書海 地上 終末の荒野 Ⅰ
靄の悪魔はすっと、右手を私の方に差し出してきた。すると、その手の上に、紫色の水晶球が、もわり、と出現して浮かび上がり、
「手に取るがいい。褒美だ」
私の胸元の前で止まる。私はそれを手に取った。
「それは本物だよ。そして、君が私によってこれから受けることになる苦難に対する報酬の一部先払いでもある」
そう言われても返す気にはなれなかった。先へ進むにはこれは間違い無く必要になるのだから。四つ目の世界。つまり、この世界に再び足を踏み入れる為に必要になるのだから。
ここから一度出て、再び足を踏み入れる。そうなるだと、論理的にも直感的にも私は判断した。
最初の問いの答えともそれは関係する。凡そ、半分までは分かっていた。それは、四つの世界の上下関係、序列、順序。唯、この世界と、訪れていないもう一つの世界。その序列の上下が分からない。他の二つの上に来ることは分かっているが。
二択。
つまりまだ、正解は確実では無い。一つ目の世界、原始の世界。二つ目の世界、籠の世界。三つ目の世界、この書界? いや、書海か? そして、未だ足を踏み入れていない四つ目の世界。
【"紫色の水晶球(真)"を手に入れた】
ならこれだけでは無い筈だ。何もない空間に収納し、再び悪魔と向かい合う。
「もう一つの球は渡してくれないのか? 必要になるのだろう、これから。さあ、さあ!」
私はそう、悪魔に対してにやりと言い放ち、手を差し出す。よこせ、と。
「ああ。いいだろう。だが、その前に、君の喉に潜むそれには消えて貰わなくてはな」
嫌な予感がして距離を取ろうとしたが、悪魔の動作は早かった。悪魔の右手の先から紫色の閃光が真っ直ぐ走り、私の喉を打ち抜いた。辛うじて見えるかどうか、という速度だった……。
だが、何ともない。
喉に風穴が空いた訳でもない。痛みも無い。そう。何とも無いのだ……。
「一体何がしたい……」
呆れてしまい、怒る気にもなれなかった。
「暫し待って貰おう。直に分かる。ああ、言い忘れていた。少々苦しいだろうが、害は無い。そう保障しよう」
悪魔がそう言うだけで、それ以上何も言わなかった。そのまま数分が経過したが、何も起こらない。数十分が経過していた。
「何も起こらないではないか!」
私は叫んだ。だが、悪魔は何も言わない。走り去ってやろうかどうか悩んだが、結局私はそこで踏み留まった。
そうして、体感で一時間程度経過したところで異変が現れ始めた。それは、もう少し前から始まっていた。唯、私がそれを異変と気付けなかったのだ。
その発生源は、先ほど貫かれた、喉。少しずつ少しずつ、喉に、熱さと冷たさが交互に押し寄せてくる。そして、その上下の温度の差はどんどん大きくなっていき――――これは明らかに不味い。そう思い悪魔に問い質そうとしたところで、
「うっ……、ごほぉぉぉぉ、げほっ、ごほっ、う……、がはぁ、ぶほっ、ごほっ、がぁ……、な、……を、し、……た」
何をした。そんな短い言葉すら満足に出せず、言葉と共に苦しみと吐瀉物を勢いよく吐き出した。その量はきっと、バケツ一杯分程度は優にあったかと思う。
私はそれを確認し、感嘆するでもなく、怒りを発するのでもなく、嫌悪するでもなく、靄の悪魔に殴りかかるでもなく、愕然とするでもなく、冷静になって、尋ねた。その痛みは急速に引いていったから。そして何より、
「な、……だ、こ、れ、は……」
吐き出された、まるで生物のように蠢くそれが何であるか、気になって仕方がなかった。それが何か知ることより、未知のままであることのほうが怖い。ただそれだけのことだ。
私の目前には、赤黒かったり、黄色かったりする血や胃液のヘドロ溜まりとともに、虹色の神々しい光を放つ粘り気のある、蠢く糸の束が散らばっていたのだから。
悪魔は私の吐き出した塊に手を翳し、それらを念力のような何かで一纏めにし、何もない空間にすっと仕舞った。
仕舞い終わったところでやっと、待ちに待った答えを提示する。
「君を操ろうとした者の仕込んだ呪いだ。それを解いた。そしてそれを仕組んだのは、君をその旅路に駆り立てた者でもある」
「え……?」
頭が強く殴られたような感覚とともに、私の顔の穴という穴から、純白の白い光の靄が、すうっと出て、霧散していった。
幻影、では、無い……。私……から、何か、が……、失われ……た、の……か? 自身の中の原動力を喪失したかのような感覚に陥った私は、その場に両膝をついた。自分が自分でないような感覚。この世界に最初に降り立って暫くして自覚した感覚と酷似している。
だが、あの時はこれ程までの虚無感は無かった。悲しくて不安で、自分の存在が朧ろに思えただけだった。
そのときとの違い。それは、失う前のことを憶えている、ということ。
失うということとは、こういうことなのか……。
「疑いもせず、信じるのか? まあ、君の直感は君と契約した者と違い、君には嘘をつかないのだから、当然と言えば当然か。少しばかり時間を上げよう。頭の中の整理でもしながら落ち着くといい。君に掛かった意識操作は消えた。さて、君はそれでも前へ進むのかな?」
何か言っているようだが、投げかけられた言葉は左から右へ、抜けていく……だけ。頭にはその言葉は記憶された、というのに。処理されて……いないのだ。読みもしない……のに、ペンを走らせた……、メモ書きでしか……、ない……。
気力が……、抜けていく……。迸るかのような熱い思いが、前へ進むという意思が、ああ、私には果たさなくてはならない、使命が、あると、いう……のに……。
両膝に続いて、両手までも地面に着く。そのまま崩れ落ちてしまいたい。そう思えてしまう……。
だが、そうしては……ならない。私の直感が……告げて……いる。そして、私の……感情も、何処か……そう思って……いる。何故……だ? 何……故……。
使命……、あぁ、そうだった……。だが……、何だった……のだろう、か……。
……。
使命?
