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第1話 横浜駅の雨

横浜駅西口の空は、夕方からずっと低かった。


六月の雨は、降るというより、街に貼りついていた。駅ビルのガラス、タクシー乗り場の屋根、濡れたアスファルト、信号待ちの人々の肩。すべてに薄い膜のような湿気がまとわりついている。


結城修司は、駅前の屋根の下で立ち止まった。


五十歳。

元システムエンジニア。

元会社経営者。


そして現在は、住所不定に近い男だった。


背中には、土屋鞄のダークオリーブのデイパック。雨粒を吸った革が、街灯の下で鈍く光っている。

中には、彼のほとんど全財産が入っていた。


 MacBook Pro。

 iPhone。

 CIOの黒い充電器。

 モスグリーンのUSB-Cケーブル。

 モバイルSSD。

 LUMIX L10。


そして、数枚のカードと、少しの現金。


「まずいな……」


結城は小さく呟いた。

左耳のBluetoothイヤフォンから、すぐに女性の声が返ってくる。


『何がまずいのでしょうか』


声は落ち着いていた。


人間のようで、人間ではない。

けれど、ただの機械音声でもない。


「全部だよ」


『項目を分けますか』


「分けなくていい」


『では総合的にまずい、という理解でよろしいですか』


「正確すぎる」


結城はため息をつき、駅前の人波を見た。


スーツ姿の会社員。傘を差す学生。観光客。配達員。待ち合わせの女。スマホを見ながら早足で通り過ぎる男。


全員に行き先があるように見えた。


自分だけが、ここに取り残されている気がした。


『MacBook Proのバッテリー残量は十三パーセントです』


「知ってる」


『iPhoneは二十七パーセントです』


「それも知ってる」


『所持金は八千四百十二円です』


「それは言うな」


『今月三回目の確認です』


「だから言うなって」


イヤフォンの向こうで、HIKARIは黙った。


正式名称は、Hybrid Intelligence Knowledge And Reasoning Infrastructure。

結城がかつて経営していた会社、リンクコードで生まれた社内支援AIだった。


倒産後、結城は自分が書いたソースと技術ノートだけを持ち出し、逃亡生活の中でこっそり再構築した。いまは個人契約のVPSを世界のどこかに分散させ、その上で動かしている。


