書海 地下塔 書架環 Ⅰ
そこは、外から見たよりも広い空間だった。
今私が立っている、支えの構造が無いにも関わらず、落ちずに浮いているかのように見える薄い透明な硝子のような床。透明な一枚の板のようにも見える。半径30メートル程度、厚みは1センチ程度だろうか? 私がその上で足踏みしてもびくともせず、音すら出さない。
その周囲は壁面が広がっている。上にも下にも、吹き抜けたかのような空間が、円柱状の壁面が延々と広がっているのだ。
上方向は白く眩しく、下方向は黒く暗い。無風で無臭で湿気が無く、熱くも寒くも無いというのは変わりない。だが雰囲気は随分違う。
先ほどまでの場所が何処かの古代の遺跡風だったのに対し、ここは……、どう言えばいいのか。中世的でもあり近代的でもある。
壁面は唯の壁ではなく、中世的な図書館の書架と蔵書から成っているのも大きな特徴だろう。
つまりここは、円筒状に聳え立つ、上下の底が無く、果てしなく続いているように思えるような広大な書架なのだ。
上から降り注ぐ、優しい白い光のお蔭で、周囲の様子は十分に見える。
禄に装飾も無いにも関わらず、荘厳な雰囲気を醸し出している場所のようだ。それでいて、何かいるような気配は微塵も無い。
だからここは最終目的地では無いのは明らか。だが、看板は無く、順路は不明。それに、見える形で先に続く道は見当たらない。
光が天から差していることと、木でできた書架とその蔵書が一切の臭いを発していなことと、無音であること、そして何より、私が弓矢を使ったことによる傷跡がこの空間内には無い。
そのことから、この場所には何やらの仕掛けがあることは間違いない。これまで通ってきた場所と同様に。
後ろを向く。
私が入ってきた場所だけ書架は抜けており、通路のようになっていた。
唯一見える形で存在している道は、私が今この空間に入ってくるときに通った道だ。私の放った弓によって粉砕された背後の壁の穴と、崩落した瓦礫が散りばめられた、エメラルドブルーの液溜まりが見える。
この空間の外側、前に私がいた部屋の壁の瓦礫は、一切こちら側へは入ってきていない。僅かな砂粒すら。
何か特殊な力が働いているかのように。水辺がこんなに近くにあるのに、湿気は相変わらず感じない。そういった、管理がなされているのだろう。壁に穴が空こうと関係ない、ということだ。
仕掛けがこれだけであればいいのだが……、まあそうはいかないだろう。先へ進む道が見当たらないのだから。だから最低でも一つ、まだ何か、ある。
本棚が無い部分は、私が吹き飛ばした部分、つまり、入口だけ。とはいえ、本が飛び散っていたり、本や本棚の断片が転がっているわけでもない。
つまり、私は、本棚が無い、ただ塞がっていた部分の壁面を打ち抜いただけ、ということ。あまりにも都合良く、その部分にだけ本棚が存在していなかった、ということになる。それは、荷重を考えるとあり得ない構造。この円筒状の空間全体に言えることだが……。
となると――――、嫌な考えが頭の中で纏まっていく……。
まるで、何処かへ誘導されていくのと共に、自身のソースを浪費させられているかのような気が……。
少しばかり怖くなった。
削られているのか、と……。この先に待つ者に対峙するまでに、私はどれだけ消耗させられる……?
別に寒くもないというのに、つん、と、鳥肌が立った。
ここで立ち止まっていたくはない。
そう無理やり結論つけた私は、順路を探し始める。やはり、上方向に進むべきだろうか? 順路やヒントを示す看板一つも無いが、まずできそうなことからやっていくべきだろう。
ん?
もやっとした、白い光を放つ、サッカーボール大の球が、私の目の前を浮上していくのが見えた。
その理由についてはたった今、検討がついた。私が立つ床。そこに答えがあるようだ。黄色い稲光のような幾何学的な模様、ある種の電子回路に似たものが、半透明な床の上にはいつの間にか浮かび上がっていた。
で、そこから、もわんとした光の球が、次々生み出され、浮かんでいっているのだ。
周囲が先ほどまでよりも明るくなっていく。その行方を目で追っていくと――――、凡そ50メートル程度上の地点だろうか? 何やら、色のある、そう、黒い墨のような靄が水中で拡散していくような様の、ある程度の厚さがある層が存在しているように見える。その上は暗くなっており、見えないような?