脳裏に浮かんだその言葉は強く私を掻き乱す。再励起される思考。繰り返され、反響するように強く大きく荒波を立てる、その二文字の言葉。
使命。
使命だ、使命。
再生される記憶。この世界で心動かされた場面が再生され、そのときの熱量が、甦る。
私にはやらなくてはならないことがある。これまで犠牲にしてきた者たちの為にも、そしてその中で何より、私に全てを託してくれた彼の為に!
「ほう、もう、立ち上がる、か。やはり君には未だ、試すだけの価値はあるのだ。ふはははは、ふはあはははははははは!」
再び立ち上がった私は、しっかり地面を踏み締め、悪魔を見据えた。
こいつは、知っているのだ。私の知らない何かを。そしてそれは、絶対に知っておかなければならないこと。間違い無い。
ならば、
「お前は、何だ?」
まずそこから始めなくてはなるまい。
悪魔はじっくりと、私の思考を読み取っているようだ。流石に一言だけそう言っても意味は伝わらない。だがそれでも問題は無いのだ。疑問に感じれば、こいつは私の思考を読む。だから思い浮かべればいい。それが最も、齟齬なく意図を伝える方法となる。
「今はまだ、言うつもりは無い。だが、君が私の与える苦難の半分を越え、再びこの地に足を踏み入れたとき、その機会を与えよう。というのも、君は未だ、私に挑むには至らない。まだ、私に挑むに値する価値はない。答えを、真理を、理を知らない君には、未だ、託せない。とはいえ、資質は有る。最初の質問の答えこそ、その理、資格にあたる」
とはいえ、私の頭には、こいつの回りくどく、意味深な言い回しの全てを処理するだけの余裕は脳内に無い。
旅の最初から今に至るまでの色々なことが未だぐるぐる頭の中で回ってる。それに加え、新たな情報が加わり、それを受けて新たに生まれた感情も混ざり、様々な感情が闇鍋のように混ざり合っており、酷い気分だった。
これまで私が手にしてきた情報の真偽。それが曖昧になってしまった。ものによっては一つ変わるだけで、全ての前提が崩れてしまうというのに……。
あの神を名乗る者が信じるに値しないのは当然として。目の前のこいつは、信じていい……のか? そして何より、もう一人の私についての情報は?
もう一人の私が、彼自身の意志で私に全てを私に託してくれたこと。それは本当なのか?
あぁ、これだ……。これこそ、私が今、崩れてしまってもいいと思うほど消沈している原因だ。全ての前提はそこにあるのだから。
それでもこいつが現在進行形で話していることについていけているのは、言葉と共に表示される文字あってのもの。もうそれも限界に近い……。
「きつそうだな。少々展開に無理があったか。だから最後まで素直に誘導に乗って貰いたかったのだが。まあ、ある意味予想以上のものを見せてくれたのだから良しとしよう。さあ、では眠るがいい」
すると、私はもう立っていられなかった。強烈な眠気が押し寄せる。暗示の類か? 依然頭の中は思考の渦。だから分かっていても抗えない。
「目を覚ますと私はいない。次に君が向かうべき台座にはもう球は嵌めておいた。ではまた、会おうではないか。ふははははは、ふははははははは」
背を向けて、立ち去っていく……。数歩進んで、悪魔は霧散するように消えた。
「ま、……て」
地に這いつくばりながら、私は絞り出すように声を出し、届かぬ手を伸ばしたが、届く筈も……無……く……。
最後に何か文字が見えたような気がしたが、それが何かは定かではない。そこで私の意識は途切れた……。