唯人天秤則 青年錘問 一度垣間見たかのような未開 Ⅵ
勝ちへの道筋。確かにそれは存在している。続く睨み合いの中、いつ終わるかも知れない膠着状態の中、私は何とか間に合わせた。
要するに、解釈の仕方の問題だ。
どちらとも捉えられる。勝利条件の一文、それには二つの解釈があった。人によってブレが生じる、判断が分かれるという類ではない。
しっかり読めば、誰でも気付く。二通りの意味に取れるということに。誰もが、二通り意味があることに気付くのだから、ルールのブレ、勝利条件と敗北条件のブレとは言い難い。
言葉通りの説得、それか、死人に口無し。
勝利条件から垣間見える、私の敗北条件、私の死。それが説得の失敗と看做されると考えらば、説得相手の死は、相手側の負けを意味する。
なら、フェンリルを殺す手立てが何やら存在しているということだ。物理法則の外ということを利用した反撃ができたことからもそれは明らか。
私は向かわなくてはならない。フェンリルの向こう側、に。
再開された攻撃。私の胸元に飛びつくように噛み付くかのような鋭い一撃。
当たれば丸呑みか真っ二つ間違いなしのそれを私は辛うじて躱した。跳躍して。そして、フェンリルの背に着地し、駆ける。
向かうは、尾。そして、その先にある洞窟。攻撃を凌ぎつつ、フェンリルの命に届き得る策を考え、実行する為に。今のままでは、体力が尽きるか、フェンリルの速度に対応できなくなるか、そのどちらかで私はやられる。
無事着地し、一目散に――――ガッ、ゴロロロ……。
「っ!」
思わず私は小さく、言葉にならない声を上げつつ、転んだ。見えない何かに引っ掛かって……。全く想定外だったそれが何であるか、分かった……。
周囲の景色に溶け込んだ透明のヴェールがかき消えて、突如現れる、事切れた母親(仮)。触れてみると冷たかった。
つまり、フェンリルは……、父親(仮)だけで構成されている。
半分体を起こした状態で後ろを振り向いた私の顔の前には、怒りをその表情に浮かべ、鋭い歯に唾引くフェンリル擬きが、いた……。
距離凡そ十数センチ……。
血生臭く生暖かい吐息が掛かる。
どうして、気付けなかった……。今まで……。
母親(仮)の死体の辺りには、全く血が飛び散っていない訳でも無かった。私が返した丸田矢が致命傷を負わせていたのだから。
そのときは横わりつつも辛うじて生きていたであろう母親(仮)。そして、その場に残された筈の丸田矢。
それは洞窟入口前に現れた。塞がれて、いる……。
つまり私は、父親(仮)の策に嵌められた、のだ……。読み負けたのだ……。
「何か言うことを強要するつもりは無いが、言い残すことは、あるか?」
父親(仮)は、化けたフェンリルの姿のまま、目を鋭く細め、睨むように私にそう言った。その目には涙は浮かべられていない。
それを見て、私は思わず笑ってしまった。
「ふはははははは、何と半端なのでしょうか、父上。貴方も、そして、私も」
莫迦らしくなったのだ。何をこんなにも私は必死になっていたのだ、と。そしてそれは、相手にも向けた言葉であった。それが息子と判断する者の中身は、私だ。縁も紫も無い、赤の他人だ。
つまり、どちら側から見ても、これは茶番に過ぎないのだ。
終わりの予感が色濃く感じられる。だが、言い逃れようのない、完全な負けのときに感じたものとは違う。少年期の世界のそれに近いものを感じる。
これは一方的な負けとは到底いえないものなのだから。
この試練は、そもそも不平等だ。1対数百。数の暴力。どれだけ少なく見積もっても、1対2。
私はその半分以上を、どれだけ少なく見積もっても、半分は条件を達成しているといえる。
父親(仮)だけ、もしくは、母親(仮)だけの説得で勝利条件の半分と考えると、少なくとも引き分け、兵士たちが死人となり口無しとなったことも考慮されるならば、私の優勢勝利となる。どれだけ小さく見積もっても、引き分け。私の不利な条件で始められたことも考慮すると、勝利になる。
完全勝利ではないとはいえ、勝ちは勝ちだ。優勢勝ち。
これまでの人形の世界が全てそうだった。成功と失敗は綺麗な二択ではなく、それぞれの数字を足して計100となる、成功と失敗、どちらが優勢か、の差であるのだから。
そして天秤の片方に成功が質量を持つ白い靄として、もう片方に失敗が質量を持つ黒い靄として乗っかる。
これの意味については解けていない。天秤をどう傾けるのか、或いは完全な平衡を目指すべきなのか。
答えは出ていない。
一応、私が勝利条件をより圧倒的な形で果たすほど、白い靄が発生し、天秤が白い靄の皿の方に傾くのだから、それを極力目指そうと決めてはいるが、それがどういう結果を齎すか私は推測すらできていない。
存在するヒントだけでは、天秤が提示した全ての人形世界を総括した問いに対しての正答は不明。そもそも、問題文が分からないままなのだから。
