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てさぐりあるき  作者: 鯣 肴
第五章第二節 書海真名真姿 剥奪叡智の書海
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書海真名真姿 剥奪叡智の書海 簒奪蒐集の書庫 意思を持つ無名の本 Ⅱ

「ぐすっ、しくしく、しっく、しっく、ぐすぐすぐすぐす……」


 彼女は泣き続けている。止まる気配はない。


 私の記憶の中の参考映像によると、こういった状況で、裸を見られた、羞恥心を持つ女の子が、発狂するように泣き叫んだり、暴力を振るったり、無視したり、逃げ出したりするようなことになっていないのは、大変幸運、いや、奇跡的ともいえる状態であるらしい。


 私は、彼女を、本として意識し過ぎた。人間の形をした、本、である、と。


 それが失敗だった。


 彼女の精神は、人間そのものであったらしい。それも、首から下の見掛け通りの、幼さを残す少女の精神。


 裸の女性の前に、男がいるというのは、それなりに不味いことであるらしい。私の記憶の中の映像がそれを物語っていた。現実世界でも、創作の世界でも、妄想の類でも、それなりの理由というものがあり、女性が許可を出していなければ、悲惨なことになる。


 ……。とはいえ、相変わらず実感はかない。






「そろそろ、泣き止んではくれないか。そうしてくれなければ、どうしようも無いだろう」


 依然としてえんえんと泣き続ける彼女に対してそのように語りかけてみるが、


「ぐすっ、しくしく、しっく、しっく、ぐすぐすぐすぐす……」


 彼女は延々と泣き続けたまま。


 だが一つ、変化が現れた。


 とうとう涙が床に滴り落ち始めた。落ちる涙は先ほどから相変わらず、見た赤いインクのようなポンペイ・レッド。それが、木の地面にまで滴り落ちて、文字の形となっては、消えていく。


 "悲しい"、"sad"、"lacrima"、"泪"、"larme"、"δάκρυον"、等々。数多くの私の読める言語の単語と読めない言語の単語を形成していた。


 涙を流している、ということと、悲しい、ということ、か。


 だが、そんなもの、わざわざ文字で提示されなくとも、泣き続ける彼女を一目見るだけで、分かることだ。


 なら、これらの意味は、何だ……?


 それに、どうして泣いているかの原因が分からない。悲しいから泣いている、など、そんなもの、見れば分かるが、それでは解決には向かえない。


 それにしても、不思議な存在だ。流れ出て落ちた体液に感情が言葉として乗り、文字へ変化する、か。


 視線を上げ、しょう点を遠くし、奇妙な涙を落とす彼女を引きの視界で見て、今一度私はじっと、凝視してみる。


 できる限り、先入観を消して、客観的に。


 ……。やはりどうも、人であるとは認識しにくい。だが、彼女の中身は、紛れも無く、人そのもの、この年頃の少女より大人びた中身が入っているかと思っていたが、情緒面については、見掛けよりも随分、幼いらしい。


 だからこそ、やりにくい……。






「ぐすっ、しくしく、しっく、しっく、ぐすぐすぐすぐす……」


 一体、どうすればいい……。いつまで続くのだ、これは?


 彼女の赤インクのような涙は、体感数時間は経過した今であっても、薄くなったり、かすれたり、途切れたりすることなく、続いている。


「ああ、面倒くさい。流石、奴が渡した本だけのことはある」


 思わず、それを言葉にしてしまう。


「ぐすっ……、……」


 止まった。爆発するかのように泣き出す一言だと思っていたが、どうやら何か彼女にとっての関心の誘引か、泣き止みのキーワードとして作用したようだ。


 そうして、彼女の泣き声が止まった。


 うるませた目で、先ほどまで泣き散らしていたせいで、強調される眠り目を少しばかりり上げて、見開いて、私の顔を見ている。口を開けて。


 信じられない、とでも言っているかのように。なら、来る。感情の転換が。私は気持ち一歩引いて、身構える。


「貴方って、ぐすっ、ひどい、人、ね……」


 にらみからの、明らさまな憤怒ふんぬでも来るか、とでも思ったが、どうやら違うらしい。その声は尖っておらず、泣き声を含んでいて、そして、目は力を失い、り上がりとは逆に力弱るかのように垂れて、とても悲しそうな顔で、目で、声だったから……。


 そして、


「ぐすっ、しくしくしく、うあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ――――」


 今度は大音量で、叫ぶように激しく泣き出した。


 感情を現す文字が、足元で大量の赤い虫でもうごめいているかのように、あふれるくらいに、浮かび上がる。


 文字は消えず、生きているかのように、むしのような気持ち悪い動きで、周囲に広がっていく。


 その気持ち悪さに、思わず、私は数歩後ずさりした。






 本の虫。本が好きで、四六時中読書している人のことを言う。そんな言葉がある。


 まるでその言葉の字面だけを抽出したかのような……。本の中の、本から出てきた、垂れ出してきた、うごめくく文字、本の虫。省かず言うなら、本の中の文字の昆虫、で、本の虫。


 何故かそう、それらのうごめく文字を見ていたら、頭に浮かんだ。


 ぞっとする……。


 なんと不気味で、異形な……。


 そんなものを、このような、美しい少女の形をした本の変化に、能力として、あのもやの悪魔は、付与したというのか……?


