第六話 「宿」
門から一直線に伸びる大通りは、町の中心街のようだった。通りは生活の拠点にもなっているようで、多くの生活雑貨や食料品が露天に並んでいる。俺達も街の人々にまぎれるように散策を開始した。
しかし、旅人は部外者であることに間違いはなく、どうしようもなく目立っているようだ。街の人々は俺達のほうを珍しげに観察してきている。もっとも、特に話しかけもせず興味もないようにすぐに視線をそらしてゆくのが常であったが。
「俺たち目立っていないか?」
「しょうがないわよ。オウスの街では信徒の証を皆つけているから、部外者はどうしても目立ってしまうわ。それにドラゴンをつれた旅人なんてそうそう居るものじゃないと思うし」
俺は改めて周囲を見直し、町の住民達が一様に白い布を頭に巻いているのを確認した。服装自体も派手なものはなく、皆一様に慎ましやかな服装をしている。街の住人が白い布を巻いているとすれば、紺のジャージ姿で街を歩く自分が大層目立つことも合点がいった。
「じゃあこれを売ったお金でとりあえず布でも買う?」
「やめておけ。信仰心のない信仰ほど、こやつ等の気に障るものもあるまい」
「賛成ね。余計なことはせず、とにかく早めに宿でも探して引っ込んだほうが良いと思うわ」
グリとテフィから苦言が入る。無難にすごすための一案だったが、確かに薮蛇になる可能性が高いのも事実だ。もし仮に信徒であることの確認をされれば一発で危険人物か要注意人物に指定されてしまう。
そもそもこの街で白い布を買う行為自体が違反行為になる可能性だってあるのだ。宗教色の強い街であれば、信仰の証を安易に購入させないように徹底している可能性は高いだろう。
「おいガイドさん。ここって『人情あふれる宗教都市』じゃなかったのかよ」
「さっき名前を上げた他の街に比べれば、ね。雄太はみたところ色もお金も知り尽くした年代ってわけでもなさそうだし、いきなり他の街に行っても右往左往した挙句に路肩で干からびるのがオチよ。幸いこの街は他の街に比べれば治安がいいんだから、こっちの地方の文化に慣れるにはもってこいだと思ってね。それに雄太、隠してるみたいだけどあんた旅慣れしてないでしょ?」
テフィの問いに俺は思わず体を震わせる。慌ててテフィを見直すと、そこには呆れたように笑う妖精がいた。
「ほらね。っていうか、会ったときからそうじゃないかとは思っていたけど・・・・・・雄太ってわかりやすいわよね」
「素直ないい子だ」
「やめてっ! グリのフォローが凄く辛いから!」
目の幅涙で訴える俺にテフィは手をたたき仕切り直してみせる。
「あーはいはい。とにかくっ、この街で観光ついでに練習することが大事だと思うのよ。グリも人間について興味がありそうだし、明日あたりから街を見学がてら2人でブラブラしてみるのもいいんじゃない?」
「あれ、テフィはこないのか?」
「あー、うん。私はねー。あんまりこの街に妖精が飛び回るのはよろしくないのよ。それに個人的な目的が他にひとつあって、そっちが終わったら一緒に回れると思う」
ごめんね、とテフィは顔の前で両手を合わせた。
俺はテフィの発言で気になったことをそのままたずねる。
「妖精にこの街が危ないのか?」
「危ないっていう噂なだけで、本当のところはわからないの。そもそもこの街は以前妖精がたくさんいたんだけど、最近は私みたいな変わり者しか訪れないって聞くし。うん、そうね。今は姿を消しているけど、これも絶対的ではないから。できれば早くどっか宿にでも入りたいかな」
あやふやなコメントだったが、状況としては気ままに歩けるようなものではないらしい。
俺はそこまで考えると、まずは宿賃を支払うために肩に担いだ角の束を売却する先を見つけるために店を捜すことにした。金がなければ宿もない。無常な話である。
ぶらぶらと散策するように街を歩き、ようやく目当てらしき店が見えた。店の軒先にはいくつかの武具と生活用品が置かれており、店の中からは剣を腰に差す旅人らしき集団が出てきている。それぞれが白い布を携帯している様子もない。旅人専用、というわけではないが対応してくれそうな店の可能性が高いだろう。
