書海 エントランス Ⅰ
コンコンコンコン……。
私の足音が、その狭い空間で鳴り響く。もう数時程度、ずっと同じ風景の中を私は歩かされていた。1辺2メートルほどの正方形の空間面が、真っ直ぐ下に向かって続いているのだ。その空間の幅と階段の横幅は同じ。階段の高さと奥行きはおよそ50センチというところだ。
つまり、かなりしんどい。高さがあり、私の足跡が響くのは当然のことだった。周囲一帯は、セメントのようなものでできているようであることが、見て触った感じから分かる。
機械か何かで均一で整えたように、周囲の壁には一切の局面はなく、真っ直ぐ。どこまでも直線ばっている。継ぎ目はない。
天井は、階段の段の終わりと終わりを繋いでできる面に平行になっている。下へと続いていく、45度の傾斜面。
左右の壁も、今まで階段を下っていて、幅はずっと均一。
早く終わってくれ、と、何度か走り降りては、疲れて立ち止まり、風景が変わらないことにがっくりして、ゆっくりと再び歩き出す。それの繰り返しだ。
これだけ進んでいることもあり、何も掴まず引き返す気にはなれない。行き止まりでも見えてくれない限り、私は唯、下り続けることしかできない。
後ろを振り向いてみる。
もう地上部は全く見えなくなっていた。
これは幾ら何でも、可笑しい……。
同じ風景が延々と続き、時間間隔は狂う。だが、降りた段数は軽く万を越えていたかと思う。終わりが無い。そう思えてしまった。そうなると当然、足は止まる。
精神が疲れ、それに引き摺られるかのように肉体も疲れを感じ始める。
そう思った私は、階段を下るのを止め、登り始めた。
少しずつ軽くなっていく自身の足取りから、もっと早いことそうすれば良かったと後悔する。速度を早め、私はひたすらに駆け上がり、思っていたよりもずっとずっと短い時間で再び地上に辿り着いた。
はぁ、はぁ、はぁ……。
息が上がっていた。何ともいえない気分だ。達成感は無い。唯、あの延々と続く同じ風景の連鎖から逃れられた、としか……。
ボトボトボト……。
汗が滝のように流れ落ち、足元に水溜まりを形成する。
私は倒れ込むように、
ビチャァァ!
その上にそのまま体を寝かしつけた。
無限に繰り返すかのような下り階段。だが、逆走し登ってみると、降りた歩数より降りるのに掛かった時間よりずっと少ない歩数で時間で戻ってこれた。
ということは、これは私をここへ誘った者の悪戯の類か? それとも、何か仕掛けでもあったのだろうか。いや……、そうは考えたく無い。私は二度とあの中へ引き返していきたいとは思えない。
私はのそりと、体を起こした。水溜まりは消えており、私の服は、無風であるにも関わらず、乾いていた。
まさか、見間違っているなんてことは? そう思い、再び木の立て札を確認した。
【→"bibliotheca tes sapiens"】
そんな筈は無い、か。先ほど見たときと何も変わらない。
立て札の裏側も見てみた。裏側には何も書いていない。周囲を調べてみたが、他に何も見当たらない。
この指示通りに進めば、"人類図書館"とやらに着くはずだろう……。もしかして、看板の向きが変わっている? そう思って、看板を回そうとしたが、びくりとも動かない。
あの階段の先、矢印の指し示す先に、人類図書館……。あるのか、本当に……。一度は否定した考えを私は再考し始めていた。そうして思う。あんな曖昧な方向指示じゃなくて、矢印とセットで、目的地となる場所までの距離も書いておいて欲しかっ――――あっ……。そうか、そういうことか……。
私は自身の勘違いに気付く。だが、全く嬉しくない。それで先に進めると確信しているにも関わらず。
私は下り階段を越えて、その先、その足場の淵に立ち、
コトッ!
前へと足を踏み出した。そう。そこには見えない床があったのだ。
この経路に気付けたということは、唯、ここに誘った者に私が踊らされていたということに私自身で気付けただけということ。こんな単純な手にすぐに気付けず、嵌められたことに間違いないのだ。それも、悪意や敵意でなく、悪戯の類だ、これは……。馬鹿馬鹿しい……。こんなことに何の意味があるのだ。
そんなことを考えながら私はその上を真っ直ぐ進む。時折階段の前にあったような看板が生えており、経路を矢印で指し示していた。左へ右へ前へ上へ下へと進んでいき、
【"↓書海"】
そのように書いてある看板が出てきて、道が途切れていた。その下に地面は見えないが、私は躊躇することなく飛び降りた。
ダッ、ビュゥゥゥゥゥゥゥゥ――――スタッ!