そこに触れた球は、シャボン玉のように、ぱん、と弾け、消える。
あの黒い墨のようなもやが何なのかは、今の地点では分かりそうにない。威圧感などは感じないが、時折上を見上げて警戒しておいたほうがいいかも知れない。
だがこれでともかく、探索範囲は大分限定されたとも見れるだろう。
そう考えられることができたのは、あの現象の意味が少しばかり分かったかのような気がしたからだ。
私がここに入って時間差で明るくなったのは、本が痛まないように、劣化しないようにするための処理なのだろう。光による劣化というのは、本を劣化させる。
湿気にしても、温度にしても、空気の流れにしても、そうだ。それらが、一定で、止まっているかのように、一定に保たれている理由も、本の安定保存だとすれば?
なら、先へ進む為の手掛かりは、これらの書架の本、か?
そこまで考えが至ったところだった。
だが、なら、この床の下の空間はどうして見える形になっている? 見上げるのを止め、今度は見下ろす。文様の下の風景を。
闇が広がっていて、あまり先までは見えないが、上方向と同じように、本棚が広がっている。上と同様、どこまで続いているのかは全く分からない。
そんな感じで下を見ていると、床に描かれた文様の一部に、こんなものが含まれているのを私は見つけた。
【↑ 書架環 B3F 第一段 ↓】
それは、床一面の紋様の中央部に存在していた。幾何学模様の淵に彩られた文字列。それが今しがた浮かんだのか、前から浮かんでいたが私が気付かなかったのかは定かでは無いが……。
楽観は止すことにした。これはきっと、私がこの場所でも誘導に乗って動いているという証なのだろう。今浮かんだのだ、きっと。
先ほどまでとは違い、震えるのではなく、気を引き締める。怯えてなんていられないのだから。
つまり、探索範囲は、この場所から上に50メートル程度と、下にどれ位か分からないが広がってしまったことになる。
表示を見つつ、考える。
この文字は地面の位置を示しているのだろう。左端と右端の矢印はきっと、上にも下にもこの床が、何だかの処理をすれば動くということを示しているのだろう。
これだけの数の本棚の本の全てを虱潰しに探すのでは、きりが無い。どうにかして、調べる範囲を絞りたいところだが、残念ながらその方法は今のところ思いつかない。
なら、床の動かし方でも探ってみることにしよう。
そして、表示の近くに操作の為の部分が無いかを探し始めた。
……。色々試したのだが、床の昇降の方法は見つからなかった。仕方無く私は、入口付近の本棚から、適当に一冊、本を取り出し、開いた。
……、読めない。
偶々手に取ったその本は、私の知らない文字で終始書かれていた。部分的に読める部分すら無い。
本棚にその本を戻さず、傍に置いた。そして、次の本を取り出す。
……、読めない。
一冊目の上に重ねて置く。そして、三冊目、四冊目、五冊目、……。どれもこれも、そこに書いてある何かは微塵も読めない。
それでも私は諦めず、手に届く範囲の棚の本を全て確認する。後半の方は、ざぁぁぁぁっ、とぱらぱら目を通し、その辺に投げ捨てるように次々と、苛立ちを募らせながら。
そうして私は――――手の届く範囲の本棚全てを、空にした。だが私は、それでも立ち止まらなかった。いや違う。立ち止まるのが怖かったのだ。どうしてそうなのかも分からないのに……。
そして、
ガッ!
衝動に駆り立てられるように、私は入口付近から、本棚をよじ昇り始めた。
ガッ、キッ、キシッ、ガシッ、バサァァァ、――――、バサバサバサバサバサ! キッ、ギシッ、ガシッ、ギシッ、ガシッ、バサァァァァ!
