4
XJRはV8エンジンをうなりを上げながら発進した。スーパーチャージャーから得られる四〇六馬力という、カタログスペックから想像するよりはるかにマイルドな発進ではあったのだが。
「イギリスという国にはマフィアなんていない、なんて思う人もいるくらいなのに、派手にやるものね」
ドライバーシートにはアルバート、後部座席にクリスとエリーが乗っていた。エリーのつぶやきを聞いてアルバートは鼻で笑った。
「バカ言うな、ロンドンはヨーロッパでも最大の街で、世界三大市場のひとつだぜ。マフィアが巣くわないほうがおかしいだろ?」
エリーはそれを理解している。マフィアはどうあっても生産者ではない。裏世界の治安や安定に寄与しようが、所詮は拠る宿木が必要である。逆に言えば、宿木が巨木であれば拠るマフィアも大きくなるといえるだろう。
「正確に言えば、イギリスを本拠地にしているマフィアはいない、ってことかな。イタリアやアメリカ、香港、ロシア、アルバニア……さまざまな国に本部を持つマフィアは一杯いる。犯罪を極端に嫌う国民性のせいか、活動はそれほど活発ではないんだけどね」
クリスが補足した。少年はまだ幼いがよく事情を知っていた。
「それにこれだけの人間が集まる街だ。何万人の中に稀に天才が生まれるように、俺たちのようなマトモな社会に適合できない人間が生まれる」
「俺たちの中に、私も含まれているの?」
エリーの不満そうな声に、アルバートは肩をすくめた。自覚症状があるならそうだろう? と彼は思ったが声には出さなかった。
「そんな奴らが普通に社会の中に混ざってちゃおっかえねえ。裏社会という入れ物も、ときに必要なのさ」
殺人や暴力を好む人間のことである。表社会では決して受け入れられない存在は確実に存在する。それが間違って表社会に混ざりこめば、行き着く先は悲劇でしかない。そんな彼らでも裏社会であれば時として有用であり、彼らの生きる場所となる。
「闇の世界も時として人の役に立つわけね」
羊の牧場と野生の狼が住む世界は違う。別れていてこそお互いの幸せというものだ。
「まあそれはともかくとして……」
三人はこれまでのいきさつを話した。
アルバートはフリーの解決屋で、闇の世界で荒事に長けた屈強の男である。
キャクストン一家とは浅からぬ関係があり、かつてマフィアの紛争に介入した彼は不覚にも重傷を負った。中立だったコネリーは彼を助け、ほとぼりが冷めるまで匿った。それにコネリー自身には何の益もないことだったが、彼の義侠心によるものだった。
クリスは療養中のアルバートに興味を持った。
アルバートは闇の世界で有名な男で、その腕はクリスの耳にも届いていた。ちょうど強さにあこがれる少年の年頃である。クリスはアルバートにちょくちょく会いに行き、二人は親交を結ぶようになった。
「オヤジもいい奴だったが、クリスもなかなかのもんだ。この世界においとくにゃ、もったいねえな」
クリスは父の不在を狙って、館の中を探検することを好んでいた。
彼の生家であるキャクストン家の館は広大で、特に父たちが執務で使う部屋は彼にとって未開の地であり、そこで出会う数々の書籍や物品、そして組織の面々は、学校の勉強やテレビのドラマより劇的で興味を引く対象だった。
だが彼は運悪くダミアンの暗殺計画を耳にする。さらに運が悪いことに、それを聞かれたことをダミアンに悟られてしまった。
ダミアンは冷徹で頭の切れる男だ。たとえクリスが子供であっても、計画の邪魔になると考えれば、ためらいもなく消すだろう。明敏なクリスは危機感を感じて、とにかくその場を離れてアルバートに連絡を取った。
怪我の癒えたアルバートはすでにロンドンを離れていた。彼は北アイルランドに渡っており、すぐにはロンドンへ戻れなかった。
アルバートは可能な限り早くロンドンへ引き返す手はずをとったが、それでも数日の時間が必要だった。
その間にコネリーはダミアンの謀略により、三合会の凶弾に倒れた。
クリスやアルバートの予想をはるかに超えた早さだった。
キャクストン一家の残党と香港三合会の間に紛争が起こると思われたが、それは回避された。キャクストン一家のアンダーボスであったダミアンと、三合会の幹部達と密約があり、三合会は下っ端の数人を処理して、それで手打ちとした。
二人の話を総合すると、エリーはコネリーが死ぬ直前に出した手紙を受け取ったことになる。彼女は別件でイギリスを訪れており、その仕事が終わって余暇をロンドンで過ごすつもりでいた。
アルバートはエリーと同時期にやはりコネリーから手紙を受け取っており、エリーとの連絡手段を得ていた。コネリーはその時点で自らの運命を悟っていたのかもしれない。出来うる限りの手段を、クリスの為に打っていたのだ。
「今思えば、オヤジが手紙なんて時代遅れなものを使ったのは、ダミアンに悟られないためだったかもしれないな。おそらくクリスの居場所がバレたのは、携帯電話を盗み聞きしやがった可能性がある」
アルバートはドライバーシートで舌打ちした。なるほどと二人は後部座席で頷いた。
「そのアナログな手段のために、微妙なタイムラグが出て、私は困ったわけだけど」
エリーはため息をついた。
「そう言うなよ、俺の読みじゃ、十四時にみんな出会えてハッピーエンドって手筈だったのさ」
