書海 エントランス Ⅱ
"esteem"の台座に"紫の水晶球(真)"を嵌め込み、延びた道の先で私を待ち受けていたのは前回とは違う光景だった。
看板や、下へと延々と続く偽階段は消えていた。
向こう岸へ踏み入れると、ふっと、足元から波打つように広がる波紋とともに出現した白砂の荒野だった。薄くだが、黒い靄漂が何処までも、荒野の終わりが見えないのと同じように延々と続いている。
前回見たものは何一つ、無い。
前の砂漠世界での最終決戦の場とかなり似通っている。瓦礫が無いことと、靄が黒のみであることと、砂の色が白であることと、足が埋まる程には砂のかさは無いということ以外は。
ヒュイイイイ、ゴォォォォォッ、ザァァァァァァァァァアァィィィィ――――。
やけに刺々しい風切り音とともに、私の正面、距離約50メートル地点。そこに何か、落下してきたようだ。
周囲の砂を吹き上げ、白い砂煙を起こしているが、それは徐々に収まっていき、地面にその一部を浅くめり込ませたまま動かない紫色の物体が見えてきた。そのシルエットは、丸いが、イガイガしている。一本角が乱立したかのように棘々《とげとげ》しいものが、丸い図体から生えているようだ。
これだけ離れているというのに、辛うじて、その天辺が見えるかどうか程度に大きい。左右の端は、同時には視界に収まらない……。何なのだ、こいつは……。
あからさまに怪しく危険そうなそれに、私は近づくことなく、距離を保ったまま、
「誰だぁあ、お前はぁああああ?」
と、大きく長く、声を響かせた。
蛍光紫といった色合いでありながら、何処か黒ずんだような紫色の濁った複数の眼、縦横に幾多にも並んだ眼がぎょりりと、私を見たような……。
それは、のっしりと手の足も使わず(そもそも、手も足もないように見えるが)起き上がり、数百にも及ぶであろう体中の眼で、明らかに私を捕捉するかのように、凝視している。
気のせいであって欲しかった。
だが、これは現実だ。幻でもなく、明らかに目の前で起こっていることだ。
きっとこいつは、靄の悪魔の眷属だろう。唯の化け物でしかないなんてことはあるまい。
この世界において、私は、元人間か、幻想の中の情報もしくは記憶の塊でしかない意思なき人間か、人の体を失い人でない別の体に入った精神だけの人か、人間やめた悪魔か、悪魔の分体か、元悪魔たる化け物、神と名乗るきっと別の何か、にしか出会っていない。
……、化け物という線は一応、残る、か。まあ、どちらにせよ、普通のものではないのは確か。
私の声に明らかに反応し、こっちを見た地点で、言葉は通じる……とは思いたい。
逃げるにしても、退路はいつの間にか消えてしまっている。この周囲全域、見たところどこまでも広がっている白砂の荒野。遮蔽物は無く、逃げきれる訳もない。
ゴォォォ、ザァァァァァァ……。
地面が揺れ、その紫色の何かは、全身を地面の上に露出させた。
当然、頂点はもう、かなり見上げないと視界に入らなくなってしまっている。
くびれの弱めな達磨のような胴体を持っているようだ。そして、全身から角のような棘が無数に生えているようだ。何ヶ所かにある、角の生えていない部分には、大量の眼が存在しているようだ。
目と棘の、達磨状の化け物、か。なら、こいつはどういう動きをする生物なのか? 先ほどの一動作だけでは今一つ、分からない……。
飛ぶように跳ねるのか、転がるのか。それとも、手足が生えてきて、走り出すのか。そもそも、それ以前に、相手するべきか、無視すべきかすら分からない。
だが、私はもう選択してしまっている。関わることを。自ら声を掛けてしまったのだ。そして、反応が返ってきた。その時点で、もう、こいつは私を見逃してはくれないだろう。その澱んだ眼たちは、私に焦点を合わせ、それを外してくれる様子は無いのだから。
それでいて、正体不明のこの、棘と目玉の紫色の達磨な何かは、その状態のまま、動かない。そして、私も動けない。
「【攻めないのかな、そちらから? そんなでは、到底、こいつ相手に生き残りの目は無いぞ】」
それは目の前の達磨に拠るものではない。奴だ、奴。靄の悪魔。奴の声だ。
そして、その声が聞こえているのは私だけではないようで、紫色の蛍光色の光が、眩く発生する。当然、その発生源は、紫の達磨から。
こいつの先ほどまでの状態は、紫の蛍光色を弱く放出するだけの、待機状態だったということだろうか?
