精神唯存揺篭 基底 閉環籠姫心中 Ⅴ
「【ねえ、どんな気分? また声出せるようにしてあげたから、貴方の口で、声で、答えて頂戴。】」
それが先ほどの彼女の目の点滅の意味らしい。一瞬で、予備動作無しで、私に力を及ぼすことが、彼女にはできるのだ……。化け物め……。
その蛸の化生は笑わない。抑揚の無い、濁った、歪んだノイズのような声で、私に尋ねる。字幕のおかげで何を言っているかは分かる。もうその声は、私には意味のあるまともなものには聞こえなかった。唯の呻きの音にしか……。
「一周回って冷静になったよ。で、だ。一つ尋ねたい」
「【……。構わないわよ。】」
……。何だ、今の意味深な間は。気付かれていないでくれ……。こっちはばれないでくれ。読み取らないでくれ。選びださないでくれ。頼む……。
今、私が心に抱く本心を見せたくはなかった。それはとても、醜い気持ち。私とそれとの間に一線を引いた、私とそれとを別視するという、ある種の拒絶判断。
だからそれを隠すように、浅い質問を頭に浮かべ、口にしようとすると、
【『どうして私に声を与えたのだ? 化け物。』よ、ね。】
私が言葉を発する前にそれは、そう、読み取り、選び出し、言葉にした……。私が抱いた忌避感を最も強く示すその言葉を。
【その前に、その魔法がどういうものかを教える必要があるわ。貴方に掛けたその魔法は、以前掛けたのと同じものよ。声を発せない喉で、口で、心で、貴方が私に向かって言いたいことが、そのまま出てくる魔法。】」
なら、どうして……。私はまだ、口を開いていないだろう? それに、幾重にもごまかしの別の思考を脳に浮かべていたではないか。どうして、読まれたくないその部分を私は読まれた……?
これまではわざとしなかったのか。だが、そうとは到底思えない……。
「【口にしなくとも、その声は私に聞こえるの。そういう魔法。これまでとは違うわよ。貴方が心で囁いたこと全て。そう。全てが、為す術なく出てくるの。貴方、無垢だけど、賢いんだもの。冷酷なんだもの。溺れないんだもの。それでいて、そんなことを悪意とも思わず、心に浮かべる。平気な顔をして、偽りの言葉を口にする。貴方の中のそれのせいかしら?】
「何が言いたい!」
「【最初見たときから気になっていたの、ふふふふふふ。あれだけ、揺さぶったのに、空っぽ。何も溢れてこない。それでいて、咄嗟に、異質な行動を取れる貴方。気になってまた覗いてみると、空っぽ。貴方の咄嗟の行動ってね、老練で狡猾な類なの。貴方の貴方らしくない部分と言えばいいのかしら? だから私は、貴方という器自体に何かある、と考えたの。】」
話が怪しげな方向へ向かっていく。
「【ふふふふふ、お小水をかけるなんて、よく、思いついて、実行できたものね。貴方自身もそうできたことに、やった後になって驚いていたみたいだし。】」
表情を浮かべて、抑揚をつけて、悪魔少女は、ノイズが掛かる前の声で、そうやって、振り返りながら、思い返しながら、とても人間らしく、笑った。
だが、それは一時的なもの。すぐさま声にノイズが掛かり、表情は消える。
「【私は気付いたの。貴方はどこか、おかしいって。貴方には、背景になる経験が無い。でも、判断の基準は、狡猾な老人くらいに秀でている。まるで、空っぽの人形に、知識だけ詰め込んだみたい。だって貴方、どんな無茶でも、躊躇しないでしょ? それこそ、自分が壊れるようなことであっても。そんなのね、貴方が自分を自分と思っていないから、できること。貴方には無いの? 安心っていうものが。安全っていうものが。保身っていうものが。……。あらそう。無いのね。】」
どんどん話が長くなる……。そして、話は一方的に進んでいく。
だが、今ので分かった。読めるのは、それが読もうとしたときだけ。常時読心状態では無いのだ。彼女が聞こうとしたときだけ、私の心の声はそれに拾われるのだ。
悪魔は油断している。気付いていない。よく考えると、当たり前のことかもしれない。悪魔の周囲には、人は、意志を持ち対峙する者は、私以外いない。
私は考え過ぎたのだ。ただ、素直にぶつけてやればいい。
「ははっははは、はははははは、ははははははあっはああああ、ははははははは――」
