書海真名真姿 剥奪叡智の書海 簒奪蒐集の書庫 Ⅳ
触れ、たい……。一度でいい。ちょっと、だけでいい。掌全体でとはいわない。指先だけで構わない。触れてみたい。
何も、女性的な象徴的な部分に触れたい、という訳ではない。
ごくり。
再度唾を飲み込み、恐る恐る触れてみる。狸寝入りであり、突如私に襲い掛かってくるなんていうような誘いの罠ではないことを祈りつつ。
今すぐ動き出されても抑えらえるポディションは取っているが、彼女の筋力が想定を越えている可能性すらある。凡庸な普通の人間ではないことだけは絶対的に確かなのだから。
伸ばす、伸ばす。右手人差し指を、徐々に徐々に近づける。予め手足を抑えつけておくべきかここにきて迷ったが、そんな必要はない、それよりも、触れたい。触れる、触れる、触れる、触れる!
右手人差し指で少し押すように彼女の右頬をなぞる。
ふにっ、さらり。
紙と絹を混ぜ合わせたかのような、そんな手触りがした。
厳密に言うと、押した感じは、絹、なぞらせた感じは、引っ掛かりの少ない、上質な書き心地の紙。
……、更に調べる必要がありそうだ。
気を取り直して、彼女の顔を再び覗き込む。
頭髪にあたる部分は、まだ、灰色の靄のようなものがまとわりついていて、良く分かない、それに顔にかかっているわけではないのので後回しにして。
顔つきは非常に整っている。やはり、目はそう大きい訳ではないように推測できる。並、といったところか? そう細くはないだろう。決して、丸っこくぐりっとした目ではないだろう。
少々目が飛び出ているようにも見える。それでいて二重。きっとその目は開いたら何とも眠そうな感じをしているに違いない。睫毛がきっとそれを強調するだろう。そんな睫毛はやけに長い。上睫毛はくるんと巻いている。下睫毛は短く、目の周りを縁取っているだけだろう。
その色は……、白と黒のモザイク色の靄で覆われていて、よく分からない。もしかすると、この靄のように見えるのは、彼女の毛が白と黒のモザイク模様になっているからではないだろうかと推測してみる。
きっとその答えは、彼女が目を覚まさない限り分からない。今目を覚ますのは勘弁して貰いたいところだ。
そう言えば、彼女の心拍も、息も、腹と胸の呼吸による動きも一切見られない。だが、それでも死体とは到底思えないのだ。
唇の色も、灰色。肌より少し濃い。潤んではいない。だが、かさ立ちなどは全く見られない。
ごくっ。
再び伸びる、私の右手人差し指。
触れてみる。
ぷにっ、ぷにっ、ぷるっ。
思わず二度押してしまった。そして、私が指を放すと、いい感じに弾力を持ってそれは揺れた。
その触り心地は、あの本の表面をなぞったときと同じ。押してみた感覚は、頬の皮膚と同じように柔らかかったが、それだけではない。
革や布丁装の分厚い本の表紙から表面を剥がして、皮膚の上に重ねるとこのような感覚になるのだろうか、という感じの触感。
それでいて、しっとりとした湿り気を感じないのに、微熱と、えもいえぬ弾力までも持ち併せるという、現実に存在しない感触。
ぷにっ、ぷにっ。癖になる。
ざらりと、ぷにりと、どう言い表せばいいか。
ぷにっ、ぺにっ、
っ!
びくん、と私はその指を退いた。
い、今のは……。ざらりでも、ぷにりでもない感覚。何か別のものが私の指先に付着したような……。
自身の人差し指の先は、しっとり、ねっとり……。
彼女の唇から滲み出たまるでべっとり目な赤インクのような唾液が、糸を張っていた。それは、私の指先と繋がっている……。
右手人差し指の先を右手親指と擦ってみると、さらっとはしておらず、生暖かさと、通常の人間の唾液そのもののような粘り気を感じずにはいられなかった……。
その色合いは、ポンペイ・レッド。赤色酸化鉛とも呼ばれる、古代ローマにおいて使われた橙赤色の顔料の色合いによく似ていた。
目の前に近づけて、匂いを確かめようとしたが、無臭。
唾、なのか? これが、彼女の……。
そう言えば、彼女からは匂いがしない。紙のような匂いも、インクの匂いも、この年代の少女特有のミルク混じりの甘い匂いも。その他固有の匂いも。
完全なる、無臭だ……。
な、何をしているのだ、私は……。そんなあからさまな、目の前の状況の変化らしいものからの逃避、やっている場合ではないだろうがぁぁ……。
右手の人差し指に残る彼女の赤インク状の唾液らしいものと、そこからまだ糸を引いて繋がった先にある彼女の唇と、そこに漏れた赤インク状の唾液らしいものを交互に見ていると、
スゥゥゥゥ。
と僅かな量の砂が流れるような小さなさらりとした音を立て、それは風化するかのように、跡形もなく消え去った。
一体、何だと、いうのだ……。
彼女の顔を見つめる。未だ、彼女は目を覚ましそうには見えない。
ん?