「あの店にしよう」
「なるほど、旅人用のギルドね。買い取りもしているっていう話を聞いたことあるからちょうど良いかもね。あ、でもグリ、あんたは中に入ったら喋っちゃ駄目よ。私も極力黙ってるから」
「なんで?」
「人語を話すドラゴンの話なんて御伽噺でしか聞いたことないもの。この国で一番有名な竜騎士の乗るドラゴンだって、ガーガー吼えているだけって聞くわ。そんな中ただの旅人が言葉を話すドラゴンなんて連れていたら、根掘り葉掘り聞かれるのがオチよ」
「むぅ、では我に程度が低い真似をしろと?」
「安全に旅を進めるためよ。もし知能が高いドラゴンだってばれたら、監禁されて自由に慣行なんかできないわよ?」
「あ、それならもう手遅れかも。俺とグリ門番のおっちゃんと話しちゃったもん」
「げ」
女性らしからぬ濁音が洩れた。
「そう考えると尚のこと黙ってたほうがよさそうだな。我とてこの街を見学せずに離れるのは心外だ」
「そうだな。それに門番のおっちゃんにも『騒ぎは起こすな』っていわれているし。グリ、悪いけどお願いできるか?」
「うむ」
「いやいや、手遅れかもしれないんだから早く出て行ったほうがいいかもよ?」
妖精が慌てて俺とグリの妥結を止めに掛かる。おそらくテフィのいうことのほうが間違いく安全だ。俺はグリの貴重性を知らなかったし、グリも気にせず振舞っていたわけで、そんなとびっきり珍しい噂はそれこそ蜘蛛の巣の如く広がっていくだろう。
しかし、しかしである。
俺の当初の目的は街で人間に会うことだ。人並みの生活に触れて、異世界にきた非現実感から開放されることだ。
この街に人間が居て話ができるチャンスがある。心落ち着ける布団も料理されたご飯もあり、観光もできてさらに文明的な生活に戻れる機会なのに、それらをみすみす見逃して再び草原と森の世界に戻るのは―――とても残念なことだ。
いってしまえば勿体無い、そして口惜しいことではないだろうか。
今回のことは俺とグリの自業自得の結果だが、一息つけて目的を達成できる目の前にあるのに見逃すのは嫌だ。
そんなわけで。
「俺は是非この街の文化を建築学的見地から美術論を交えつつ、国史論を用いて判断したいんだ」
「我は人間のもつ大衆の迎合性が食文化にいかに多大な影響を与え、いかなる進化を遂げたかを観察したい」
「観光と味めぐりがやりたいってことね?」
「はい」
そんなあっさりまとめられると身も蓋もない。
「もうしょうがないなぁ。でも逃げる準備だけは怠らないでね」
「もちろん。グリ、しっかりと無言を貫いてくれ」
「承知した」
かたく約束を取り交わし、店へと足を向ける。
俺はゆっくりと戸口を押し開け、ギルドらしき店に入る。一階は酒場になっていた。他に客は居ないようで、石造りのためか薄暗い店内となっている。いくつかのテーブルとマスターらしき人の前に10人ほどかけられるカウンターがあるだけだ。
贔屓目に見ても活気があるとはいいがたい。
「あの、ここって物品の買取ってやってますか?」
質問を投げかける俺にカウンターの向こうに居る男が答える。俺の容姿をじろりと見つめてきた。口髭を生やし、黒いシャツに鼠色のエプロンをつけている壮年の男だ。
「いらっしゃい。おうよ、見たところ・・・・・・いや初めて見る格好だな。あんたも冒険者かい?」
「冒険者と言うか旅人と言うか。そこらへんです」
「ふんまぁいいがね。買取ね、勿論大丈夫だ。売りたい品はその肩に担いでいる骨かい?」
はい、と答え雄太はカウンターの上に担いでいた束を置いた。ひときわ大きい乾いた音がしたが、特に崩れる様子はない。それを確認し骨の横にそえるように、腰に巻いていた肉の袋をおいた。
「いくらになりますかね?」
「ちょっと待ってろ・・・・・・。うむ、三叉牛の角と肉だな。しかし、えらい量だな。お前さん一人で狩ったのか?」
