唯人天秤則 幼年錘問 Ⅱ
「……」
音が薄れていく。
「…………」
徐々に狭く暗く、視界は閉じてい――――、揺れ、た?
はっ……!
私は気付いた。意識が落ちそうになっていたことに。うとうとしていたことに。だが……。どうして、戻ってこれた?
何かを感じて私は戻ってきた。一体何を?
焦点の合わない目を擦り、一度目を閉じる。そして、ゆっくりと開くと――――先ほど私に近づいてきていた幼児がそこには居た。
私の袖を掴んでいた。
どうすればいい……?
困惑と疑問。それが先ほどまでほぼ空白だった私の頭を占有する。
その幼児は私の裾をぎゅっと掴んで、嬉しそうに笑っている。何が楽しいのか、その意図は伺い知れない。私には、自身が幼児であったときの記憶は与えられていない。初めから、意識を持った、この世界にいる自分を意識したときから、私は、もう、大人の体、心、を持ち合わせていたのだから。
だから、分からない。
こういうときにどうすればいいのか。
私はだから、尋ねてみることにした。この目の前の幼児に。
言葉が分かるかどうかは、かなり際どい。私の記憶の中にある言語の中にこの幼児に通じるものがあるかは分からない。
そもそも、言葉が通じたとして。この幼児はそれを咀嚼できるのだろうか?
だが、取り敢えずは、試してみるべきだ。
難しい言葉は極力使わず、ゆっくりと、はっきりとした声で。
まずは、日本語でいってみよう。
「あひゃぁ(ねえねえ)」
……。私の口から出たのは、言葉にならない、唯の鳴き声でしかなかった……。そう。私自身が、喋れない年齢だったのだ。これでは、言葉によるコミュニケーションなど、どう足掻いても不可能だった……。
らしくない……。らしくない程に、追い詰められているのだ……。これでは、唯の、自滅ではないか……。
もう、今更止められはしない。それは不審だ。自然な流れでは無い。そういった変な空気が漂ってしまうと、幼児たちは機敏にそれを感じ取るに違いない。
変な空気の伝播と、それによる予測不能の事態。それが私には恐ろしかった。だから無理無理と思いつつも、無理やり続けるしかないのだった……。
「ひゃひゃぁ、あ、ひゃ、ひゃ、ひゃ、ひゃ(えっと、あ・い・う・え・お)……」
駄目だ……。あ、の音くらいしか、あ行が発音できない。
喜怒哀楽程度ですら、伝わっているかどうか怪しい……。敵意が無いことだけでも伝えられていれば……、泣き叫ばれたりはしない、筈、だが。
私は怖くて目を、ぎゅうっ、と閉じる。
っ!? これは、想定外だが、在り難い!
幼児はどうやら私のことをさらに気に入ったらしく、私の腕の裾から離れ、私に抱き着くようにしがみついていた。
まあだが、何がしたいのだ、こいつは?
まあ、先ほどより気に入られたのだ。良しとしよう。……何も進展してはいないが。まあ、嫌われて距離を取られたり、泣き叫ばれるよりはずっとまし。
不思議そうな顔をして、難しい顔をした私を幼児が見上げている。少しその顔には不満が浮かんでいるように見える。
遊んで欲しいということか? いや、少し違うな。さっきと同じ目だ。私の裾を掴んでいたときと同じ目。
何か反応しろ、楽しませろ、ということだろうか?
楽しませる、か。
会話でもできればそれなりにうまくやれる自信はあるのだが……。意思相通なら、この世界に来て、超常の者たちと散々やってきた。幼児一人程度どうということはない。
だが。私は喋れない。つまり、私の経験は活かせない……。
……。
いや……、待てよ。よくよく考えたら、別に、籠の世界以前の状況に戻っただけだ。私はこの世界に来て、最初から中盤辺りまで喋れなかったのだから。
よくよく考えてみるとそれでもなんとかなってきた。
では、そのときはどうした? どんな心境で、何を考えた? そして、どう対処した?
そうだ!
彼らは幼児。それでいて、喜怒哀楽は持ち合わせているが、複雑な意志疎通は叶わない。なら、単純なものこそ、有効。
「ひゃぅ、ひゃぁぁ!」
捻り出した策、私の百面相が面白かったのだろうか。幼児はご満悦であった。
そうして難局を一つ越え、少々心に余裕も生まれてきた。
そこで考える。
言葉を用いてのコミュニケーションよりも、文字を用いてのコミュニケーションの方が、難度は高い。だが、文字なら、今の私でも書けるのではないか?
そして。文字は通じない可能性が高いことも理解していた。
だが、それ以前に。ここには書くものが無い。絵を描いて意思疎通をすることをつい先ほど思いついたが、それは実行に移せないだろう。
会話はできない。言葉は使えない。絵も文字も使えない。
……絵文字?
ジェスチャー。反応。そうか!