放たれる威圧感は莫大なものだ。膨れ上がったそれは、私の肌をつんざくように、刺す、割く。
思わず、皮膚が切れたのか、と、裂けたのか、と錯覚するくらいには。痛みを感じない筈のこの体が、それを感じたかのようだったから。それは、強烈な電気がその部位に流され、熱の塊がそこで渋滞するかのように留まるような感覚。初めての感覚。知らない感覚。
それでいて、それが何であるかは予想がついてしまう……。実際に貫かれている訳でもないというのに……。実際に味わっている訳でもないというのに……。
体が自然と震え出すだけでは済まなかった。
脅威には慣れた筈だった。悪魔級の威圧感を浴びても何とか揺るがず立っていられるくらいには自信も付いてきていた。
だが、こいつは別格の、ようだ……。
視えてしまう。串刺しの幻が。私はその数多の棘の如き角の山にその身を貫かれ、びくりとも動かない。死んだ目には、最早何も映りはしない。フェードアウト。
そんな俯瞰する光景。
目を擦り、前を見る。
「ある"じでぃ、いっでだぁと、ぢがぶぅ"ぅ"っ"」
口は見当たらない。ここから見た限りでは、だが。何処かに口があるのだろう、だろう、が……、どこからどのように声を出せば、あんな、聞き取り辛く、化け物染みたものになるというのだ。
ダミっとしていて、低く、舌足らず。それでいて、腹に響くような大音量で、私の体に、その不気味な声がぬめりつくようにまとわりつくように、沁みてくるのだ。
こんな不気味で得体の知れない存在に襲い掛かるなんて考えは浮かんでこなかった。そんなものは、唯のアグレッシブな自殺以外の何でも無いだろう。
そもそも、武器一つ無いのに、どうやってこんなのと戦って勝てというのだ?
私は先ほどの世界で一度も空間から武器を出して使いはしなかった。もうそれは危険過ぎて使用できるものではないと結論が出てしまっているからだ。そして、それは今のようなどうしようもない状況であろうが揺るぎはしない。
この化け物は体色からして、身に毒か瘴気の類を纏っていることは間違いない。
せめて、距離を……、はは……。そうはいかない、か……。
膝が震え、距離を開けるために下がることすらできない。
圧倒されているのだ。呑まれているのだ。そうと頭で分かっているのに、その心への楔を取り払えない。
使うしかない、こうなればもう……。ここで終わるよりは、まし。
私はどうにか、その脅威から焦点を外しつつ、念じ始める。出す。武器を出す。空間に収納した武器を。出すのだ。
「【それは止めておけ。今までの自制が無駄になるぞ。それに、君の武器は用意してある。周りを見てみろ】」
そうして、空間の入口に伸ばした私の右手の先に、鋭い痛みが走った。急いで引くが、損傷は見られなかった。
つまり、警告だ。これは。靄の悪魔の。それだけはしてはならない、という。
気付かぬうちに、空と空間の色が変わっていた。私側の領域である白い靄の領域と、あの脅威の側の領域である紫黒の靄の領域。さらに、それぞれの領域に、どこかで見たような人らしき物体が並んでいることに気付いた。
原始の世界。その臓物でできた城において見た人形そのものだった。彼らは全て、丸い盾と、長い槍を携えて立っている。
「【私が命じるまで、彼は動かない。そして、それらの人形は、君の駒だ。だから安心するといい】」
悪趣味な……。
私は眉をひそめる。
「【君が無謀に、そう、君の言うところの、ダイナミックな自殺でも見せてくれるのかとも期待したが、そうはならなかった訳だ。なら、君は今回も、まともな方法で、正面から戦うことはしてくれないだろうと思った。だから私は、君と彼の周りのそれらの人形を用意した】」
紫の達磨のような何かの周囲に、新たに停止状態の人形が現れた。
ふざけるな……。こんなこと、やって、いられるか……。
だから私は、空に向かって叫ぶ。
「つまり、あの砂漠、お前が用意したあの世界での、場での、私の戦い方が気に入らなかったということか、ふざけるのも大概にしろ。私はお前の玩具ではない。とっとと、私の前に姿を現せ。お前の余興に付き合わされるなぞ、これ以上御免だ」
どっと、疲れが押し寄せてきた。
空が、白い靄と紫黒の靄に二分されてから、威圧感は小さくなったとはいえ、これまでの精神消耗が随分蓄積していたらしい。
私は、前の世界から、休むことなくここに来てしまった。
愚かだった。何でそんなに急いているのだろうか……。
すぐに答えに辿り着いた。あの燃え跡となった草木のある庭園に長居したくなかったのだ……。
どんどん、自身の行動が、旅が進むにつれて行動選択が迂闊で、感情的で、衝動的で、理由なしのものになってきつつあるということに、ここにきて私は気付いた……。
疑問の幅も、視野も、狭まっている。愚かになりつつある。
これこそ、以前の私が今の私を、あらゆる経験を失った状態の伽藍洞として形成した理由だったのだ……。