唯人天秤則 少年錘問 Ⅱ
当然、受け身など取れやしない……。
頭の側面を打ち付けたため、視界は歪んでいた。胸は打たなかったから息が苦しいということはなかったが、やけにもやもやと、噴き上がる気持ち悪さを感じていた。頭に損傷を負った可能性がある。とはいえ、このままでは確認することすらできない。私の口で、この縄を相手に解かさなければならなかったのだが……、ただ、状況を聞こうとしただけでこのざまだ。
「うわぁ、こいつ、わ・た・しぃ、なんて、女言葉使ってやがるぜ、ぷっ、はははは。気持ち悪ぃんだよぉう? なぁ」
周囲に同調を促すかのように、その少年は、横たわる私の上に、脇腹辺りに片足を立て、踏ん反り返っている。
そんな嘲笑も、少年の踏ん反り返った態度も、どうでもいい。唯、自身の愚かさに、私は怒りを感じていた。
いるではないか、場の支配者が……。
なら、さっきのは、どういうことだ……? どうしてこの少年に全ての怯えの視線が向けられていなかった?
受け身を取ることができなかった影響はあっさりと消えはしない。息が苦しい。視界の歪みはそう酷くはなかったようで収まってきた。
私に手を出した彼が、この子供たちの集団を牽引する者だろう。
彼を観察する。認識する。その特徴を、外見から探ろうとして、私は気付いた。
認識できない。
彼を一人の個性ある人間として、特徴ある、独自の名のある人間として、認識できない。特徴を彼に張り付けられない。
誰も彼もが、2通りにしか見えない。少年であるか、少女であるか。たったそれだけ。あと私自身を加え、3種類、か。
どうして、今までこんなことに気付かなかった?
この場に付いてすぐ、気付くべきことだったはずだ。これはおかしい、と。
一人一人をしっかりと認識できていない。ただの人の群れ、としか見えない。個人として、認識できていない。
それが現実だとすれば、異常でしかない。頭を打つ前からこのざまなのだから、私の頭が衝撃で混乱しているからというのが理由ではないことは分かる。
私はこの状況であって、落ち着いているのだから。
やはり、実感が沸かない、というのが大きいだろうが。痛みは相変わらず、無いのだから。
私の上に足を乗せている少年でさえ、少し離れて周囲を取り囲むように群がっている囲いの中の少年たちと、同じようにしか見えない。
これではまるで、私の視界に映る風景というより、心象風景だ。ただの幻でしかない。なぜこんなものを見せる? 何がさせたい?
最初から行動する自由を奪い、抵抗を許さず、状況の説明すらない。
こういった場合、ただ、見ていろ、味わえ、経験しろ、これを私に見せている者はきっと、これを通じて何かを感じて欲しいのだ。
行動を示すのではなく、心を、在り様を示す? だとして、何を示す? 態度か? 心境か? もっと分かりやすい、表情か? 対応か?
それとも、ただ、惨めに何もせずにひれ伏していろということか?
体感しているというより、唯、一人称視点で見せられているたけにしか思わないが。
いずれにせよ、これは私らしくない。ただ見ているだけなど。そんなことに意味はないのだから。
だから、抗ってみることにする。
どうせ痛みは、再現された幻のようなもので、ここから出た後には決して尾を引かない。それに、この世界での試練は落としてしまっても構わないと決めている。だからこれは、これらの人形の世界を用意した者の意図を深く覗き見るいい機会にできるだろう。上手くやれれば、だが。
再度、私は口を開く。
「何がどうなってるのか、こうなった理由を説明してくれない? 誰でもいいからさ。ほら、そこの君は? そこの君でもいいよ。あ、そうだ。つい今さっき、僕を蹴飛ばばした君、説明してくれないかな?」
僕は、むくりと顔だけ上げ、そう、大きめの声で、わざとらしく子供らしい口調を作って、頭を彼らに順に向けていって、そう言った。
痛みは気のせい。そう思っておけば、本当に気のせいのように和らぐ。そして、元からこの世界にいる者にとって、それは異常でしかない。
なら、どうすればいいか。簡単なことだ。自分を大きな化け物に、異常者に、不壊であるかのように、見せてやればいい。
私はある意味、私を演じている、ようなものだ。もう一人の私なら、どうするか。それを考え、なぞってきた筈だ。だから私にとって、模倣は、演技は、息を吸うようなもの。
揺るがない、不滅の反抗者。この場を支配する者であろうが、私を平伏させることはできない、と証明してやればいい。
私は目に力を込め、首を起こした。周囲を、ぎろり、と見渡す。ほら、どうだ。この目に恐れなど、微塵も籠もっていないということを。私のその目を直接支配者が見なくとも、周囲の者たちから間接的に、私が折れていないことを汲み取ることとなるだろう。