 そして、彼女は、それがどのようなものか、恐らく、知らない。私も知らないが、それがきっと、負の何かではないかという点は外していないと確信している。


 だからこそ、おぞましく、恐ろしい……。


 ポタッ、ポタッ……。


 額から垂れて地面に落ちた私の汗。


 その汗に、最も私に近い赤い文字たちが飛びつくように群がる。その様子はひどく恐ろし気で、まるで私の汗をむさぼっているかのように見えた、敵意を持って、攻撃的に。


 文字のむしは、依然として消えず増え続けていて、文字のむしの赤い水()まりはどんどん大きくひどくなっていき、彼女を中心として、うごめきを大きくして拡張を続けている。


 このまま、逃げるか、それとも、彼女を説得して泣き止ませるか。……。どうして、迷う? 逃げ一択だろう、これは。私が姿を消して、彼女が自然と落ち着くのを待つしかないだろう……。


 そう判断は既に出ているのに、足が動かない。恐怖で、ではない。引っ掛かる先ほどの少女の言葉。何故、引っ掛かる……?


 ……。


 …………。


 ………………、ああ、そうか。あの悲しそうな顔。かぶるのだ。黒羽根が見せた、自分を理解してもらえない、という、悲しそうな、あきらめを含んだ顔。


 彼女自身のみが原因ではないのに、どうしようもないのに、そんな顔をしなくてはならない、悲しみを背負わなくてはならないのは、彼女自身だけ。


 私の、この世界に来てからの最大の後悔。それとかぶっていたからだ。


 理解されないということは、この上なく、辛い。


 それをあの世界で知ったはずなのに、人の意志を持つこの少女に、私は黒羽根たちと同じ顔をさせてしまったのだ。


 あれよりも悲(さん)な顔ではないが、同系統の悲しみを負った顔。


 ならば――――、み出さなければ。再び後悔しない、為に!






 私はむしのような赤文字をみながら、進んでいく。


 文字を踏むと同時に聞こえてくる、幻聴のような、彼女の声。


「私は……、人よぉぉぉぉぉぉぉおお!」


 最初の一歩目で文字を踏んだときに聞こえてきたのはそれだった。


 そうか。そういう風に扱って欲しいのか。だからこその、先ほどの悲しみの決壊の直前の私の言葉からの彼女の反応、か。


 その音は余りに大きくて、私は思わず耳をふさいでしまったが、その音は小さくなることはなかった。周囲の本棚が震えるような大音量だと思ったが、何一つ、周囲のものは揺れていなかった。


 だが、それを聞いて、逃げなくてよかった、と私は心から思った。


 彼女は私の心理、心の中が読めるのだ。なら、見てしまったはずだ。彼女をどこか、人間のように思えず、人間扱いしていなかった私の心を。


 悲しいはずだ。


 ただの物のように、心を、意志を持たない物のように扱われて。


 私は進む。ゆっくりと、一歩ずつ、進む。


 響く声は、幾重にも重なりあって、私の胸をす。彼女の悲しみが、流れ込んでくる。彼女がどう、その心に痛みを感じているのかが。


 私は進む。それでも進む。


 いや、だからこそ進むのだ。進んで、彼女の前まで行って、目の前で、謝らなければならないのだから。


 ああ、私も……、涙があふれてきた。






 彼女の前に私は到達した。その前で、どう、謝るか、考える。


 彼女は、人間だ。


 そういう理由で、涙を流し、悲(たん)できる者が人間でないはずはない。確かに、彼女の外見にはところどころ、どう見ても人のものではない特徴が幾つかある。しかし、人間を人間たらしめるのは、その精神。心の有り様だ。


 原始の世界で会った人形に精神を宿した彼女から学んだではないか。どうして、こんなことをしてしまったのか……。


 ……。駄目だ。


 許してもらうために、言葉をひねり出すように修飾することが、誠意か? 違うだろう。違う。だから、考えるんじゃあない、ただ、やるのだ。示すのだ。


 ビチャア。


 私は彼女のその、赤い水()まりの中に正座する。私のこしまでがそれにかった。そして、み込んでくる感情はさらに強いものになり、すまない、の一言ですら、今は唯の侮辱ぶじょくにしかならないと気付く。


 ザバァァ。


 私は両手をひざの前について、頭を、その赤い水()まりの中に、


 ザッ、ゴォォォォォォォォォ、ゴッ、ォォォォォォ――――


 沈め、底へ付けたのだった。

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