精神唯存揺篭 浮遊島群 幻想残滓灰岩島 灰黒の悪魔 Ⅱ
白羽根から距離を取るため、私は、駆ける。
パサパサパサパサ――――
角ばった灰を踏み締める乾いた音が鳴り響く。そして、
ゴォオオオオオオオオオオオ――――
地響きが始まった。
振り向くと、白羽根は黒羽根を抱き寄せ、濃厚なキスを始めていた。私と彼女たちの距離は100メートル程度まで開いていた。
そうして振り向いたまま走り続け、遠くなっていく彼女たちの体はやがて黒い光を発し始め、半径数十メートルもの、大きな大きな黒い光の柱となる。
ブゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!
それが止むと、足が八本揃い、彼女たちに似た裸体の乙女の上半身を口から生やした目の無い、灰色の血管を走らせた濁った水のような質感の巨大蛸がそこにはいた。
あれが、本当の彼女の姿、か。美しいものだ。たわわに実る胸元から、10代後半辺りだと推測される。そしてそれが、彼女が人を辞めた年齢。
私はこの世界において、彼女が悪魔に選定された理由を悟った。唯、彼女は、人類の中で最後の一人。核による、ほぼ同時の全滅の中の最後尾。それが彼女。
その巨大蛸の化生は私に襲い掛かれないでいる。足の半分が、それ自身の動きを阻害している。
そのうちの一本の中に、緑色の球が煌めいているのが見えた。本来あの大きさのものがこの距離からそうはっきり見える筈は無い。これこそ、白羽根が私に残した最後の手引き。
私が決めるのは、一発に全てを託すか、分散するか。分散するなら、何回分にそれぞれ何本配分するか。
答えはすぐさま決まった。
私は五本同時に、弦で引けるだけ引き、同時に、その足に向けて放った。そして伏せ、頭を目線を少しだけ上げ、結末を見届ける。
あっけないものだ。あれほどの巨体であろうと、弱点を衝けさえすればこんなものか。
矢束が纏った雷と烈風が、彼女の軟体状の体の私から見て左側半分、彼女本体が生えている口側を残して吹き飛ばし、そこで消えた。その体の特質によって相殺されたのだ。だから収束と拡散の風は発生しなかった。
だが、それでかえって活きるものもあったのだ。放った矢そのものが今回のそれに当たる。矢束に込められた速度は残ったままであり、それらが狙い通りに核を打ち抜いたのだ。
大量の灰煙と轟音と共に横たわった、口部から生えた彼女本体は、黒色の炎と煙を上げて燃え始めた。
あれを回収すれば終わり。
私は、彼女の一本だけ前に出ていた、核を含んでいた触手があった辺りへ向かってゆっくり歩き始めた。
彼女の核たる緑の水晶球は真っ二つに砕けて転がっていた。そこに向けて、彼女の化生体の残骸から垂れる黒い液体が零れていく。灰に沁み込む速度より、横への拡散速度の方が早いらしい。あれだけの巨体に詰まっていた液体のほぼ全てが流れ出していっているなら当然、か。
焦ることは無い。それに余り、あの液体に直接触れたくは無い。球を拾うときに少々付着する位は仕方無いとしても。だから少し待つことにした。余韻に浸りたかったというのもあったかも知れない。
私は立ち止まり、その様子を見ていた。私が思っていたよりもその黒い液体は量があったらしい。
血のように少しばかりの粘り気もあったらしく、灰の地面にそれらの液体が引いていくと共に、緑の水晶球の半分が、それに持っていかれるように奥へ、そう、化生体の側へと流れて……、
不味い、不味い、不味いぃいいいっ!
どうして気付かなかった?