シュッ
風を切る音が聞こえる。
やはり、来たな。蹴りが。そうだろう。そうするだろう。この場の支配のほつれは、この場にいる私だ、なら、そうするしかないだろう。それも、怒りによって発作的にそう思ったなら、手近に済ませようと。そう、単調に動く。
この場の閉鎖が完全である故、選択肢は少ない。読むことは容易い。
向かってくる足を、意識して目で捉える。集中して、集中して。少々歪みが見られるが、それでも集中すれば、ある程度は抑えられる。
そうして、その足の、本来加速していくはずの動きは、限りなくスローになる。
思考が、加速する――――
上手くいった、か。半ば賭けではあったが。
支配者の少年の足は、サッカーボールキックの、一旦降り上げて降り下し始めて、蹴り上げに変わる少し前程度でほぼ、止まっていた。
数十秒くらいで漸く1ミリ程度動くくらいか。
過度の集中による、時間感覚の変化。私の元いた世界では、武術の超一流の達人たちしか扱えない技だ。意図的に自由自在に、となれば、だが。偶発的にであれば、経験する一般人もそれなりにいる程度のものだ。
異様に精神力次第であらゆる事柄のできるできないが大きく左右されるこの世界でなら、できる、とは思ったが、試す時間など無しでのぶっつけ本番で成功するとは。それも、体感で、目に映る動きがほぼ停止に近いくらいになるとは……。
やるときには絶対にできる、と思ってやっていたが、これは、賭けでなく、唯の無謀……だったのではないかと、今更ながら肝が冷えた。
私は危険に陥ったときの方が思考が回る。できることも、その幅がより広く、より無茶なことでもできるようになる。
だから、もしやと思ってその状況を無理やり作り出したのだ。危険のレベルを上げた。私の中の秤が反応するように。危険を認識するように。
さて、どうするか。そう考えるところであろうが、どうやら、思っていたよりもずっとずっと長いこと、考える時間はあるらしい。
先ずは、スローモーションを利用しての、回避に留まらない、頭に思い描いた反撃の動きの検証。念入りに数回、繰り返し動きを想像再現し、問題ないことを確認した。払う犠牲もあるのだが、それはもう仕方のないことだと割り切っていた。
それが終わっても、蹴り足の位置は漸く、蹴り上げに転じたか、というところ。ターゲットたる私までの距離は遠い遠い。それでも反撃のシミュレーションができていたのは、その蹴り足がどこを狙っているか、私は知っているから。
それは、口。
つまり、代償というのは、歯を失うことによる、程度は分からないがはっきり聞き取りやすい声で発音することが難しくなる、というものだ。
それが損傷や犠牲ではなく、代償であるといえる理由は、この後の展開に、私の声には新たな利用価値が生まれるからだ。
私の声は既に彼らに聞かせてある。だから、反撃によって支配者たる少年をその立ち位置から引き摺り降ろした後、私の声は、唯の交渉の道具ではなく、武器と化する。畏怖を抱かせる心的な武器として。
私が発した言葉であるということだけでなく、私の喋り方もその武器の一部分だ。私は難しい言い回しを使いがちだ。そして、その全てに意味と意図がある。つまり、言葉を、しっかりとした発音で発することができないと、十分な効果が出ない。
それをやり切るなら、どうしても、小難しい言い回しをしっかりと聞き取れるように発音できなくては話にならないのだ。
だが、私はそれをしないことにした。捨てていくと決めたのだ。代わりに得る為に。より確実にこの場を切り抜ける状態を。だから、代償なのだ。
それに、どうしても自身の声が必要な場面はとうに終えている。スローモーションに入る前、発した言葉がそれだ。支配者たる少年の行動を誘導する為に。怒りを誘発させ、単調な行動を取らせ、私の思った通りの行動を取らせる為のものだ。
そして、狙い通りになっている。蹴り足の着弾する場所は、私の口。横たわっている状態なのだ。だからこそ、選択肢に入る。生意気な口をきいたこの口が。横たわっている今なら、容易に届くのだ。労せず、それも、確実に当てられるのだ。
支配者たる少年は、微塵たりとも考えないのだろう。それが、誘いであることを。そもそも、どうして、何もできないであろう状態の者が、あんなにペラペラペラペラ、喋り散らすと思う? あんなにも偉そうに、余裕ぶって。
そんなもの、理由無しではあり得ないなんてことが、どうして、分からない……。
私にとって都合いいそれが、どうしてか、腹立たしかった。