ぴくり。
今、ほんの僅かだが、彼女の瞼が動いた、ような……。
ドクドクドクドク――――!
暴れるように高鳴る私の心臓。
頼む。止めてくれ、未だ、未だ。私は心の準備をできていない。彼女がこの今の体の形態に従った存在なのだとするなら、本というより、人寄りの存在であるということだ。
なら、人並みの羞恥くらい、持っていても、おかしくはない。布でくるまれていたのだ。纏っていたのか、くるまれていたのかは分からないが、布である程度、隠されていたのだ。
なら、これは絶体絶命。
頼む頼む頼むぅぅっ、目を、開かないで、くれぇぇ。絶対面倒なことになる、なってしまう。だから、だから……。もう唇包んで遊んだりしないから、勘弁、して、くれ……。
「んん……」
彼女が目を瞑ったまま、夢にうなされるような声を遅ばせながら上げた。不快感を与えてしまったのだろうか?
その声は、幼く、高く、丸みを帯びていた。
……。
彼女はまた、元のように、目を閉じて動かない。
結局のところ、彼女が何であるのか、余計に分からなくなる……。
もう駄目だ、と思ったが、何とか彼女は起きるなかった。
……。未だだ。未だ、いける。
それに、未だ、分からない。更に、調べなくては。
彼女は依然として、息をしていない。鼓動も大事な部分に触れない程度に耳を近づけて確かめてみたが、全く。赤インク状の唾が再び口元から出てきそうにもない。
本が変化して、人の形に変化し、珍妙なモザイク模様をその髪に纏って、点滅する白と黒のモザイクで覆われた一枚布を纏った、本の変化。それがこの少女ということは間違いないだろう。
こんな怪奇の塊。実際に間近でそれも実際に触れて調べられるなんて機会、まずない。創作話の中ですらほぼ無い、貴重な体験だ。
彼女の正体をもっと具体的に掴みたい。調べたい。これは探求欲という奴だ。私の中のそれはこんなにも強い衝動だったのか。それに加え、何かいけないことをしているかのような、背徳感。それが、よりこのひとときを彩ってくれている。
認めよう。
私は、以前の私の残した知識の中に抵当するものがない、この少女の形をした何かを暴きたいのだ。有機と無機の間にたゆたゆようなこの不思議な存在を、観察したいのだ。
もう、別に構わない。目を覚まされてしまっても。それまでじっくりこの時間を濃密に、愉しむ。
そうして私は自重を、完全に投げ捨てた。
私は少女の髪に、手櫛を通すかのように触れてみる。毛先から根元へと指を滑らせていく。
正直、モザイクの靄のせいでどこが毛先か正確には把握できない感じだったが、問題なかった。ちゃんとそれには実体はあった。
そのまま指を抜き取るのではなく、髪を束にして掬ってってみる。不思議な感覚だ。
繊細で何処までも細い繊維の集まりのような感じだ。触れた、という感覚が、重みが、指先を髪が抜けていく感覚が殆ど無い。すっとその髪束から手を放し、抜く。
ぱらり。
まるで、空を切るかのように、質感を感じないというのに、それでも髪音は、鳴るのか。
その大半が小さな掠れ音を立てて私の手から離れ落ちたが、一部が残っていた。
鼻を近づける。嗅いでみる。はやり、その髪にも、匂いが無かった。
続いて気になったのは彼女の爪。現在露出しているのは、右手と両足の爪。左手はモザイク布の下。彼女の爪は、唇と似た、濃い目の灰色だった。
右足の親指の爪になぞるように触れてみると、本の表紙と同じような感触がした。そして、押してみると唇とは違い、しっかりと硬い。
人に変化したこの少女の体は、基本的に、人間のものに寄っていつつも、本の性質を含むということらしい。この年で爪がここまでがっちり固いということは普通はない。髪にかかったモザイクの靄なんて、もっと説明できない。あの、インクのような唾液もそう。
もっと調べるには、布が邪魔だ。
よし、抜き取ろう。
そうしようと、布に向けて右手を伸ばそうとすると、
「うぉぉあぁぁぁぁぁぁっ!」
私は突然竦み上がらせらることになり、後ずさりする羽目になった。
気付けば、少女が、起き上がりもせず、薄灰色の虹彩をした光なき瞳を眠そうに開けて、倒れた状態のまま、私の顔を、じっと見つめていることに気付いたから……。