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「エリ? エリーと呼んでいい?」
英語的に発音になじみがなかったのか、クリスは言った。
「構わないわ、貴方が呼びたいので」
エリーは指を軽く組んで、微笑んだ。美しい少女だ。白い肌と長く真っ直ぐな髪が美しい。飾り気はないが、絶妙な目鼻立ちが少年の心を魅了した。
「エリーは何をしているんだい? ただの旅行者って感じはしないし、留学生とも思えない」
「旅行者であることは間違いないよ。学生であるのも確かだし」
エリーの答えははっきりとしていなかった。クリスは明確な答えを視線で欲した。
エリーは少し考えたが、悪戯っぽい微笑を浮かべて答えた。
「本当はね、私は殺し屋なのよ。一時間後にここで依頼者と待ち合わせの予定だったのだけど、少しここに着くのが早すぎてね」
クリスはきょとんとした表情でエリーを見つめた。意地悪そうに笑う彼女に、自分が殺し屋に追われている、と言ったことを思い出して笑った。
「いいね、そう言うセンス嫌いじゃない」
二人は笑いあった。無為だがこう言う時間を二人は嫌いではなかった。
と、笑っていたクリスの顔が凍る。カフェの通りに面した箇所には大きなガラスで開放的なデザインに仕上げられている。その向こうに黒塗りのメルセデスが数台停まり、柄の悪い男たちが現れた。
「あれが……殺し屋さん?」
エリーはちらりとそれを見て、愉快そうにつぶやいた。
だが、クリスは答えなかった。明らかに動揺して、顔は真っ青、膝は震えていた。
男たちは各々武器を取り出した。ハンドガンからサブマシンガンまでそろえている。それを見てエリーの顔色も変わった。
「やばい!」
クリスが叫んで立ち上がった。男たちは銃を構えていた。
エリーはそれを見て俊敏に立ち上がり、クリスの手を引いた。
「伏せて!」
彼女は引き倒すように少年の体をつかみ、身体を床に投げ出した。
二人の身体が床に触れるか否か、けたたましい銃声とガラスが粉砕される音が二人の耳に届いた。そして一瞬遅れて悲鳴と破壊音。まるでギャングムービーのような襲撃だった。否、彼らは現実のギャングだ。
二人の視界に、哀れに犠牲になったウェイトレスの死体が転がる。無数の弾丸を受けた彼女は即死だった。
「ひっ……」
クリスはその年齢に相応しい悲鳴をあげた。
エリーは死体に少し眉を潜めると状況を確認した。
銃撃の激しさはやまない。
彼女は近くにあった足が一本破壊され、斜めに倒れたテーブルを見つけた。彼女はためらわずクリスを抱えてそこへ飛び込んだ。
頑丈な樫の天板と斜めになった角度のため、ハンドガンやサブマシンガンの弾はそれに弾かれる。銃弾は垂直に対して貫通力を持つが、角度がつくと弾かれてしまう。
その間にもカフェの客や店員たちが撃ち殺された。
すべてのものが動かなくなるまで、外の男たちは銃を打ち続けた。
「ずいぶんと徹底的ね。日本のヤクザはここまでしないわ」
銃撃が止むと、二人はひとまず安堵の吐息を漏らした。エリーはモップが足元に転がっているのを見つけると、拾い上げて重量を確認した。振るうに重すぎず、軽すぎずだ。武器になると思い、彼女はそれを強く握った。
「エリー? ずいぶんと冷静だね……」
クリスは恐怖に震えながら言った。
「言ったでしょ。殺し屋だって。命のやり取りは慣れたものよ。こんな派手な銃撃戦はなかなかないけど」
エリーは微笑むと、クリスの金色の髪を撫でた。
「それにしてもあいつらは何? キミは何か知っているようだけど」
一言二言話したことで、クリスは若干だが落ち着きを取り戻した。
「あいつらは父さんの組織のマフィアだ……僕を狙ってる」
「殺し屋に狙われている、って言うのは本当だったのね」
エリーは自分のことを棚にあげて、呆れるように言った。
