神秘庭園 尊重台座先末端 Ⅰ
私は庭園の噴水の淵で頭を抱えて座り込んでいた。
次の世界へ繋がる台座へ嵌める球は持っている。持ってはいるのだ。だが……真っ二つ……のまま。それらは面で合わせてもくっつくことは無かった。そのまま台座に置いてみたが、続く道は現れない。役割を果たさないのだ。
地面に置いた二つの緑の水晶半球を見下ろし、溜め息をつく。
駄目元で、"蛍色の液体"のハンカチへの補充のついでに半球の断面を蛍色の液体に漬けてくっつかないか試してみたり、水に漬けてみたり、花壇の土の中に埋めてみたり、庭園の草木を千切ってすり下ろしてみたりと、何かが糊の役割を果たしてくれないものかと試してみた。
だが、無駄だった。
諦める訳にもいかず、私は足掻く。何か見落としがあるはずだ。きっと、ほんの些細な、下手すれば、たった一単語の、一文字の見落としかもしれない。
あの珠をくっつけるための手段が記されていないか、本を開き、頁を捲りつつ、目を細めて私は確認したが……、やはり手掛かりは見つからない。新たな記述も増えていない。元のままだ。
とはいえ、別の発見があったのだから、その行為は無駄にはならなかった。矢のストック数がどういう訳か5本になっていたことを発見したのは幸いだったが。私は放った矢を回収していない筈だが。だが、矢が知らないうちにストックされていたなんてことは、水晶半球の問題と比べれば些細なことだ。
バサッ。
本を傍に放り置き、
コトッ、コトッ、コトッ、コトッ、ズッ、ズッ、ズッ、ズッ、ズサッ。
花壇の土の上にうつ伏せに寝そべった。大きな木の幹に頭を向けて。
何か手はある筈だ、考えろ。自身にわざわざ言い聞かせる。時間の感覚が緩慢になり、特に何もすることがないように思えてきてしまう。だらけてしまう。神経の糸が緩んでしまう。それを私は恐れていた。
長過ぎる平穏は、休息は、歩む足を止める。再び動き出す際には大きな熱が必要になる。そんな風に心が鈍重になるだけならまだいい。時にはそれは、人を腐らせる。苦難に、苦行に、耐えられなくなるのだ。意志を持ち続けられなくなるのだ。そういうものらしい。
私の記憶の中にあった、訓戒みたいなものだ。そういったものがそれなりにたくさんある。以前の私が、今の私のために用意してくれておいた、見えない武器。
だが、それは、行動の道筋が方向性が、先へ進むということから逸れていないか、熱が冷めてきていないかを示唆してくれている道標のようにも感じられる。
そうだった。私はこのまま時間が物事を解決してくれる、もしくは、時間が展開を進めてくれるなんて甘い期待を持つべきではないのだ。
自分がそう流されつつあったこと、そして、それではいけないと目的に立ち戻れた私はゆっくり体を起こそうとして、
……ん?
プラネタリウムのような偽の星空に、白く文字が浮かんでいることに気付いた。以前からあったのか、今浮かんだものなのか。少なくとも、今までは気付かなかった。
視線を動かしてみる。文字は追尾してこない。つまり、瞳に直接焼きついたり映し出されたりしているものではない。
人外の者たちが表示する文字とは違う。
では、あれは一体、誰が……?
目を細めてそれに目を通す。
【行き詰ったお前に、一度限りだが、手を差し伸べよう。だが、無条件にとはいかぬ。次の問いを解き、答えを刻め。】
読み終わるとそれらは消え、続きが浮かんできた。
【四つの世界を繋ぐ空間である神秘の庭園。四つの世界には序列がある。上位世界と下位世界。四層からなる世界。その序列を記述せよ。】
そうして、私が最後まで読み終えたところで文字は消えた。これで終わりらしい。
私はむくり、と立ち上がった。
これまでには無かったことだ、これは。あの神を名乗る者でない何者かが干渉してきた。神を名乗る者なら、こんな回りくどい方法は取らないだろう。本から干渉してくるか、私をあの暗黒の空間の中へ飛ばすかするだろう。
だからこれは別の何かによる干渉だ。私が読み終わると同時に消えたことからして、あれらの文は、他ならぬ私に宛てられたメッセージだ。
ならば、乗ってやろう。
私はそう考え込むことも無く、提示されたその謎に挑むことにした。私が行き詰まっているのは間違い無いのだから。
とはいえ、どう答えろというのだろうか……。答えが思いつかないとか、そういう次元の話ではない。解答を相手に提示する方法が分からない。記述せよ、とあることからどこかに答えを刻めばいいのだろう。そこまでは分かる。
だが、何に刻めばいい? 記せばいい? 回答枠の広さは? 記したものを相手に提示する方法は? ただ翳せばいいのか? 回答できる回数は何回だ? と、きりがない。
……。とりあえず答えを探す。後のことはそれから考えればいいのだ。私はすっと起き上がった。
四つの世界の序列。四つの世界。四つの世界というと、この庭園と接続している、各台座の先の世界だ。私が足を踏み入れたのは、二つ。
赤の水晶球を置くことで開かれた、"physiological"の台座の先に広がっていた、原始の箱庭の世界。
青の水晶球を置くことで開かれた、"safety"の台座の先に広がっていた、閉じた籠の世界。
踏み入れていないのも二つ。
緑の水晶球さえなんとか一つにできれば道が開けそうな、"love/belongingness"の台座の先の世界。
あと一つは何だったか……。確か、紫色の窪みがある台座だった。刻まれていた文字は思い出せない。
だから私は、紫の窪みのある台座のある場所へと向かった。
私は紫の窪みのある台座であり、"esteem"という文字が刻まれている台座の向こう岸に立っていた……。
何故か台座には球が嵌っていたからだ。紫色の水晶球が。前確認したときはこんなもの嵌っていなかったというのに……。誘われている。そう何となく感じて向こう岸に辿り着いた私は、
【→"bibliotheca tes sapiens"】
そんな、目の前の木の標識と、その先に見える下り階段を戸惑いつつ見つめている。
"人類図書館"。私の世界のある亡国の滅びた言葉通りだとすると、そういう意味になる。降りてこい、とでも言われているようだ。
どうせ他に行くべきところは無いのだ。だから進むことは決まっている。決まっているのだ。だが……、"人類図書館"。その言葉から連想される強烈なヴィジョンが私の足を鈍らせる。
並ぶ人の剥製と臓物、人として生まれ出る前の様々な段階の嬰児が液体に漬かった標本、様々な死因の死体。様々な疫病の、人体の病状標本。そんな、以前の私のいた世界に存在したらしい悪趣味な博物館のことが思い起こされてしまったのだ。
うっ……。
ゴホォォォォ……。
私は結局堪えきれなかった。嫌悪感を足場の先の闇に吐き出した。口元を"蛍色の液体"のハンカチで拭う。少しばかり心が、その場に縛られていた足が軽くなった気がした。
だから私はそのまま止まらず階段へと足を踏み入れた。勢いに任せないとまた歩みを止めてしまいそうだったから。
先は暗く、どこまで続いているかは全く分からない。後ろを振り向くと――
ピキピキピキ、パリン……。
台座に安置されていた紫の水晶球は突如砕け散り、その破片は霧のように消え去るのを見た。
当然、台座とこの岸を繋ぐ道も消えただろう。つまりもう、引き返すという選択肢は無い。ここで何か掴む以外に無いのだ。
すると、足にはもはや僅かな重みすら感じなくなった。選択肢が一本道になったことで、迷いが晴れたからだ。私はゆっくりと一段ずつ、その階段を下り始めた。