核たる水晶球を綺麗に半分に割る、矢による物理的破砕? そんなこと、有り得ない。これはどう見ても、粉砕による断面ではない。切断によるそれだ。そしてこの場合は、予め用意された切れ目によるそれだ。
だから、これは彼女にとって致命傷に成り得ない。その切断面は彼女にとって当たり前に存在する、切断面であり接合面なのだから。つまり、そこで、彼女の魂は二つに分かれ、二つに分かれた体に宿る、そのための切断面、意図的に作り出せる切断面なのだから。
私の矢は透かされたのだ。白羽根と黒羽根の統合体。なら、頭は二人よりもずっと切れる筈。この結果は予見できていなくてはならなかった。そしてこれだけヒントが転がされていて気付けないとは……。
私は急いで駆けだした。その半球を追い掛けるように。その途中にあった、中に小さな白い羽根が入った緑の水晶半球を拾い上げて回収し、ストックし、速度を上げる。
《[ "緑の水晶半球(白羽根)" を手に入れた]》
まだ終わってなどいなかったのだ。
私が斃したのは、半分だけ。白羽根側の核だけ。間違い無く、あれに取り込まれた側の核は黒羽根側だ。
その証拠に、黒い血、黒い炎と煙……。こんなに分かりやすく、答えは提示されていたではないか……。
まだ彼女たちを私は半分しか終わらせていない、と。
私は自分の不甲斐なさに歯を軋らせつつ、その場で立ち止まった。私はそれでも至って冷静であったのだから。
間に合わなかったのだ。これ以上突っ込むのは危険になったと判断したのだ。黒羽根側の緑の水晶半球が、化生体の残骸に到達し、生えてきた黒い血管のようなものが表面に巻き付き、取り込み始めたのだから。
半球は黒い光を発し始めていた。そして、それは巨大な黒い光の柱と成り、そこから現れたものは、足が四本しかない不完全な蛸の化生だった。その目の無い、先ほどまでの大きさの半分程度の蛸の口から生えていたのは黒羽根だった。
裸体かつ、両手と頭がぶらりと垂れ、光の無い、意志無き焦点の合わない目をした黒羽根。起きる気配は無い。ならこの状態は何だ? どうして化生部分は……ああ、自律しているのか。悪魔としての力が彼女の支配下から離れて暴走しているのか。
核たる彼女に意識は無いのだから、頭脳戦にはならないだろう。単純な、物理的な戦いになる。
だが……、放つべき矢は、彼女の後ろの地面に存在している。拾おうにも間に合わない。この地面の灰を矢の代わりに打つことはできない。
動きが明らかに鈍い、この立ち上がっていない状態なら、矢の一撃で何とでもなるのに……。
何であれば、まともに前へ飛ばせる? 効く? 通る?
いや、矢自体が力を発揮しなくてもいい。兎に角、あの化生体部分を吹き飛ばせばいい。身体を失えば、命は、核は、体から抜け落ちる。この片割れと同――――ああ、そうか、これだ。これを矢の代わりにすればいい。
私は先ほど拾い上げた核の片割れを取り出し、弓を出して弦に引っ掛け、限界まで引いて気付く。
半分吹き飛ばすだけで矢七本を束ねる必要があった。これで足りるのか……。ここにきて不安になった私の手は震え出す。
鈍重な動きではあるが、化生が動き出し、こちらへと歩を進め始めたのだから。先ほどまでとは違い、重い威圧がその方向から降りかかってくる。
吹雪の中にいるかのように寒い……。逆らってはいけない。そんな気がする。それは危険だと、本能が警鐘を鳴らす。
何で、こんなことになる……。あと一歩だろうが。放てさえすれば、何とか……なるのか?
そうやって自身の行動を疑ってしまうともう動けない。どうせ、限界まで弦を引いて放つしか打つ手は無いのに、それができない……。
こんな、莫迦、な……。
流れ出した涙を振り払おうと顔を振る。すると、
半球が白い光を放ち始め、
『安心して下さい。安堵して下さい。貴方は唯、信じて放つだけでいいんです。絶対っ、届かせますから』
そう聞こえた気がした。
弦に引っ掛け引いていた緑の水晶半球は、一枚の大判の白羽根に変化していた。私は弦と矢から手を放しながら、心の中で呟く。
君のおかげだ。君は私の心に、一欠片ではあるが安心を届けてくれた。そしてそれは正に、希望の光だった。それは黒羽根のお蔭で際立った。私は前向きな意味での安心を知ることができた。究極の安心の形、それは希望。だから、ありがとう。そして、さようなら。私は君たちを、忘れない。
白羽根の矢が、化生に到達する。そして、周囲一帯は無音になり、真っ白な光に包まれる。巻き込みの風も吹き飛ばしの風も、消滅破壊も発生しなかった。
ただ、光が止んで消えると、一枚の大判の白羽根と黒羽根が落ちているだけだった。私がそれを拾い上げると、
『ありがとうございました。この先が貴方にとって善き旅路でありますように』
『あ、ありがと……。餞別に祈願したげるわ。この先貴方にとって善き旅路でありますように』
そう、二人の声が聞こえたような気がして、私は白い光に包まれ、私は籠の世界の外、庭園の"safety"の台座の先に立っていた。二つの緑の水晶半球と一冊の本を持って。
一度ストックし、庭園中央の噴水の傍まで歩いていき、私はそこに腰掛け先ほどストックした品を出す。
水晶半球のどちらにも羽根は入っていなかった。彼女たちが完全に消滅した証なのだろう。
《[ "緑の水晶半球" を2つ手に入れた]》
そして、残りはこの、白黒の格子模様の表紙の本。虹色の文字で書かれたタイトルは、"不滅の栄光"という意味。
《[ "immortal glory" を手に入れた]》
開いてみると、……。頁は一枚しか無かった。それ以外の頁は幻想らしい。
その残った一枚の頁の表には、先ほどの白羽根の最後の言葉が。裏面には黒羽根の言葉が刻まれていた。
恨みつらみも、追加のメッセージも無い、同じように安牌を取っているところがとても彼女たちらしい。私はそれをそっと閉じた。涙が、止まらなかった。