「でも父親の組織に狙われるなんて……」
「正確には父さんの組織、だった、だ。父さんは罠にかけられて、対立していた香港の三合会に殺された」
「だから、香港人が嫌いなのね」
三合会は香港を本拠地とした世界的なマフィアである。
三合会が大きな組織だと言っても、香港人全体から見ればほんのわずかだ。三合会以外の香港人にはいい迷惑だ、とエリーは他人事ながら思った。
「それにしても、先代のボスの息子をここまでして殺そうとするなんてどういうこと?」
マフィアのボスは世襲制ではない。
だが先代のボスの家族であれば、それなりに丁重に扱ってしかるべきだろう。
「組織を継いだダミアンが、父さんを罠にかけた男だ。それを知っている僕を消そうとしている」
クリスは歯軋りをした。
「ダミアンは父さんの親友だった。だから、仲間は皆彼を信頼している。だけど彼は父さんを裏切った。僕は彼を許せない。僕と父さんはうまく行っていなかったけど、僕は父さんを殺してなんかいない!」
彼の言を辿ればダミアンはクリスの父、組織のボスを罠に陥れ殺した。その真実をクリスが知っているとすると、クリスの父に成り代わったダミアンにとって脅威となる。奪った者は、奪われることを知っているからだ。今度はクリスを消そうとしているのだろう。組織に信用のあった彼は、ボス殺しの罪をクリスに着せたのだ。
怒りの篭った目でクリスは訴えていた。だが、半分は自分自身にだった。父と不仲なまま、終わってしまったと言う後悔と、現在を跳ね返せない自分。彼は年不相応な闇を抱えていた。
「それで、キミはどうしたい?」
エリーは問いかけた。綺麗な瞳がじっとクリスを見つめていた。殺し屋とは思えない、透明感に満ちた瞳。クリスは胸が高鳴った。
「父さんのカタキはとる。でも、それ以上に大切なことがある」
彼ははっきりとした口調で言った。
「大切なものを、ダミアンに奪われた。僕はそれをこの身命を持ってでも取り返す!」
力強い物言いにエリーは心地よさを感じた。
エリーは微笑んで、頷いた。
「よろしい。男の子はそうじゃないとね。男の子は大切なもののために、いくらでも強くなれるんだから」
クリスははっとしてエリーの顔を見た。エリーの言葉はカーサと約束の時、彼が強く思ったそれと同じだった。
「その気持ちがあれば、生き残れるわ。私が彼らをひきつけるから、三つ数えたら外に走りなさい」
男たちが店内に入ってきた気配を感じて、エリーは言った。クリスは驚いてエリーを見た。見ず知らずの、ただ出会って話をしただけの仲である。そこまでする義理はないだろう。
クリスが反論しかけた時、彼女は左手で彼を制した。論じている時間はなかったのだ。
男たちは死体を捜しているようだった。それは無論クリスの死体である。
彼らが二人が潜む机に近づいたとき、エリーは机の右側から飛び出した。
男たちは驚愕した。あの鉛の暴風の中を生き残った人間がいたのである。エリーが手にしたモップが一人を犠牲者にする。先制はエリーのものだった。
至近から棒を叩き込み、主導権を渡さないように次々と男を打ち倒す。その早さと技量は確かに「殺し屋」を名乗るに相応しい。クリスは唖然とそれを見たが、エリーの言葉を忘れていなかった。
きっかり三つを数えた彼は、無残な姿になった入り口のドアへ全力疾走した。
「い、いたぞ。クリスだ!」
男たちはそれを確認して叫んだ。一人の男が銃を構えて彼を狙った。数発がクリスの足元ではじけたが、彼は怯まず走った。
銃を打った男も次の瞬間にはエリーに打ち倒された。完全に場を圧倒した彼女はクリスに続いて逃走を図った。混乱が収まれば、数で負けるからだ。
彼女は白いワンピースを翻し、クリスの後を追って外へ出た。最後まで主導権を握られた男たちは、自失し、冷静さを取り戻したときには、二人の姿を見失っていた。