天秤の傾きが何を齎すか、依然として私は知らないのだ。
そんな、後のことを考える余裕がある状態なのだ。当然、この一見どうしようもない状況をどうにかする策も思い付いている。
母親(仮)の死体を私は抱き抱えるように持ち上げ、父親(仮)に言った。
「この惨状は、父上、貴方の愚かな行為のせいです。私に喰いつくということは、それに更なる愚行を二つ、重ねることになりますよ」
フェンリルの表情がぴくついた。狙い通りに。
「貴方が、母上を最初から、私を追い掛ける前に止めていれば、こんな惨状は起こらなかったのですよ? 貴方になら、できたでしょう? でも、貴方は無理やりにでもそうしなかった」
フェンリルは私から数歩、退いた。圧が小さくなっていく。萎縮していっている。なら、あと一押し。
「危機感が足りなかった。本当に、半端、ですね。そんなだから、こんな事態になったんですよ。その上で貴方は、今も半端。やり切らないんですか? 全てを無茶苦茶にして、終わりにしないのですか? まあ、そうしたらそうしたで、母上を死体蹴りすることになるだけですがね」
やはり、思った通り、衝動的に私に噛み付いてこない。最後のチャンスを与えてやったというのに。なら、とどめだ。
「はぁ……。なら、死んでくれませんか? 貴方は私が手を下すまでもありません。そんなだから、こんなことになっているんですよ」
立ち上がり、接近を始める。縮こまって動かないフェンリルに向かって。
一歩、二歩、
「ほら、とっとと、死ね、よ!」
三歩、
「さぁ、さぁ、」
四歩。
「さぁああああ!」
フェンリルの顔の正面数センチ。そこで私はせかすように、怒りを、叫んだ。
そうして私は、
「あ"あ"あ"ぁああああ――――、……」
声にならない、叫びを上げながら、私はその場で力尽きるかのように倒れ込んだ。
う、動け、ない……。心に浮かぶ、これら……の、せい、で……。感じない筈の疲労が、押し寄せてくる……。そして、心が、軋……む……。
心の奥底から溢れてくる悲しみ。それは決して私のものではない。この肉体に設定された背景。それは確かに存在していたことの証だ。
記憶。私がこの肉体に定着する前までのこの肉体の持ち主の心。それが私にこうさせている。
急速に馴染む、この肉体の設定記憶。それによって生まれる愛着、敬意、感謝。それに応じて自責の念は強く強く……。
この世界の、砂漠の支配者たる悪魔は、勝っても負けても、私にダメージを、損を、与える手立てを用意していたのだ。
それが幾つあったか分かりはしないが、これは間違い無く、その一つだろう。
シャボンの如く浮かび上がる設定記憶と、そこから生じる感情が弾けるようには消えて、次が現れていく、闇の中で、虹色の光に責め立てられる。意識は薄れていく。
買った筈、なのに……、ある意味、負け、た……。
青い血を首筋から口にかけて滲ませて横たわるフェンリルの死体を脇目に、意識を失う瞬間、そう思ったところで、塵となって私は消えた。
そして気付くと、天秤の中央柱の上ではなく、洞窟に出る前にいたあの部屋に私は、いた。
机の上に、新たに一枚の紙片が置かれていることに私は気付く。
とめどない涙を一度拭い、それを手にして、広げる。
【さて、このような結果に終わった訳で、勝利も敗北も、成立しなくなった。貴方が説得を行うべき二人はもう存在しないのだから。よりによって、片方は自害。だから貴方が失意に沈んだことを理由に貴方の負けにもできない。私の用意した駒が貴方より先に、堕ちたのだから。これだから、分体なんてものはいただけない。薄い薄い分体だったのだから、ほぼ、人と変わりない程度だったけれど、人が抗える脅威では到底なかった筈だ。私の見通しが甘かったと、認めよう。やはり、私自身の手で貴方を砕く以外無いようだ。仕込みもそう効いてはいないようだ。貴方の心が私と戦わずして再起不能になることが理想だったが、やはり、上手くはいかない。少々尾を引く後悔を抱かせることができただけでも上々といえるだろう。】
私は呆然とする他なかった。こんなこと、私に伝えると、折角効いていた仕込みの意味が無くなるだろうが……。
あの心に迫る、響き渡るものがあった、仕込まれた記憶による光景も、全て茶番に過ぎないと、否応なく俯瞰させられてしまうではないか。
喪失感が胸を占めている。先ほどまでの、あの、後悔が、心の叫びが、それの源からごっそり消えて無くなったのだから。
【だから、引き分けとしよう。どうする? 受け入れてくれるならば、この紙片を持ったまま、その出口から外へ出てくれないかな。受け入れないなら、それは破り捨ててくれ。受け入れてくれるなら、――……】
そこで私はそれを読むのを止めた。最後まで読む気力はもう無い。私はそれを破り捨てて、外へ出た。
もう面倒だ。
負けを認めろ、どこまでも愚かな砂漠の悪魔め。