両手を上半身の前に曲げて肘を立てて拳を握り、少々びくつくような姿勢をして、体でも不安を現しているようだった。


 遅ばせながらに覚(せい)した視界にそんな彼女が映っていたので、


「す、すまない……」


 そうやって、つたなく謝った。


「え、えぇっ、ぐすん、わたくしは大丈夫よ。すっ、貴方こそ、すっ、大丈夫なのかしら……」


 私は意識を失っていたのは間違いないだろうが、そう長い時間が流れたわけでもなさそうだ。涙がぶり返すというのはそういうこと。






 なら、繊細な対応をしなくてはならない。


「私は問題ない。慣れているからな、まぁ、痛みというのには憶えたて故、慣れてはいないが。それよりも、」


 私は再び、正座し、両手をついて、頭を下げつつ、


「済まなかった」


 しばらく頭を下げ、そして、上げ、私は涙を浮かべながら、彼女の手を取る。握る。


 ざっ、ぎゅっ。


 ぱらり。


「君は人間だ。君の精神は人間そのものだ。だから、君は、人間なのだ。私がおろかだった。鈍だった。人間を人間たらしめるものは、精神である。そう学んだはずだったのに……」


 そして私は、


 ズッ、ギュッ!


「済まなかった」


 彼女を抱きしめながら、そう言った。






「ね、ねぇ」


「済まない……」


 済まない。


 ただ、謝ることしかできない。


 本当に、済まない。


 私は依然として、彼女を強く抱きしめている。


「そうじゃなくて、ねっ」


「済まない」


 私に他の言葉など、無いのだ。済まない。ひたすら、ただひたすら、それだけだ。私は、感傷にひたっていた。


「いや、ねっ」


「済まない」


 だから、反射的にそう返してしまっていた。しかし、


「わたくしの、布……、と、取れちゃってるんだけ、ど、も」


 顔を少しばかり、薄い赤色に染めてそう言うのを聞いて、はっとした。私は無礼を重ねてしまったのだと気付いたから。


 私は彼女を放し、彼女の裸体を覆うための布を拾い上げた。


 そして、彼女にかぶせるために、彼女を抱える手を放して、数歩下がるように離れ、


 バスッ!


 全裸でぺたん座りで、両手を足の外の地面に置いて呆然としている、何一つ隠れていない状態の彼女。


「さあ、立って」


 全裸の彼女から数歩分の距離正面に立って、無頓着にも、そう言った。


 まだ立ちあがれていないままの彼女の上半身、両(かた)に、前から布を持ちながら伸ばす。距離をめつつ。


「えっ、えっ……、ちょっと……」


 だが、


「私に被せさせて欲しい。不用意にもがしてしまったのは私なのだ。だから、私が責任持って、再び、君にかぶせなくてはならないのだ。さあ!」


 彼女に立ち上がるように催促さいそくする。


 私は感傷にひたっていて、彼女の表情が、感情が見えていなかったのだ……。


「恥ずかしいのにっ……、わたくしのはだか、見ないでよぉ、見ないでぇぇぇぇ、ぐすっ、しくしく、しっく、しっく、ぐすぐすぐすぐす……」


 また、やって、しまった……。






 ……。


 記憶の中のこういう場合の常識に、見落としを見つけた。今更だが……。


 女性にとって、異性にはだを触れられることは、親しい仲でもない限り、失礼にあたる。それがたとえ、どれだけ幼くとも、どれだけ老いていても、同等に、無礼。


 例外は、挨拶あいさつのハグとキス。しかしどっちも、浅く行うようにしなくてはならない。


 はだを許す、という言葉があるくらい、はだに触れられるということに対する心的障壁は高いものなのだ。同性でもそうなのだから、異性であるならなおさら。


 気をつけよう……。


 彼女はもうほとど泣き止んでいた。比較的落ち着いている。


 とはいえ、まだ目をうるませているし、時折目をこするし、時折赤いインク状の鼻水をぬぐったりしているので、ダメージは大きくて、尾を引いているのは間違いなさそうだった。


 それだけ配(りょ)ないことをまたしてしまったということだ。


「済まなかった」


 モザイク状の布を手で抑えて、体の前側の首から下を、布を抑える右手と、鼻と涙をぬぐうための左手以外を出さない状態に保っている彼女に向かい合うように座った私は、再び謝った。


 頭を下げて。


 土下座はしなかった。


 土下座というのは多用し過ぎると意味が薄れるらしい。だから、足りない分は言葉で、誠意でめることにした。私のできることはやはり、それなのだから。


 ここで、ただ、許してくれと言って、許してくれる訳がない。それなりに、代(しょう)を支払うべきだろう。埋め合わせの自苦を相手に分かる形で示さなければならない。一方的に相手に損をさせるということは、不満を貯めこませること、理不尽を与えることに他ならない。


 だが、問題は彼女が優しいこと。


 少なくとも、先ほども大泣きさせ、そのとき私は液体に沈んだ筈、だった……。そんな私を彼女は救ってくれたのは間違いないのだから。


 だから、自分に苦しみを与えて見せるというのは、この場合、逆効果になるだろうと容易に予想できる。


 どうすればいい……。


 答えが出ないまま、考え込んでいると、


「ぐすっ、ぐすっ……、ずぅぅぅぅ、い、ひっく、いいわ、よ……。わたく、ち、も、ひっく、悪かっすっ、ったのよ」


 と、彼女は再び涙をぶり返しつつも、彼女の方から私を許してくれた。歩み寄って、許してくれた。


 だから申し訳なくて仕方なくなって、私はもう一度謝り、彼女にある提案をしようと思ったのだが、


「主様の言う通りに、しっく、して、うまく、いくわけなんて、ずるるるるう、なかったのに!」


 彼女は再び口を開き、後半、感情が高ぶったのか、強く、怒鳴るように、投げやりにそう言って、


「ううっ……しっく、しっく、ぐすぐす……」


 再び、泣き出した。






 そんな彼女を見つつ、思い返す。


 本の状態の彼女は、最初、心を読んで私をおののかせた。とがった態度を取った。しかしよくよく思い返してみると、それでも、その文面からは悪意は感じられなかった。


 ただ、私が気持ち悪がっただけだ。


 やけに心が揺らぎやすくなったものだ。それだけ、感情の、精神の完成度が上がっているのだろう。だから、そういったものを感じるようになった。


 感傷を、共感を、そう、愛と所属。私は自身の記憶の中に以前の私が入れていた言葉で、それにしっくり合うものを見つけた。


 "隣人を愛せよ"。


 なるほど。私は今、それを実践しているわけ、だ。いつくしみの心とやらを持って。


 少しばかり違う気もするが、そう遠くは、大きく外れてはいないと思う。

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