「いえ、こいつがいるんで。俺の相棒です」
俺はグリを見やり、再度視線をマスターに移す。
マスターはドラゴンに若干驚きながらも、顔の表情をすぐに戻し小さく呟いた。
「なるほど、お前さんはモンスターマスターか。ドラゴンをつれているなんてよっぽど手馴れているな」
「いえ、そういうわけでは。でもドラゴンってそんなに珍しいんですか」
「そもそも仔竜をつれているモンターマスター自体が珍しい。ドラゴンを連れている奴も珍しいが、大体は成竜を従えていることが多い。お前さんは殺されるの覚悟で竜の巣に忍び込んだりしたのか?」
「まさか。たまたま仲良くなったんですよ」
「・・・・・友人知人でもあるまいし、仲良くなるってのはおかしな表現だと思うがな。魔物だぞ?」
「こいつは頭もいいんです。な、グリ」
グリはしっかりと頷いた。いいつけは守ってくれているようだ。
「ところでこの街は初めてなんですけど、観光名所とかあります?」
ここで虚勢を張っても化けの皮がはがれるだけだ。いっそのこと無知を正直に教えを請うたほうがよっぽど良いだろう。
特に俺の問いに不快に思わなかったのか、マスターは鑑定を続けつつ、会話を続ける。
「そうか、この街は初めてか。どこから来たんだ?」
「東のほうです。遠い場所から東の森を抜けてやってきました」
「ふぅん、しかし森を抜けてオウスに来るとはな。あえて苦境を味わうこともないだろうに」
「若いころの苦労は買ってでもしろ、っていうでしょう? その教えに従ったまでです。まだまだペーペーの旅人ですけどね」
「ここらへんでは、蝕蛾の森を抜けられる奴をペーペーとは呼ばん。あまり過ぎた慎みは逆に他の冒険者の気に障ることもある、気をつけな」
「はい、ご忠告どうも」
「しかしドラゴンをつれるモンスターマスターがまだ在野にいるとはな。王国の飛竜部隊か傭兵団にでも入ったほうが実入りが良いだろうに」
「ああいうとこは自由がないじゃないですか。俺はとりあえず世界を回りたいんですよ」
「まぁ人それぞれ生き方はあるもんだが・・・・・・。しかしオウスに来たのは何でだ? お前さんは見たところ聖オウスの信仰者でもなさそうだが」
「たまたまですよ。森を抜けて身を休めようとしたら街が見えたので」
「なるほどな。っと、お待たせしたな。このくらいの品質になると街の相場はそうだな、角が一本6,000、肉がこの量だと45,000といったところか」
カウンター越しにマスターが値段を提示してくる。
そこであることに気づいた。
相場だ。
俺は貨幣価値も相場もわからない。
マスターはわかりやすく金額を提示してくれているのだが、俺はそれに応えられる知識がない。その6000が6000円なのか、6円なのかがわからない為、どうにも答えに窮するしかなかった。
「うむ、この値段では難しいか。そうだな、では全部ひっくるめて20万でどうだ」
俺の困った顔色が、提示された値段を渋っているようにみえたらしい。
マスターの言葉に俺は暗算で答えを出そうと必死に頭を回す。
「そうですね、ウーン。・・・・・・ちなみにこの街って宿の相場って幾らぐらいです?」
「宿ならうちの二階にある。うちの店なら素泊まりなら2500、飯付なら4000だ」
俺は貨幣価値を図るために質問を投げかけた。マスターの言葉で大体の貨幣価値を推察するに一泊の料金はどうやら元に居た世界とあまり変わらないようだ。ならば、20万というのは約20万円ほどということになる。
もし元の世界と他の滞在に必要な経費も同額だとすれば、少なくともこの街に滞在している間は生活に困らない金額だといえる。
加えてここで粘って別の店に行って価値を調べるのも気が進む話ではない。仮に料金でだまされていたとしても、20万円あれば、面の生活に問題がなければ特に気にすることはないとも判断できる。
「ではその値段で。あと宿を一泊取らせていただいても良いですか」
「毎度あり。だが、そっちの仔竜はモンスターだろう? 暴れたり壊すのはご法度だぞ」
