第4章 僕が君の「盾」になる〜相棒の原点(ビギンズ)〜
放課後の部室には、いつも通りの静寂と、少しだけ鼻をつく古い教科書の匂いが漂っていた。
窓の外では、野球部騒動が落ち着いた後の平和なグラウンドで、サッカー部が楽しそうにボールを追いかけている。
蓮はタブレットをいじりながら、またしても何か「正義の案件」を探しているようだった。
翼はといえば、椅子に深く腰掛け、コーラを一口飲んでから、ふと隣の蓮を眺めた。
「……なぁ、蓮。時々思うんだけどよ」
「なんだ、翼。突然しみじみと。またポテトのLサイズが足りないのか?」
「そうじゃねーよ」
翼は小さく笑い、天井を見上げた。
「お前って、中学の頃からちっとも変わんねーよな。あの頃、俺がどれだけ周囲に流されて、自分を殺して息してたか。お前だけは、それを『おかしい』って言ってくれたよな」
蓮の手が止まる。タブレットの画面が、薄暗い部室の中で蓮の顔を青白く照らした。
「……あれは、単なる事実の摘示だ。翼、君が理不尽な理由で隔離されている状態が、論理的にも倫理的にも正しくなかった。それだけのことだ」
「相変わらず、理屈っぽいな。でもな、あの時の俺には、その『理屈』が何よりも暖かかったんだよ」
1. 透明な拒絶の教室
遡ること三年、中学2年の秋。
クラスの空気は、まるで冷え切った冬の朝のように凍てついていた。
あの日から、佐藤 翼の席は「透明な壁」に囲まれていた。
以前は親しく話していたクラスメイトたちも、クラスのリーダー格である男子生徒が「翼とは関わるな」と一言つぶやいただけで、まるで結界を張るように彼を避けるようになった。
(なんで、俺なんだろう)
翼は自分の机の上を見つめる。
昨日、彫刻刀で傷つけられた跡。今朝、引き出しの中に投げ込まれていた生ゴミ。
彼らは直接的な暴力を振るうわけではない。ただ、彼を存在しない人間として扱い、翼が何かを言おうとするたびに、その声をかき消すように大声で笑う。
その教室で、翼は心の中で何度も叫んでいた。
(誰か、誰か一人でもいい。俺を見てくれ。俺は何もしていない!)
しかし、誰も彼を見ようとはしなかった。
――ただ一人を除いて。
教室の隅、誰も近づこうとしない席で、常に分厚い法律の参考書を開いている少年がいた。陣内 蓮。
彼もまた、その徹底したマイペースさと、「空気の読めなさ」でクラスから孤立していた。だが、蓮はそれを気にすることなく、淡々と自分の世界を生きていた。
その日、翼が理不尽な言いがかりで床に突き飛ばされた時、蓮がゆっくりと立ち上がった。
「君たち、その行為は『器物損壊』および『暴行』の予備行為に該当する可能性がある。論理的整合性のない排除は、学校生活における重大な人権侵害だ」
蓮の声は、教室の騒音をすうっと切り裂いた。
リーダー格が嘲笑う。
「なんだよオタク。お前もそいつの仲間か?」
「仲間ではない。私はただ、この教室で起こっている法的不適合状態を指摘しているだけだ」
蓮は一切怯むことなく、リーダー格の目の前まで歩み寄った。
「君の行動は、集団心理に依存した幼稚なポーズに過ぎない。強者になりたいなら、自らの実力で証明すべきであって、他者を貶めることでしか自分を保てないのは、君が最も『弱い』という証拠だ」
その言葉は、まるで鋭利な刃物のようにリーダー格のプライドを切り裂いた。反論しようとして言葉に詰まる相手を、蓮は一歩も引かずに見据えた。
翼は、その背中を見ていた。
震えるような、でも、どこまでも真っ直ぐな背中。
(あいつ……俺のために、そこまで言ってくれるのか?)