思い立った私は、すぐに行動に移った。
トントン。
先ほどの幼児の肩をやさしく数回叩いた。さっきと同じように、主導権を奪われるとやりにくいからだ。だから先ほどとは別の幼児であり、おとなしそうで、尚且つ、私が叫んだときに泣いていなかった者を選んだ。
だが、それは悪手だった……。
幼児は、私の足にしがみついた。ご満悦であるようだが、それでは困る。だから私は幼児をやさしく慎重にひっぺがすことを試みる。だが……、
「あ゛ぁぁぁぁぁぁ!」
幼児は呻き声をあげた。それはとても大きくて、周囲に響き渡る。
私は焦って、すぐに幼児から手を放した。
だが、色々ともう手遅れだった。
本当に、本当に、私の取った行動は、愚かだった……。走るという、大雑把な動作すらあのざまだったのだ。繊細な力加減など、期待していいはずがなかった。
まして、相手も幼児。その皮膚感度は繊細だ。大人などよりもずっと。
実際のところ、過敏といえるほど繊細な場合と、ひどく無頓着な場合に分かれるのだが、この幼児の場合、前者であったらしい……。
涙の連鎖は止まらない。
「あぁぁぁぁんん、あぁぁぁぁぁん――」
「あぁー、あぁー、――――」
「あは、ひゃいい、ひゃいい、――――」
「ええええ、うぅふぅ、あああああん、――――」
「ああ、ああ、ああ、ああああああああああんんんん、――――」
「ひゃははは、はははは、ひゃあああい、――――」
「ええええええ、へぇえええええええん、ええ、ええ、えええええええぅぅ、――――」
泣き声のコーラス、再び。先ほどよりもその音量は凄まじい。そして、長い。いつ止むというのだ、これは……。
私は耳を塞ぎ、目を塞ぎ、蹲まった。目の前の幼児から目を放してしまい……。左手に、柔らかい何かに触れているような感覚を感じたがそれに構う余裕は無い。
それより、この怒号のような非難のような泣き声、どうすれば収まる……。私が何をしたとういうのだ……。ただ、少々うっとしかったから引きはがそうとしただけではないか。それも優しく、優しく……結果、優しくできていなかったようであるが……。
それでも、私にこんなに、こんなにされるほど、落ち度があったといえるのか? こんなもの、想定できるはずが……。できる、か。できなければならなかった。これくらい、これまでは想定できていた。
この肉体の年齢に引っ張られているということだろうか……。涙がやけにあっさり流れて、鼻水まで溢れ、止まらない。情けないな、私は……。今は幼児の肉体であるとはいえ、私の精神は変わらず、大人、だ。この部屋の中のどの者よりも。
手は何も思いつかない。唯、こうやって、情けなく、無力に、嵐が過ぎるのを待つしか――――ゴリィィィィッ!
やけに肉々しい、嫌な音が間延びするかのように私の耳に響いた。
私は恐る恐る、頭を上げる。震えながら。涙が、鼻水が、垂れ出してくる。
周囲の騒音が止んだ。私の体は硬直する。目を疑う。流れる、体感する時間が間延びするかのように遅くなる。
潤んだ視界に映ったのは、目の前の、泣かせてしまった幼児が、私に文字通り、牙を立てている光景。
私の左手の前腕外側に、幼児の歯が、生えそろっている乳歯が、しっかりと食い込んでいるのだった。
ぽ・と・り。ぽ・と・り。
やけにゆっくりと流れ落ちる血の流れから、私の体が危険を訴えていることに気付いた。
痛みはまだ、やってこない……。痛みの想像より、恐怖の想像が、頭を占めているからだろう、きっと……。
幼児たちが、幼児の姿をしているからといって、彼らが振るう力が幼児並みであるなんて、甘く見ていたのだ、私は……。
どうしようもない。
そう思ったときだろうか。今更、痛みが押し寄せてきた。
泣き声の群れが波のように私に押し寄せてくる。止む気配なく押し寄せてくる。私はそれに徐々に徐々に、押し潰されていく。
鋭く刺された、熱く熱せられるような、何か零れ失っていくような焦燥。そして、喪失感。
これが、痛み、か……。
それが本当に痛みかどうかは怪しいところであったが、その鮮明さから、私はそう判断した。
それに頭の中の大半が費やせられていた。対処策など考える余裕もなく、残った僅かな領域は、唯、私の何が悪かったのというのだ、こんなことになるなんてどう予期しろというのだ、そもそも何もしないなんて選択肢は与えられておらず、時間の制限がどれほどの長さか見当もつかない。と、いった泣き事に費やされていた。
ここで何をすればいいかすら分からない。なんで、私はこんなことをしているのだ……。思考の順序立てが、崩れ気味になって、いる……。
そんな意味のない思索を続ける私は、体力を消耗していくばかり。息もだいぶ、苦しくなってきた。それに加え、目眩と吐き気も……。
私は、歪み、霞む視界の中、依然として、獣のように私の左手前腕外部に歯を喰い込ませている幼児を見た。
幼児と私の視線が合う。
霞んでいる筈だ。見えない筈だ。でも、その幼児の瞳がはっきりとはっきりと見えた。その幼児の瞳は、濁りなく、穢れなく、透き通っていた。硝子玉のように、水晶玉のように、どこまでも。だが……、そこに私の姿は移っていなかった。
そして、世界は白く白く、霞んで、私はその白の中に溶けていった。
決めつけに……よる想定……の、甘……さ。その……積み……重ね、で、私……は、そうやって……、失敗し、た……。