アルバートはヒースローに着いてから愛車を飛ばしたわけだが、彼が時間に遅れたわけではない。
少しずつ、他が早すぎただけだ。
「とにかく、アルバートがエリーに連絡を取ってなければ、僕はあの場で死ぬしかなかったんだ。二人とも、ありがとう。二人は僕の命の恩人だ」
少年の言葉は純粋で二人の心を和ませた。二人は微笑んで、クリスの無事を喜び合った。
「ま、これでコネリーのオヤジに義理は果たせたってわけだ」
「イギリス人にしては義理堅いのね」
「これも渡世の仁義ってやつさ。俺みたいな渡り鳥は、そういうのが大切なんだぜ」
エリーはアルバートがロマンチストだと思った。
三十半ばの男にしては子供っぽいと思ったが、十九才の彼女に三〇代の男の心理を理解するのは難しかったかもしれない。
「さて、これからのことだけど、コネリーさんには私も義理があるわ。クリスを日本に連れて行くのは難しいことじゃないと思うけど……」
エリーはクリスの言葉を覚えていた。
彼は取り返したいものが、護りたいものがある。銃弾の雨の中で言った言葉は軽いものではない。
エリーはクリスの様子を見ると、ポケットから古ぼけたカギのようなものを取り出し、手のひらの上でそれを握ったり開いたりした。エリーは怪訝そうにその様子を見つめた。
「アルバートはカーサに会ったことがあったね」
「うん? ああ、あのメイドか」
「アルバートやエリーには信じてもらえないかもしれないけど、カーサは人間じゃないんだ」
クリスの声は少し戸惑っているようだった。どう説明すればいいのかわからない、そんな風だった。
二人はクリスの言葉を待った。
「彼女は僕の家……あの館自身なんだ。古い館に宿った精霊って言ってもいい。彼女はあそこから離れられない。彼女は館自身なんだから」
アルバートは驚いた顔でそれを聞いた。こんなときに冗談を言うクリスではない。それは彼が良く知っていた。
「信じてもらえないよね。でも僕はどうしても彼女と、あの館を取り返したい。僕は記憶のない頃、母さんを失っているから彼女が母さんみたいなものだ。ダミアンはあの館を取り壊し、新たなオフィスを作ろうとしてる。館が消えれば彼女は消えてしまう。僕はそれをどうしても許せない」
クリスは語気を荒くした。冗談で言っている雰囲気ではない。彼の吐く言葉と目には怒りが迸っていた。
「僕は、父さんを奪われ、カーサまで奪われるわけにはいかない!」
大きな声ではない。だが、その言葉には彼の意思が強くこめられていた。少年ではなく男性としての意志の力をエリーは感じた。
「信じるわ。キミはうそをつくような人間じゃない」
エリーは微笑んで言った。クリスには人を惹きつける何かがあるようだ。彼女は漠然と思った。
「それにね、日本にはツクモガミと言う、古いものには精霊が宿るという言い伝えがあるのよ」
「ありがとう、信じてくれて」
クリスは照れくさそうに笑った。そのあたりが少年らしく、エリーなどには微笑ましく思う。
「ではどうする? これからクリスの大切なものを取り戻しに殴りこみか?」
アルバートは不敵な笑みを浮かべて言った。
「待ってくれ、これは僕個人の問題だ。これ以上アルバートやエリーに迷惑はかけられない」
クリスはあわてて言った。これは私闘だ。彼自身が一番良くわかっていた。
「なめるなよ、ガキんちょ。てめえ一人で何が出来るってんだ? 犬死するのは勝手だが、あとで胸糞悪くなる俺たちのことも考えろや」
アルバートは悪態をつきながら言った。クリスは驚いてアルバートを見つめた。
「だから勝手に複数形にしないでよ」
エリーはシニカルに笑って言った。
「クリス、キミには人を惹き付ける何かがある。コネリーさんの息子というのも納得が行く。ここでキミ残して途中下車したら、私たちはとても寝覚めの悪いものを感じるしね」
「俺はコネリーのオヤジに義理がある。クリス、単にお前を助けたくらいじゃ返せねえくらいのな。クリス、てめえには命をかける価値がある、って言ってんだよ」
クリスは困ったようにエリーを見た。
エリーは黙って頷いた。
「後はキミの判断よ。自分の意地を貫くのも一つの道だと思う。だけど、大切な何かを護るためや何かを成し遂げるためには、一人ではどうしようもない時もあるわ」
エリーはそう言いながら少し心配そうな表情で視線をクリスに向けた。
それはクリスの将来を案じてのことだった。
クリスはエリーの気持ちを察したようだった。少年の繊細な心は揺れた。
クリスは手のひらのカギを握り締めた。力いっぱい握り締める。彼は命の判断をしようとしていた。命は一つしかない。二つは取れないのだ。
今ここですべて諦めて逃げ出せば、平穏な日々が迎えてくれるだろう。だが、その日々は後悔にまみれた毎日かもしれない。
前に進むことは、血に塗れた道を進むことになる。それはエリーの言うとおり、一人では成し遂げられないこともわかっていた。
彼は決断した。
「わかった……アルバート、エリー。二人の力を貸してくれ。僕は、僕一人じゃ何も成し遂げられない。父さんのカタキを取ることも、カーサを助けることも出来ないんだ」
アルバートは陽気で小さな歓声をあげ、エリーは心配そうに、だが納得のいく決断に目を細めた。