私は笑い始めた。狂ったように、何がそんなに楽しいのかという位に、笑った。だが、本当に楽しい。それは愉悦だ。答えに私は辿り着いた。
きっと、悪魔からすれば、私は、きっと、きっと、狂っているとしか見えないだろう。役割を与えられているだけのこの悪魔には、読めた答えの意味が分からない。何を躊躇していたのだ、私は。彼女の言う通り、ここで躊躇しないのが、私だ。
余韻を、空気を葬り去りかねない、切り札。今切るべきだ。私は自身の彼女への同情含む感情を、理解を、そして、直前まで心に抱いていた感情を、一旦全て捨てた。
そして、新たに構築する。
感情は捨てても情報は残る。どこまでも俯瞰的な、第三者的な視点で残された情報を元に、私は動き出す。
私の武器。それは、切り替えの早さ。思い切りの良さ。そして、躊躇の無さ。
「ははははは、君は愚かだな。無様だな。見ていて滑稽だ。もう堪えられない、ははははは――――」
その脆い心、砕いてやる。私はぎろり、と彼女を見据え、嗤った。
「可哀想に」
私はそうぼそりと呟く。浮かべるのは、普通の人であれば、彼女の境遇を見て知って、感じるであろう典型的感情。無責任で無関係だからこその、拒絶の意味も込めた憐み。
「【もう……、やめてぇぇぇぇ!!】」
メキメキメキメキ、ムチミチチッ!
彼女は周囲の壁面に向けて触手を振るう。
ゴォォォォォォォ、ガラララララララ、ズゥゥゥゥン……。
崩れ落ちてくる岩。その中には一際大きく、私の方へ向かって飛んでくるものもある。だが私は一切の回避行動を取らない。
何故なら、
ブシュゥ、ガッ、バコン!
彼女が全て弾いてくれるから。
私はにやりと口を歪めつつ、また、嗤った。
「【っ!! どうして? どうしてよ……。】」
彼女は蛸の口から生えたまま、私に近づき、私の腰辺りに裸のまましがみつき、今にも泣きそうな目をして、そう言って、私を見る。
「放せ」
私は冷たくそう言い放つ。
「【わかったわ……。これで、いいかしら?】」
彼女はしゅんとした表情でそう言う。そして、
「【足りないのね、これでは……。分かったわ。誠意を見せる。】」
触手のうちの一本を振り上げ、降り下し、
スパァ、プシュゥゥウウウウウ!
巨大蛸の筒状の口を根元から切断する。切断面から黒いヘドロを撒き散らしながら
ブチュッ、ドサッ。
彼女は、ある種簀巻きになった状態でその場に転がった。
ザァァァァァァァァ……。
そして、その生ものの筒と無貌の蛸が塵となって消える。
露わになった彼女は、人間の状態に戻っていた。服は纏っておらず、皮膚の色も目の色も人のものに戻っていた。
そしてその場に、私の方に体を向けて彼女は座り込んだ。
90度くらい足を開いた状態で、両足を曲げて両膝を立て、その上に両肘を置いて、両手を力無く垂らしている。そして首をもたげ、光を失った目で私を無表情で見ている。
私も彼女に合わせて座り込んだ。
そんな彼女の見えてはいけない部分には、一際濃い暗黒の靄が纏わりついている。
そんなすぐ傍の彼女からは、灰の匂いがした。この灰の匂いこそが、彼女の本来の匂い。添加されていない状態の自然な匂いであるらしい。
「君がまた意志を持って何かし始める前に、畳んでしまうことにしよう。君という存在の真実を、私は君に付きつける。そうすることで君は崩れ落ちるだろう。だが、止めない。止めてやらない。私は君を壊す。そう決めた。もうくだらないままごとは終わりだ」
そして、彼女から数センチの距離まですり寄って、
「君と君の妹。君たちは一つ。分かれてなどいない。君たちは二つ合わせて、一人の人間だったのだ」
「【……。そうね、そうだったわね。ああ、あぁぁ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――!】」
ゴォオオオオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――
そうして洞窟全体が大きく音を立てて揺れ始め、轟音と彼女のつんざくような叫び声は耳を塞いでいても大きくなっていく。
これは幻。だから、崩れはしない。ただ、消えるだけだ。彼女はこの幻をもう、維持できない。
そうして、私の予想通り、周囲の風景は一度消え、新たな景色が現れる。