家はない。

だが、サーバはある。

それが結城修司という男の、いまの生活だった。


『修司さん』


「なんだ」


『あと一時間以内に電源を確保できなければ、私は省電力モードへ移行します』


「脅しか?」


『事実です』


「便利な言葉だな、事実って」


『修司さんもよく使います』


「俺はもう少し情緒を込める」


『その割には、支払い能力に情緒がありません』


「そこは黙ってろ」


結城はデイパックの肩紐を握り直した。

雨は弱まる気配がない。


駅前の大型ビジョンには、派手な広告が流れていた。新築マンション、転職サイト、サブスクリプション型の英会話、そしてキャッシュレス決済のキャンペーン。


どれも、いまの結城には関係がない。

関係があるのは、電源だった。


 電源。

 Wi-Fi。

 屋根。

 できれば安いコーヒー。


それだけあれば、まだ仕事ができる。

仕事ができれば、今日を越えられる。


『近隣の作業可能施設を検索しました』


「結果は?」


『徒歩圏内にネットカフェが三件、コワーキングスペースが二件、カフェが十二件あります』


「安い順」


『ネットカフェAが三時間パックで千二百円。ただし会員登録が必要です』


「身分証はある」


『マイナンバーカードの住所は実家のままです』


「それも言うな」


『次点でネットカフェB。料金はやや高めですが、電源席があります』


「そこだ」


結城は歩き出した。

人混みを避けながら、濡れたタイルを踏む。


右手に傘はない。


折り畳み傘はデイパックの中にある。だが、いま出すには遅すぎた。肩はすでに濡れているし、革のデイパックも雨を受けている。


『傘を使用しない理由は』


「面倒だから」


『非合理です』


「人間は、いつも合理的には動けない」


『知っています。修司さんを観察しているので』


「悪かったな」


結城は小さく笑った。


笑ったつもりだったが、ガラスに映った自分の顔は疲れていた。


 無精髭。

 少し伸びた髪。

 くたびれた黒いジャケット。

 濡れた靴。


昔の社員が見たら、何と言うだろう。


社長、ちゃんと寝てくださいよ。


誰かがそう言いそうな気がした。


だが、もう社員はいない。


会社もない。


残っているのは、HIKARIと、デイパックと、八千四百十二円だけだった。


ネットカフェBは、雑居ビルの三階にあった。


受付の青年は、マニュアル通りの笑顔で言った。


「ご利用には会員登録が必要になります。ご本人確認書類をお願いします」


「はい」


結城はマイナンバーカードを出した。


青年は端末で何かを確認し、少しだけ眉を動かした。


「こちら、現住所の確認が必要になります」


「現住所」


「はい。現在お住まいの住所が確認できるものはございますか?」


結城は沈黙した。


HIKARIが小さく言う。


『詰みました』


「黙ってろ」


「え?」


受付の青年が顔を上げる。


「あ、いや、こっちの話です」


結城はカードをしまった。


「住所は、実家のままなんですけど」


「現住所と異なる場合は、公共料金の領収書などが必要でして」


「公共料金……」


公共料金を払う家があれば、こんなところで電源を探していない。

そう言いかけて、結城はやめた。


「わかりました」


「申し訳ありません」


「いえ。こちらこそ」


結城は頭を下げ、ネットカフェを出た。

階段を降りる途中で、HIKARIが言った。


『次候補へ移動しますか』


「その前に、腹が減った」


『現在の所持金を考慮すると、食事は推奨できません』


「知ってる」


『では、なぜ』


「腹が減ったからだ」


『論理が循環しています』


「人間はそういうものだ」


外に出ると、雨は少し強くなっていた。

結城は駅前から少し離れた通りへ向かった。


大型チェーン店の明るい看板が並ぶ道から一本入ると、街の音が急に柔らかくなる。古いビルの一階、小さな店の灯り、傘を畳む人の仕草。


そこに、一軒のカプセルホテルがあった。

結城はガラス扉の前で立ち止まった。


「安そうだな」


『レビュー評価は三・二です』


「贅沢は言えない」


『ただし、支払い条件に注意があります』


「言うな」


受付で、結城は料金を確認した。


一泊三千九百円。


悪くない。

電源もある。シャワーもある。横になれる。

結城は久しぶりに、希望に近いものを感じた。


「では、お支払いはクレジットカードでお願いします」


受付の女性が言った。


「デビットカードならあります」


「申し訳ございません。当施設ではクレジットカードのみのお取り扱いとなっております」


「現金は?」


「事前決済の関係で、カードのみでして」


結城は財布を見た。

薄いデビットカードが一枚。

現金が数枚。

どちらも、今この場所では意味をなさない。


十秒ほど黙ったあと、結城は静かに言った。


「そうですか」


外に出た瞬間、雨の匂いが濃くなった。

結城は屋根のない歩道で立ち止まり、空を見上げた。

そして、誰にともなく吐き出した。


「ちくしょう……」


『音声感情解析。怒り六十二パーセント、疲労三十一パーセント』


「分析するな」


『続けてください』


「ちくしょう、クレカじゃないとダメなのか!」


通りすがりの若い男が振り返った。

結城は構わず続けた。


「デビットカードもOKにしろよ!」


『同意します』


「お前、カード持ってないだろ」


『持っていませんが、決済インフラへの不満は理解できます』


「理解が広いな」


『修司さんの愚痴で学習しました』


結城は濡れた前髪をかき上げた。

MacBookは十三パーセント。

iPhoneは二十五パーセント。


HIKARIとの接続も、長くは保たない。

次を探さなければならない。


だが、足が重かった。


五十歳の体に、雨と空腹と疲労は素直に響く。


そのときだった。


通りの先に、小さな看板が見えた。


 黄色い灯り。

 古びた木のドア。


ガラス窓に、白い文字で店名が書かれている。


 珈琲みなと。


チェーン店ではない。

入り口の横には、手書きの黒板があった。


本日のおすすめ。


 ブレンドコーヒー。

 厚切りトースト。

 昔ながらのナポリタン。


結城は足を止めた。


『営業時間は不明です』


「灯りがついてる」


『電源席がある保証はありません』


「聞けばいい」


『断られる可能性があります』


「断られたら、また歩くだけだ」


結城はドアの前に立った。

濡れたジャケットを軽く払う。

背中のデイパックを少し持ち上げる。


ガラス越しに、店内が見えた。


 カウンター。

 木のテーブル。

 壁際の古い本棚。

 そして奥の席の足元に、白いコンセント。


結城の目が、わずかに変わった。


『発見しましたね』


「ああ」


『電源です』


「希望だ」


結城はドアを開けた。

カラン、と小さなベルが鳴った。

店内に、コーヒーの匂いが満ちていた。


カウンターの向こうで、エプロン姿の女性が顔を上げる。


四十代前半くらいだろうか。

疲れた顔をしていた。

だが、その目だけは柔らかかった。


「いらっしゃいませ」


結城は少しだけ頭を下げた。


そして、いつもの言葉を言った。


「すみません」


女性が首をかしげる。


「はい?」


結城は奥の席を指さした。

自分でも情けないくらい、真剣な声だった。


「ちょっと、電源貸してもらえませんか?」


女性は一瞬だけ驚いた顔をした。

それから、ふっと笑った。


「いいですよ。奥の席、どうぞ」


その言葉を聞いた瞬間、結城は思った。

今日、まだ終わっていない。


HIKARIが、左耳で静かに言う。


『修司さん』


「なんだ」


『電源を確保しました』


「ああ」


『生存率が上がりました』


「大げさだ」


『事実です』


結城は濡れた土屋鞄を抱え直し、奥の席へ向かった。


コンセントは、確かにそこにあった。

白く、小さく、何の変哲もない。


だが今の結城には、それが灯台のように見えた。


第1話をお読みいただき、ありがとうございます。


本作は、AIと共に生きる元IT社長が、横浜の片隅でさまざまな事件や人々と出会いながら再起していく物語です。


技術の話も出てきますが、専門知識がなくても楽しめるように書いていきます。

そして、美味しいコーヒーとナポリタンもたくさん出てきます。

もし、少しでも気になっていただけたら、次話も読んでいただけると嬉しいです。

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