第1話:初夜に渡されたのは、契約書一枚でした
初夜の寝室で、夫が差し出したのは、契約書一枚。「工房の経営権を、半分ください」——愛のない白い結婚のはずが、この旦那様、わたしの線にだけは容赦なく値を付けてくるのです。
結婚式で、指輪の交換はなかった。
誓いの口づけも、なかった。神殿の祭壇の前で、わたしたちは他人のまま、書類の上だけの夫婦になった。
——モントレー侯爵家長女クラリスは、本日をもって、ヴェルク商会三男アーロン・ヴェルク氏に嫁ぐ。
体裁を整えれば、そういうことになる。体裁を剥がせば、こうだ。
借金のカタに、売られた。
「よかったなあ、クラリス。商人の家なら、食うに困ることだけはないだろう」
式のあと、兄のオーギュストはそう言って笑った。妹を銀貨に換えた男の顔は、晴れ晴れとしていた。父は目を合わせなかった。母は「くれぐれも、モントレーの名に恥じないように」とだけ言った。恥じる名が、まだこの家のどこに残っているのだろう。
没落した貴族が家名を出し、成り上がった商人が資本を出す。それを婚姻の形で結ぶのが、この王都で言うところの「白い結婚」だ。寝室を共にしない、書類だけの夫婦。珍しくもない。ただ、その取引の品にされた娘の気持ちを訊いた者は、誰もいない。
そうして、初夜である。
嫁ぎ先は、王都の職人街の外れにある古い家だった。侯爵家の門より低い玄関をくぐり、案内された寝室で、わたしは一人、背筋を伸ばして座っていた。
覚悟なら、してきた。これも家のためだと、百回は唱えた。
扉が叩かれた。
入ってきた夫——アーロン・ヴェルク氏は、婚礼のときと同じ、飾り気のない黒い上着のままだった。歳は二十六と聞いている。整った顔立ちに、感情の読めない灰色の目。そして、その手にあったのは。
書類の束と、ペンだった。
「はじめまして、で合っていますね。式では、お話しする暇もありませんでしたから」
「……はじめまして。クラリスです」
「存じています。買ったのは私ですので」
言い方。
わたしが黙ると、彼は寝台から一番遠い机に書類を置き、椅子を引いた。どうぞ、と手で示す。初夜の寝室で、夫が妻に勧めるのが椅子だった。
「契約書です。ご確認ください」
差し出された一枚を、読んだ。
第一条、寝室は別とする。互いの部屋に許可なく立ち入らない。
第二条、社交の場では夫婦として振る舞う。虚偽はここまでとする。
第三条——
「その代わり、と言ってはなんですが」
アーロン様は、事務的という言葉でも足りないほど乾いた声で言った。
「工房の経営権を、半分ください」
「……工房?」
「私は商会を出た身です。退職金代わりに押し付けられたのが、潰れかけの銀細工工房でして。職人は四人、注文は先月がゼロ。帳簿は見事な赤字です」
自慢げに言うことではないと思う。
「それで……なぜ、わたしに経営権を? わたしは商いなど」
「荷解きのときに、行李から一枚落ちましたので」
彼が懐から出したのは、見覚えのある紙だった。血の気が引いた。
——わたしの、図面。
銀の燭台の意匠図。花茎を編んだ透かし。祖母に習った線。実家では、見つかるたびに燃やされた線。侯爵家の娘が職人の真似事など、はしたない。母の声が耳の奥で蘇って、わたしは思わず立ち上がっていた。
「返してください。それは……お遊びです。はしたないことは、承知していますから」
「はしたない?」
アーロン様は、初めて眉を動かした。心底わからない、という顔だった。
「この線が? ……失礼。話が見えません。順を追いましょう。他の図面もあるのでしょう。見せてください」
「え」
「あなたを査定したいのです。正確に」
査定。花嫁に向ける言葉ではない。ないのだが——「はしたない」よりは、ずっとましだった。
わたしは行李の底から、図面帳を出した。祖母が亡くなってから十年、隠れて描きためた、誰にも見せたことのない一冊。差し出す手が、少しだけ震えた。
アーロン様は、頁をめくった。一枚。二枚。ペンを回す手が止まり、めくる速度が上がり、やがて、ゆっくりになった。
長い、長い沈黙のあと。
「これは……儲かりますね」
「…………は?」
「即断します。第三条——工房の経営権の半分を、クラリス様に譲渡する。あなたは意匠と製作の代表を、私は金と販路の代表を。肩書は『共同代表』。報酬は利益の折半」
待ってほしい。話が速い。
「わたしは女で、貴族で、商いを知りません。工房の方々だって、そんな」
「意匠を知っています。それで十分です。足りない分は、私が埋めます」
きっぱりと、値札を貼るように言われた。
……ああ、と思った。この人は今、誰もくれなかったものを、くれたのだ。
わたしの線に、値が付いた。
「……第三条に、一つ追加してください」
気づけば、そう言っていた。
「意匠に関する決定は、わたしの承認なしに行わないこと」
「呑みましょう。いい条項だ」
アーロン様は満足そうに条文を書き足し、ペンをこちらへ差し出した。契約書の署名欄。夫婦の誓いの代わりに、わたしたちは同じ書面に名前を並べた。
クラリス・ヴェルク。新しい姓は、家名ではなく、屋号みたいだった。悪くない。
「では共同代表、早速ですが一つ、問題があります」
アーロン様は最後の一枚を机に置いた。ギルドの印章が押された、意匠登録の一覧表。
「王都で銀細工を売るには、金銀細工ギルド連合の意匠登録を避けて通れません。そして——あなたのこの図面、そのほとんどが」
灰色の目が、まっすぐにわたしを見た。
「ギルドの『独占登録』に、真っ向から抵触しています」
お読みいただきありがとうございます。初夜に契約書を差し出す旦那様と、生まれて初めて才能に値段が付いた令嬢の「白い結婚」、開店です。
次話、いよいよ工房へ。錆びた看板と、頑固な職人頭が待っています。——それにしても、隠れて描いてきた彼女の線が、なぜギルドの登録と「ぶつかる」のでしょうね。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。