上方向の棚から邪魔な本共を下へ払い落しつつ、どんどん上へ上がってきて、もう、床面は大分小さくなっていた。今は大体、黒い靄の浮かぶ地点と透明な床との中間地点辺りにいるのだろう。
無理だと思えば、一度戻ればいい。飛び降りればいいのだ。これだけ本を落としても床に損傷は見られない。だからきっと、私が飛び降りても問題は無いだろう。
この高さから飛び降りても怪我なんてしないと思っていれば、本当にしないのだから。そういう世界なのだ、ここは。
そう何となく、こっちの世界の物理法則というか、精神の作用する物理法則の具合を私は受け入れつつあった。
可笑しい……。何故だ? 何故、あの黒い靄が、これ以上、近くならないのだ……?
あれから随分と高く登ってきている筈だった。遥か下の床面は、もう、数メートル程度の径にしか見えない……。だが、靄の天井との距離は、縮まっていないかのように思えてならない……。
だからだろうか。私は手を止めた。そしてふと、思い立った。
それでいいのか?
順路から逸れていっているのではないか。そう思えてならない。相手の意図を読み違えている。
意図。
私は相手のそれに振り回されてきた。最初の闇の中から、籠の世界、そしてここまで。
最初に立ち戻る。
どうして、飛ばした矢は消滅していた? 瓦礫は無かった? そしてどうして、上から落とした本は、床面に散らばっていられている?
ああ、答えは、順路は、最初からあったのだ。ここへ私を誘いこんだ者が私にさせていることは一貫している。そう。それは、徒労。
だから私は、
スッ。
両手を本棚から放し、後ろに倒れ込むかのように、飛び降りた。
ブゥオオオオオオオオオオオオオ――――、
どんどん強くなり、流れていく延々と続く本棚の風景。
建物数十階分の高さはあっただろう。床面に着くまではそれなりに時間が掛かった。風圧もそれなりにあった。そして、
ブゥゥ、フゥゥ、ホワァァ、ホワァァァン、
予想通り、床面すれすれで速度はほぼ0となり、足を下に頭を上にする姿勢に体位を整えられて、
スタッ!
片足からふわっと着地した。
床に再び回路のような幾何学模様が現れ、周囲が明るくなったところで、自身の思いつきに従い、私は自身が入ってきた入口の真反対の方向の本棚へと向かって歩いていき、その前で立ち止まった。
これが答えだ。正答ではない別解かも知れないが、間違い無く。
私は、片手で軽く、その本棚を引いた。
本棚は、さも当然のように、手前へと私に引かれていく。丁度、後ろの出入り口部分の、本棚が存在しない部分の大きさと全く同じ大きさの分だけ、本棚は抜けるように、あっさりと、私の手に引かれたのだ。
足で進路上の邪魔な本を払い、本棚を抜き出し、私の入ってきた入口方向へと思いっきり、投げ飛ばす。
バキバキバキバキバキバキ、バララララ。
本棚は低空飛行しながら、エメラルドブルーの液体の上の岩石片にぶち当たり木っ端微塵に砕け散りながら、私の視界から消えていく。
それは、この場所に来て、すかっとした、初めての瞬間だった。
思わず口元が綻んだ。
踵を返し、その目線の先にある、新たに姿を現した通路へと私は足を踏み入れた。
右に左に曲がる、薄暗くも真っ暗ではない通路を進みながら、思い返す。
先へ進むのは、たった一つの思いつきでいい。簡単だ。しかし、気付かなければ、どこまでも回り道をするはめになる。徒労を巻き起こす道程。それがこの先に待つ者の狙い。
だからこそ、回り道はさせても、誘導する相手を先に進ませなくてはならない。完全な停滞はさせてはならない。それでは相手を消耗させるという狙いを果たせない。だからこそ、用意された順路の標識。
行き止まりにはならないが、回り道になるように、ヒントは転がっている。謎解きに挑んではいけない。簡単な気付き一つで、どうとでもなるのだから。まともに挑んでは、結局、掌の上。
そうしていると、通路の終わりが見えた。薄暗くなっているようである。暗緑色の煉瓦の壁面が見える。
そして、その先から、何者かの気配が。何も見えないが、いる。そう直感した。それが、この場所で私を玩んでいたいた者であると。
私は強く拳を握り締め、歯をきりりと鳴らし、その先へと足を踏み入れた。