私はあっさりと着地した。地面は黒く、柔らかい。岸の上から見下ろした暗黒そのものの色で暗さで、周囲の様子をこんな風に視認できているのは不思議だった。視程は数十メートルはある。
振り返って上を見上げると、せいぜい高さは建物一階分程度であるようだ。そして、目前には黒土の荒野が広がっていた。
メキメキメキ、ザッ!
私は突然したその物音と、突如目前に現れた何かから距離を取った。だがそれは、唯の看板だった。看板が生えてきただけなのだ。そこに書かれていたのは先ほどまでと同じような、矢印での順路の表示。
それは私の右側正面から生えていた。
【"↓←"】
私は看板の方を向いた。
左へ行って、真っ直ぐ落ちろ。そういうことだろうか?
黒い、ふんわりとした地面の上を私は歩き出し、また崖になっている場所に差し掛かった。当然そのまま進んで落ち、着地する。
今度も高低差は先ほどと同じ程度だった。そして、私の着地点のすぐ左に生えてきた看板を見ると、
【"→書海"】
新たな場所の名が書かれていた。数十メートル離れて正面に見えるのは、一面に広がる岩壁。
私はそこへ向かって歩いていった。すると、岩壁の一部に、周囲と色の違う、地面に接した半径2メートル程度の楕円状の明茶色の場所があることに気付いた。矢印の指し示す先とそこは一致する。
なら、
コンコン。
やはり、拳でつついてみると妙に脆そうな音がした。なので――――、
ガラァァァン。
思いっきり蹴り抜いた。
そして、岩壁を穿つように空いている、真っ黒な洞穴へと、私は足を踏み入れていった。
洞穴の幅は先に進んでいくとどんどん狭くなり、ある一定の幅に収束した。私の身長よりも僅かばかり短い程度の隙間しか無く、体を曲げて何とか前へと進んでいた。
左に曲がったり、右に曲がったり。洞穴は長く、真っ暗で光なんてないものだから、ごつんごつんと、頭を度々ぶつけながら先へ進んでいく。
どういう訳か外よりも明るい。それはきっと、この周囲の明茶色の壁のせいだろう。壁自体が光を僅かに発しているのだ。それに加え、土の臭いはそうせず、湿気臭くなく、熱くもないのだからこれくらいの窮屈さは我慢しなければ……。
そうしていらいらしつつも、やっとのことでその入り組んだ通路とも言えない狭い空間を抜けた。
急に明るくなったかと思ったが、視程が短くなっている。そういう場所なのだろう。それか、この周囲の壁の材質がここから切り替わったからだろうか。見える範囲の壁面と地面には、黄土色の直方体の石材が敷き詰められて積み上げられていた。
周囲を探索した結果、そこは一辺10メートル程度の無駄に広い立方体の空間であるらしい。私の体の輪郭から10センチくらいの範囲だけは、蝋燭の火で照らされた場所のように仄明るく照らされている。その外側は真っ暗。
窮屈さなぞ、もう感じない。出入り口は、後ろと正面に一つずつ。正面の出入り口は、後ろの出入り口とは違い、縦長の長方形にくり抜かれていた。正面の出入り口の先は見えない。だが、行き止まりであるとは思えない。
相変わらず風の流れは微塵も無く、湿気臭くもなく、土臭くもない。取り敢えず、前へ続く通路へ私は足を踏み入れた。すると、
ゴォォォン!!
後ろから大きくて重々しい物音がした。振り返って確認しに行ってみると、狭く長い隙間へと続く口が、一枚の白い石壁で塞がれてしまっていた。押してもびくりとも動かない。
どちらにせよ、前へ進むことに変わりはない。
流石に気付く。これは誘導だ。何者かが私を何処かへ誘っているのだ。きっとそれは庭園の天井に文字を表示させた者と同一だろう。
では、あのクイズの答えも考えておかなくてはなるまい。だが、片手間で構わないだろう。あのクイズが本命では無いだろう。目的はきっと、私を誘う為。私はその場で立ち止まって考え込んだりはせず、先へ進んだ。