「大丈夫ですよ。こいつこう見えておとなしいですから」
「うむ、まぁこれまでも大人しくしていたしな。だが少しでも他の客に迷惑をかけたり備品を壊したりしたらその時点で全額弁償の上出て行ってもらうからな」
「はい、いいです」
「よし、では鍵をとってくるからちょっと待ってな」
そういってマスターは店の奥に引っ込んだ。マスターの姿が消えるのを待っていたように、テフィが俺に声をかける。俺は姿が見えないテフィにだけ話すよう、小声でそれに答えた。
「宿はここにするの?」
「とりあえずはね。街の散策は明日でもできるし、何よりただでさえ目立っているんだ。予備知識なしに街に出歩いたら何をしでかすかわかんないし」
「まぁね」
「うむ、特にあの男からは邪気は感じなかった。ここにとまることは問題あるまい」
「ありがとなグリ、黙っていてくれてさ」
「かまわん。しかし、人間とはかわった換算をするものだ」
グリは小声のまま、声に訝しさを乗っけて呟いた。
「何が?」
「あの角など、野に行けばいくらでも取れるだろう。金や銀は人間にとって重要なものだと聞いていたが、それを牛の角と変えるなどよほど酔狂な考えを持っているのだろうな」
何かに納得しているように、何度かグリが頷いてみせる。
どうやらドラゴンの世界には貨幣というものがないらしいことがわかるが、たいそう老練な振る舞いをしていたドラゴンの発言としてはどこかあべこべで可笑しかった。
俺は口端が上がるのをこらえながら、会話を続けた。
「あー、まぁ人間の世界って物々交換じゃないしなぁ」
「それにあの角も武器とか防具になるんだけど・・・・・・まぁグリには興味ない話よねー」
「そうでもないぞ。あの角で作られた鎧はそこそこ噛み砕きづらかった覚えがある」
「イメージしちゃうから止めてくれ・・・・・・」
そこまで話したところでマスターが再び姿を見せた。グリとテフィがぴたりと口を閉じる。俺は少し戸惑いながら、手渡された鍵を受け取った。
「おまちどうさん。部屋は階段を上ってすぐ右手の部屋だ。部屋番号は201。あと夕飯はどうする」
「部屋で食べたいんですけど、できますか」
俺の要望にマスターは眉根を寄せた。
「なんだ。魔法の修練なら室外で頼むぞ」
魔法?
魔法の修練なんか、やる人間がいるのか。
と、いうことは。この世界に来てテフィの不可思議な魔法しか見たことはなかったが、人間にもどうやら魔法が使えるということだ。
俺も練習すれば、使えるようになるのだろうか。
グリから貰った馬鹿力だけでなく、火を出したりできるのだろうか。
想像し止らなくなる好奇心を抑えつつ、俺はなんでもないことのように会話を続ける。
「むしろ魔法なんて部屋の中で練習するものですかね」
「いるんだよ、ときどき才能に恵まれてしまった単細胞がな」
疲れを滲ませつつマスターが笑みを浮かべる。自虐気味な言葉からは、過去にあったであろう苦い経験が連想できた。
「いや俺はそんなことしないですよ。そうじゃなくて、ほらこいつを連れて一階で食事したら騒ぎになりそうですし」
ドラゴンを連れて、一階で食事。
好奇の目が注がれることは間違いないだろうし、目立ちたくはない。
ただでさえ、街を退去になるかわからない状況で、わざわざ危険を冒す必要もないだろう。
「がはは、そいつは気にせんでもいい。モンスターマスターの仔竜にちょっかいを出す冒険者なんてこの街にはおらんよ。それに皮肉だがここはそんなに込み合う酒場でもない。聖オウスでは酒自体を信者が控えることも多いからな」
「はぁ」
「ほら行った。夕飯は日が沈む前後くらいからだ。期待しておいていいぞ、今日はいい肉が手に入ったからな」
卓上の肉の袋を掲げ、話は終わりとばかりにマスターは白い歯を見せる。
俺は納得いかないまま、階段に足をかけた。
「雄太は意思が弱いわね」
「尻にしかれる性質だな」
「うるさい」
小声のからかいが後ろから届いた。
聖オウスの街は西と東に門を構えている。