2. 六法全書を盾にして
放課後。誰もいない下駄箱の前で、翼は蓮に声をかけた。
「……おい、陣内。なんで、あんなこと言ったんだ? 俺、お前とは話したこともなかったろ?」
蓮は、靴を履き替えながら静かに答えた。
「君が傷ついているのが見えたからだ。それ以上の理由が必要か?」
「お前、殴られるかもしれないって、思わなかったのかよ」
「法律は、暴力を振るう人間を止めることはできない。だが、振るわれた後に君を救済することはできる。私は、暴力を放置する空間に耐えられないだけだ」
その日から、翼の心の中の「透明な壁」は消え去った。
蓮は、翼にとっての唯一の理解者となり、翼は、蓮にとっての「社会との接点」になった。
だが、蓮は危うかった。
彼は「正しい」と信じれば、相手がどんなに強大であろうと、あるいはどんなに凶暴であろうと、一切の加減を知らずに立ち向かっていく。
ある日、蓮が教師の不正を指摘しようとして、逆に教頭から執拗な圧力をかけられた時だった。
蓮は、自分一人で解決しようと、教頭の部屋に乗り込もうとした。
「お前、殺されるぞ!」
翼は廊下で蓮の腕を掴んだ。
「お前一人じゃ無理だ! あいつらは汚い手を使ってくる。お前が真っ直ぐ突き進んだら、あいつらは間違いなくお前の人生を潰しにかかる!」
蓮は、どこか不思議そうに翼を見た。
「翼。正義を遂行するために、リスクは避けられない。私は私の道を行く」
「馬鹿か、お前は!」
翼は蓮の胸ぐらを掴んだ。その瞳には涙が浮かんでいた。
「お前が潰されたら、誰が『正しい』って言ってくれるんだよ! お前一人じゃ、この腐った世界に飲み込まれるだけなんだ! だから……俺が盾になる! 俺が頭を使って、お前の代わりに策略を練る! だから、一人で抱え込むな!」
蓮は、翼の必死な表情を見て、初めて言葉を失った。
自分以外の誰かが、自分の命を懸けて自分を守ろうとしてくれている。その事実が、蓮の冷徹な論理の鎧を、内側から溶かした。
3. 盾となり、矛となる
その時以来、二人は「二名だけの秘密組織」になった。
蓮が突き進むための「矛」となり、翼が蓮を守るための「盾」となる。
蓮の頭脳は鋭いが、人間関係という名の泥沼に足を取られやすい。翼は、その泥を拭い、蓮が本来持っている「純粋な正義」を最大限に活かせるよう、現実的な道筋を整える役目を担った。
部活での理不尽なシゴキ、教師の見て見ぬふり、そして今回の野球部の闇。
すべて、蓮の情熱がなければ見つけられなかった事象であり、翼の冷静な作戦がなければ解決できなかった事象だ。
部室の空気の中で、翼はコーラの缶を握りしめながら、しみじみと呟いた。
「……お前さ、たまには自分の心配もしろよな。紬ちゃんのことだってそうだし、自分の進路だってそうだ。お前がいなくなったら、俺、誰にツッコめばいいか分かんなくなるんだぞ」
蓮は、少し照れくさそうにメガネを直した。
「翼。君のその『保護者』のような愚痴は、私の論理構造において、非常に高度な愛着の表現として解釈されている」
「はいはい、屁理屈はいいよ」
翼は笑って、席から立ち上がった。
「でもさ、これだけは言っておく。蓮。お前があの時、あんなに真っ直ぐじゃなかったら、今の俺はここにいない。お前が俺の人生を変えたんだ。だから、俺はお前の人生が、お前の望む物語になるように、最後まで付き合うよ」
蓮も立ち上がり、夕日に照らされた部室を見渡した。
かつては「いじめの現場」や「閉鎖空間」に過ぎなかった学校が、今では二人にとっての「戦いの場」になっている。
「……翼」
「ん?」
「君が私の隣にいてくれるのは、私の人生という物語において、最も幸運なイベント(出来事)だと思っている」
「……うわっ、くっさ! やっぱお前、最後は台無しにするよな!」
二人は顔を見合わせて笑った。
かつて教室の隅で孤立していた二人の少年は、もうどこにもいない。
そこには、理不尽な世界に立ち向かう、最強の相棒がいるだけだった。
「さて」蓮が六法全書をカバンに仕舞う。「次はどこの『不法行為』を駆逐しに行こうか?」
「おいおい、休み明けでこれかよ。……まあいいや。とりあえず、今日のところはマックのポテトで乾杯だ。お前の奢りでな!」
「論理的に考えて、翼の功績はLサイズ1つでは足りない可能性がある。……いいだろう、追加でシェイクも許可する」
「よっしゃ!」
二人の影が、長い廊下に重なって伸びていく。
どれほど世界が歪んでいても、どれほど理不尽が蔓延していても。
二人でいれば、物語は何度でも書き換えられる。
校門を出ると、空はオレンジ色から深い青へと変わろうとしていた。
明日も、明後日も、彼らの戦いは続く。
そして、その先にはきっと、蓮がずっと探している紬の笑顔や、自分たちが自分たちらしくいられる未来が待っていると信じて。
「……翼、次の案件だが」
「はいはい、何だよ?」
「実は、隣町のクラブチームで――」
二人の会話は、夜の風に溶けていった。
いじめバスターズの、「絆」という名の最強の盾と矛は、これからも錆びることはない。
(終)
今回は閑話休題の蓮を翼がなぜ慕うようになったのか?というエピソードです。
現代の日本社会ではいじめを駆逐するという蓮は変わり者ですが、格好良いと思います。




