番外編 雪解けの約束
硝子化の呪いが解けてから、三十日が経った。
主寝室の窓から差し込む淡い朝の光の中で、私は膝に本を広げていた。
隣に座るウォルフ様は、片手に執務書類を持ちながらも、その氷青色の視線の半分以上を常に私へと向けている。
彼がこうして、私が起きている間は「同じ部屋にいること」を強要するようになったのは、私があの死の淵から目覚めて以来のことだ。
「……まだ、疲れていないか?」
「大丈夫です。今日はもう、三ページも読みましたよ」
「無理をするな。少しでも目が疲れたらすぐに言え。休ませるからな」
過保護すぎる言葉を紡ぐ彼の声は極端に優しいが、その響きの奥底には、未だに焦燥のような必死さがこびりついている。
私はゆっくりと本を閉じ、シーツの上に置かれた彼の大きな手に、自分の手をそっと重ねた。
「ウォルフ様。私はもう、どこも痛くありません。本当に。……ただ」
私は少し迷ってから、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて続けた。
「あなたが、まだご自身を罰し続けているのを見るのが……私の胸を痛くします」
重ねた彼の手が、ビクリと震えた。氷青色の瞳が、苦しげに揺らぐ。
あの事件以来、彼は毎晩のように悪夢を見ている。
夜中にハッと息を呑んで目を覚ましては、私を骨が軋むほど強く抱きしめ、「すまない」と何度も何度も呟くのだ。
そして朝になれば、食事の温度から服の重さに至るまで、過剰なほどに私の世話を焼く。
「私は、あなたに許してほしいんです。どうか過去の過ちを全部許して、私と一緒に生きてほしい」
私がそう告げると、ウォルフ様は長い間沈黙し、やがて絞り出すような掠れた声で答えた。
「……俺には、簡単に己を許す資格などない。だが、お前がそう望んでくれるのなら……少しずつ、努力する」
それから、彼の不器用な『努力』が始まった。
彼はまず、私を幽閉していた北塔の小部屋を、自らの魔力と手で徹底的に作り変えた。
あの寒々しい牢獄のような部屋に巨大な暖炉を据え、床を厚くし、窓には二重ガラスをはめ、王族が使うような最高級の柔らかい絨毯を敷き詰めたのだ。
そして、『ここはもう、二度と誰も閉じ込めない。お前のための温室だ』と宣言した。
次に、彼は城の使用人たちを大広間に呼び集めた。
アンナをはじめとするメイドたちと騎士たちは、まだ罪の意識に苛まれ、顔を上げることもできずに平伏していた。
「俺はお前たちを許したわけではない。だが、ロザリアが許すと言った。だから、お前たちに機会を与える」
ウォルフ様は、冷徹な領主の顔に戻って低く告げた。
「これから三ヶ月間、彼女の側仕えを命じる。彼女が本当に心から笑っているか、少しでも辛い顔をしていないか……俺よりも敏感に察知しろ。万が一、もう一度彼女を悲しませるようなことがあれば……その時は、俺の手で氷の棺に葬る」
アンナは床に額を擦りつけたまま、震える声で答えた。
「……肝に銘じます。ロザリア様に、この命尽きるまで、誠心誠意お仕えいたします」
それからの日々は、氷が溶けるように少しずつ変化していった。
アンナは毎朝、私の一番好きな温度の温かいミルクティーを淹れてくれるようになった。
最初はひどくぎこちなく、言葉少なだったが、私が「ありがとう、とても美味しいわ」と微笑むと、彼女の目尻にポロポロと涙が浮かぶようになった。
「本当に……申し訳ございませんでした。あの時、私があと少しでも、あなた様の様子に気づけていれば……」
「もういいの、アンナ。あなたはウォルフ様を想う気持ちが人一倍強かっただけでしょう? 私も、大切な誰かを守りたいと思う気持ちは痛いほどわかりますから」
彼女はそれ以来、私の髪を梳く時、壊れ物を扱うように、その指先が以前よりずっとずっと優しくなって。
第一騎士団長のライハルトもまた、毎日訓練の合間に私の様子を見に来るようになった。
ある日、彼は私の前に片膝をつき、深く頭を下げて言った。
「俺は……主君の命の恩人を、死に追いやろうとしていた。武人として、お顔を上げることすら恥ずかしい。ですが、どうか……どうかご命令を。あなた様をお守りするために、この剣と命、すべて捧げます」
「ライハルト様。どうか、そんなに思い詰めず、笑顔でいてください。あなたが元気でいてくれることが、私にとって一番の癒しです」
彼はそれから、私が訓練場を通りかかると、わざと明るく大きな声で挨拶をしてくれるようになった。
そして何より、ウォルフ様自身が変わり始めていた。
ある雪の夜、彼は私を厚い毛皮のコートで包み込み、城の最上階のバルコニーへと連れ出した。
猛吹雪はとうに止み、澄み切った夜空には無数の星が瞬いている。
「……寒くないか?」
「あなたがこうして抱きしめていてくれれば、平気です」
背後から私をすっぽりと包み込むように抱きしめた彼の、美しい銀色の髪が私の肩に落ちる。
「……俺はまだ、夢を見る。あの広間で、お前が血を吐いて倒れる夢を。お前を抱き上げた瞬間、もう息をしていなかった、あの恐ろしい夢を」
懺悔のように吐き出された声。
私は、私の腰に回された彼の腕を、そっと優しく撫でた。
「でも、今はこうして生きています。あなたの温かい魔力と、一緒に」
「ああ……そうだな」
彼は私の首筋に顔を深く埋め、祈るように熱い吐息を漏らした。
「ロザリア。俺はこれから、毎日お前に愛を伝える。言葉で、行動で、魔力で。……お前が『もう十分だ』と呆れて言うまで、絶対にやめない。それが、俺にできる唯一の贖罪だ」
私は彼の中で振り返り、その整った唇に、背伸びをしてそっとキスをした。
「十分だなんて、きっと一生言わないと思います」
「……ロザリア?」
「だって私は……十年間ずっと、あなたのその愛を待っていたんですから」
私の言葉に、ウォルフ様は息を呑み、やがて泣き笑いのような、どうしようもなく甘い表情を浮かべて、私を力強く抱きしめ返した。
それからの日々の一つ一つの触れ合いが、「生きていてくれてありがとう」という深い想いに満ちていた。
硝子の心臓はもう、二度と砕けない。
代わりに、今の私の胸の奥には、彼の温かい魔力と、ゆっくりと癒されていく互いの優しい傷跡がある。
北の果ての氷の城は、外に出ればまだ寒い。
けれど、私たちの間にあるものは、もうとっくに春を迎えていた。