理由は諸説あるが、第一にオウス=シュウセツ、オウス教の象徴である女性が精霊の加護を受け、未踏の大地に東西へ道を敷いたという伝説に由来するものであるとされている。
第二はまず精霊の住処であるとされる東の森に門を開き、次に妖精の通り道をつくるために西に門を作ったとされるものである。
いずれもオウス教の精霊信仰の強さが伺える理由だが、オウスの街に住む人間には暗黙の了解であろう第三の理由が存在した。
北。フコン国の王都ラーナとオウスを阻むように岩山が聳えている。山肌は鋭く、崖は高く、岩質が非常に脆いことから旅人に忌み嫌われており、たとえ旅費を余計にかけてもさらに西のなだらかな丘を迂回することが冒険者の常であった。
結果その場所は魔物類が跋扈する魔窟となり、人間にとっては立ち入りできない領域となっていた。
第三の説は上記の理由から街の白壁は北に対し堅くなり、当初あった北門が廃止されたという説である。年に4度ほど街に降りてくる魔物に街の人々は頭を悩ませ、また天災の如く人命を嬲る魔物たちに強い憤りを覚えるのも、無理もない話だろう。
しかし半年ほど前から、オウスの街では北の死の山から降りる魔物による住民の死亡事例が激減していた。また魔物による死傷自体が一般人の間で減少しているのだ。
その原因が、今フコン国が正式に人間の立ち入り禁止を命じているその山の裾野で、剣戟が響かせている。
正確には爪と剣の弾き合う金属音。岩山にて生活する銀色の体毛を持つ岩熊は、文字通り岩を砕く膂力と岩を裂く爪を勢いよく振るっている。体長は相対する剣士の倍近く、その影が剣士の全身をたやすく覆うほどだ。
剣士は地を削る野生の一撃を受け流し、長剣一本で立ち向かっていく。決して受けきることはなく、流すようにカウンターを与えていく。
的確に、適度に、無理はせず、しかし苛烈に攻撃を加えていく様は剣士の教本といっていいものだった。
対する銀色の熊は疲弊する体に鞭を打ち、袋小路な現状を脱するために勝負にでた。
熊とて同族では歴戦の猛者であった。体に一筋の爪跡を作ることもなく、族主の座を保ち続けてきた誇りを持っていた。
それなのにこの様は何だ、と。熊は爪に自身への憤りを乗せて、剣士をなぎ払った。
久しぶりの感触に口端を歪める熊に、痛みが遅れてやってくる。
指の間が訴える悲鳴に顔をしかめると同時に、痛みにかみ締めた歯の隙間を鋼鉄の刃が通過した。
命を駆られる気配に身の毛がよだち、喉奥を貫かれる感触が命の終わりを自覚させる。
熊は疑問符を浮かべながら、刻々と流れる血の感触に満たされていく。
確かに、剣士が持つ剣は確かに熊の爪とぶつからず、剣士の外套の一部を割いた。
しかし上体を伏せる形で爪をかわしていた剣士は、あえて長剣を寝かせることで剣の腹で熊爪の間を切りつけた。身を滑らせ、剣を翻らせた剣士は閉じる寸前だった口に剣をつき立てた。
熊の目から生気がなくなるのを確認し、剣士は剣を抜く。熊の口から血が湧き水のようにかすかに溢れ、そのまま重力のままに岩に体を沈めた。
岩肌の悲鳴が、剣士の耳朶を震わせる。
剣士は剣をふり、血を払う。
一息もらし腰の鞘に剣を収めると、腰の後ろから短刀を取り出し、息絶えた熊の皮に刃を入れた。
熊の銀の毛皮は装飾品の素材として人気が高く、この熊の大きさであればオウスで40万センほどになると思われた。適正価格で売れれば、だが。
剣士は頭にもたげた愚痴を振り払いつつ、黙々と皮をはぐ作業を続ける。
旋風の後ろで乱暴に束ねられた銀の髪が、漆のように使い込まれた外套に触れている。どちらも本来の優美さは失われており、埃をかぶったようにくすんでいる。
褐色の肌にも艶はなく、赤色の瞳には覇気もない。女性ならではの柔らかさも、さび付いた貴金属のように隠れてしまっている。
膝ほどまであるブーツに熊の血がしみこむのを感じながらも、剣士は手を休めなかった。
「これで、何日分だろうな」
洩れだした自嘲は、泣そうな声だった。