唯人天秤則 少年錘問 Ⅳ
呻くように泣き叫びながら、のたうち回るリーダー格の少年。彼はこんな展開予想だにしていなかっただろう、きっと。
これだけの数の少年少女たちを掌握していたのだから、もう少しできる相手かも知れないと思っていたが……。青褪めるか、数歩退くか、痛みに顔を歪めるくらいだろうと思っていたが、そんな風に、弱さを見せるとは……。
私が先ほど、この支配者の少年を、所詮これまでの敵と比べると唯の子供に過ぎないと判断していたが、その斜め下を行っていたらしい。
私は血だらけの口から、声を出す。抜けた前歯の部分に自身の唇をあてて、ゆっくりと、しかし、聞こえるように周囲に対して、命じる。
そう。本物の惨状というものに慣れていない彼らが、パニックを起こさず、ここから逃げ出さないことからして、私にすぐさま手を出してこようとせず、のたうつ少年に誰も駆けよらないことから、私の言葉は、お願いではなく、命令になる、と確信した。
なら、予定を変更。場の掌握に掛かる。発音がしっかりできればいいが……。
「縄を解け。そして、事のいきさつを説明しろ」
思っていたよりもはっきりと喋れた。ああ、なるほど。少年期の体だからか。つまり、抜けた歯は乳歯。隙間は小さい。唇でそこからの息漏れを防げるほどに。
素早くは言葉を発せられはしないが、ゆっくりであれば他愛ない。痛みがないということが大きく大きく働いていた。
輪の最前列の数人が私の傍に寄ってきて、まずは私を椅子ごと立て、そして、泣いて、許しを請ってきた。
そう。今のこの場の支配者は、恐怖を司る者は、主導権を持つ者は、私だ。
私は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、最初の仕事に取り掛かった。のたうち回る、騒がしい、この場の元支配者でリーダー格の少年の首を捕え、後ろから持ち上げるように締め上げた。
彼は泡を吹きながらぶらん、と気絶した。
はぁ……、何だか、なぁ……。余りにあっけない。あっけ無さ過ぎる……。弱い者苛めをしているようで、少し心が痛んだ。
私が窓まで歩いていこうとすると、私を遠巻きに囲う輪が割れる。そこを通って、カーテンを掴み、ビリリリリリリリリ!
引き千切り、それを持って中央へ戻る。
足元がねちょねちょしているような気がした。ああ、なるほど。あの少年、吐いて、流血して、漏らしていたか。
真っ赤な夕陽からそれが分かった。ベランダのない、上から下までの一枚窓から覗いだ外は、赤い夕陽色の空間がどこまでも広がっているだけだった。
まあ、思った通り、学校より外側は存在しない、か。
この学校は、真っ赤な夕焼け色の空間に校舎だけで浮遊する、そんな、非現実な場所だということなのだろう。
支配者へと成り変わっても、帰還が始まらない。なら、この教室から出ればいいのだろうか? どうなるか分かったものじゃないので窓の外へは行けない。だから、ガムテープ張りの扉から、廊下へと出ることを目指すことにした。
とはいえ、直ぐには無理だ。この場の変な同調圧力。彼らの間にあるルールの中に、外に出てはならないというのが含まれている筈だ。それが今も有効か無効かは分からない。
扉を抉じ開けるにしても、それなりの時間が必要だ。その間、私はほぼ無防備になる訳で……。
私がこの場の同調圧力の外にいる存在として振る舞っても問題ないか、確かめなくてはならない。この場の彼らにとって、支配者たる少年はルールですら無かったとしたら。私はその可能性に気付いているのだから。
足元のべたつきを不快に感じつつも、私は不満な顔をせず、笑いもしないようにした。無表情に徹した。
得体の知れない感じを常に出し続ける必要がある。この空間が、学校校舎だけで完結しているというのなら、私に逃げ場は無い。
作り出した、恐怖による支配を緩めるわけにはいかなかった。
気絶した彼の足の甲、損傷部から、膝にかけて、強く圧迫するようにカーテンで縛り、固定した。
やけに疲れた。
過集中の後遺症だろうか。体に入る力が弱くなってきている気がする。まどろみに似たものも感じる。眠ってしまいたい。このまま。
だが、それをすれば終わりだ。失敗に終わる。
意識を失ったら、私はきっと、始末される。自重などはない。私は今、恐怖の象徴なのだから。今すぐ本当なら、彼らは私という脅威を消し去りたいと思っているだろうから。
ただ、次なる攻撃対象にされないために、彼らは自衛しているだけ、だ。距離を取り、できる限り関与しないようにすることによる、消極的ながら、これだけ数がいるならそれなりに有効な手段である。
当然、最良の手段は、この場で、私を袋叩きにすること。最低数人、最悪数十人が犠牲になる。それでも、半分は残るだろう。そして、残った彼らは安寧を享受できる。
元支配者も、現在の脅威である私もいなければ、彼らは自由だ。
私は作業を終え、再び椅子に着く。
これは、敢えての行動。敵意が無いことの証明だ。むやみやたらに暴力を振り回しはしない、と。悪意や恐怖をぶつけたりはしない、と。
彼らは従うことに慣れている。なら、これで意味は伝わる筈だ。
彼らの目は、元支配者の少年が支配者であったときと何も変わっていないことに気付いた。こんなことになった、あの少年を誰一人助けに入らなかった。そして、私にも相変わらず、手を出す気配は無い。
彼らの目は、何を、見て、いる……。
そう意識したとき、ぞくり、とした。寒気がした。彼らがとても、冷たく、無機質に見えたから。それはさながら、指揮者を欠いてしまった精鋭軍のようであり、頭を無くした虚ろなロボットの残骸のようにも見えた。
彼らは、今のところ、脅威になりえない、とは分かるが、心は落ち着かない。心臓はばくばく高鳴るどころか、徐々に、平常よりも遅く遅く、小さく小さく弱まっていく。
体が酷く重く感じる。
息苦しい。
しかし、落ちていく拍動。視界がぼやける。首がもたげる。
しっかりしなくては。
そう思い、後ろへ片手を回して、首を握るように解そうとしたところで、私は、もはや、試練が私の負けで終わることになると確信することとなる。
べとりとした感触と、生暖かさ。
その正体は――――血。
真っ赤な血が、べとりと私の掌一面に付着していた。べとりとしたということは、出血から少し時間が経過しているということになる。
そうか。開幕で勝負はついていたのだ。
私の負け。
つまり、始めから、抵抗など、無為である。理不尽とは、そういうもの。そして、彼らは理解していたのだ。支配者たる少年を倒した地点の私は既に、新たな支配者として長い時間君臨していられない、ということを。勝手に時間切れで、元支配者の少年以外の誰も巻き込まず、自滅するかのように終わる、と。
そして、もう一つ。彼らが時折見せた怯えの目。それが特定の誰かに向いていなかった理由。それは、彼らは周囲の者たち、彼ら自身が所属する集団の者たちの目が、同調と相互監視の目が、怖かったからだ。
だから彼らは、何があっても、動かなかったのだ。それこそが、彼らの中のルールだったのだ。彼らの集団が、あのままであり続けることが。そして、その中で彼だけはその中にいつつも、そこから抜け出ていた。
彼らの本質を見抜けず、決めつけたかのように誤解し続けた私に、到底彼らのことをとよかく言う資格など無かったのだ。
どうして、気付けな、かっ……た……。
私の視界はそのまま、溶けるように歪み、黒く染まった。
駄目だったか……。意識がさっきよりはっきりし、寒気も無いということは、塔の頂上へ戻されたということだ。そう思って、ゆっくりと目を開ける。
すると、少年期の人形が、宙に浮かび、回転していた。ゆっくりと。それは徐々に加速していき、玉のようにしか見えないほど、素早く回転し、突如、二つに分かれた。
白い球と黒い球に。
その大きさは、元の半々というところだ。両方とも、大きさは同じ。
そして、白い球は、白い靄を纏う人形たちが集まる天秤の周囲へと飛んでいって、その輪に加わった。黒い球は、黒い靄を纏う人形たちが集まる天秤の周囲へと飛んでいって、その輪に加わった。
なるほど、引き分け、か。
答えは正しい。しかし、完解ではない、か。出した結論は正解だったが、途中脱落した。だから、か。
なら、あの教室からの脱出が、私があそこでやるべきことだったのだろう。で、あの流れなら確実に脱出はできていたが、頭が割れていたことによる出血多量で、タイムアップ。
頭が割れたのは、椅子ごと倒れたときか? それか、噛み付き反撃をしたときに既に割れかけていた頭がぱっくり割れたか? 起こしてもらって縄を解いてもらった前後に何かされたか?
そもそも、椅子ごと倒される展開になる前に、口だけで何とかするべきだったということか?
……。まあいい。
少年期の世界は最初、落とすつもりで挑戦したのだ。完全なる失敗でないのだから、十分だろう。
私は起き上がって、次の人形を選択する。
次はこれ、壮年期の人形。最後の、青年期の人形。これは何が来ようが消化試合にできる。間違いなく、私は正解し、終えるだろう。
私は青年期に位置しているだろうから。壮年というには体が軽く動き過ぎる。少年というには、肉体的能力が完成し過ぎている。
だからそう判断した。
ここまでの経験が、原始の世界での、籠の世界での苦難の経験が、青年期の肉体で得たもの、ということなのだから。
全ての人形の世界の中で最も私にとって、楽なはず。
全ての人形の世界を覗ける状態なのだから、覗いておくべきなのだ。半分以上終えても、この試練を私にぶつけた者の存在を色濃く想像できない、形にできていないのだから。
予想できれば、それが正確であれば、対処は容易い。どうしようもない力の差でもない限り。そして、今現在、それを振るわれていないことからして、相手が力押し系でないことは間違いない。
私は壮年期の人形を懐に入れ、天秤の白い靄側の皿へと向かった。