番外編 牢獄で狂気は愛の残骸を知る
北の最果て。
永遠の吹雪に閉ざされた『コキュートス重犯罪監獄』の最下層。
陽の光すら届かない極寒の石牢の中で、かつてクライス男爵と呼ばれていた男は、砕け散った両足の激痛に身をよじりながら、暗闇に向かって虚ろな声で囁き続けていた。
「マリア……あぁ、私の愛しいマリア。どこにいるんだい。もうすぐ、もうすぐ君を迎えに行けるはずだったのに……」
男の意識は、すでに冷たい牢獄にはない。
かつて彼が、世界のすべてよりも愛していた、たった一人の女性の幻影を追い続けていた。
彼にとって、妻であるマリアは光そのものだった。
没落しかかっていたクライス家をその笑顔で支え、不器用な彼を誰よりも愛してくれた。彼女と生涯を共にできるなら、男爵家の地位などどうなっても構わなかった。
しかし、運命は残酷だった。
マリアは、身籠った子を産み落とすと同時に、多量の血を流して息を引き取ったのだ。
『どうか、この子を……私たちの宝物を、愛してあげて』
それが、彼女の最期の言葉だった。
しかし、男の心は愛する者を失った絶望で完全に壊れてしまった。
彼に残されたのは、妻の命を食い破って生まれてきた「悪魔の子」だけだった。
ロザリアと名付けられたその娘は、成長するにつれて、残酷なほどにマリアと瓜二つの姿になっていった。
銀糸のような髪、伏せられた長い睫毛、そして、どこか儚げで優しい微笑み。
その顔を見るたびに、男の胸は激しい喪失感と怒りに引き裂かれた。
(なぜ、お前が生きている! マリアの命を奪っておいて、なぜマリアと同じ顔をして笑うんだ!!)
愛が深かった分だけ、憎悪もまた底なしだった。
彼は娘を虐待し、冷遇することでしか、己の精神を保つことができなかったのだ。
そしてある日、絶望の底にいた彼に、王都の裏社会に巣食う怪しげな闇魔術師が囁いた。
『極上の魔力触媒と、国を買えるほどの莫大な資金……そして高位の魔術師の力があれば。失われた魂をこの世に呼び戻す、禁忌の蘇生術は可能でございます』
それは、愚かな男を騙すための真っ赤な嘘だったのだろう。
だが、狂気に囚われていた男は、その言葉にすがりついた。
ロザリアが実家を追い出される直前に吐き出した血が、希少なマナ・クリスタルだと知った時、彼は狂喜した。
(マリアを……マリアを生き返らせることができる!)
ジュリアン子爵の甘言に乗り、あの猛吹雪のアイゼンブルク公爵領へ乗り込んだのも、すべてはそのためだった。
金の卵を産むロザリアを連れ戻し、血を絞り尽くして資金と触媒を得る。
あわよくば、自分を「恩人の父」として絶対王者の公爵に取り入れば、彼が持つ強大な魔力すらも、妻の蘇生のために利用できるかもしれない。
『大公爵家の義父として、王都で一番の権力を得られるはずだったのに!』
広間でそう叫んだ彼の真意は、ただただ「妻を取り戻すための力が手に入るはずだったのに」という、妄執の叫びだった。
しかし。
その狂った計画は、氷雪の公爵の圧倒的な力と、何よりもロザリア自身の「拒絶」によって、無惨に打ち砕かれた。
「……ああ、ああっ……」
「痛いっ! 痛いぃぃッ! 頼む、もう許してくれ!」
隣の鉄格子から、突如として耳障りな絶叫が響き渡った。
かつてロザリアの婚約者であった男、ジュリアン子爵だ。彼もまた、四肢を凍らされては砕かれるという終わりのない拷問の最中にいた。
「俺は子爵だぞ! なぜ俺がこんな目に……全部、全部あの出来損ないの女のせいだ! あの女の血さえ高く売れれば、俺は王都で一生贅沢して暮らせたのに!!」
ジュリアンは己の強欲さだけを嘆き、ただひたすらにロザリアを呪って醜く泣き喚いている。
その浅ましく見苦しい姿を、暗闇の中で認識した瞬間だった。
看守にかけられた治癒魔術によって、凍らされては砕かれる激痛の輪廻の中。
極限の苦痛で男の脳髄が冴え渡り、彼は、これまで己が目を背け続けてきた『本当の絶望』に辿り着いた。
(私は……何ということを……)
ジュリアンのように、金が欲しかったわけではない。
ただ、愛する妻を取り戻したかっただけだ。だが、自分がそのために犠牲にしようとしていたのは何だったのか。
ロザリア。
あの大広間で、恐ろしい魔将を庇うように立ち塞がり、すべてを許し、受け入れたような静かな眼差し。
あれは、かつて自分が世界で一番愛した、マリアの慈愛の瞳そのものだった。
娘の姿だけでなく、その気高さも、自己犠牲を厭わない優しい魂も。すべてが、愛する妻が命を懸けてこの世に残してくれた、紛れもない『マリアの命の続き』だったのだ。
妻の生まれ変わりとも言える愛の結晶を、自分は憎み、虐げ、あろうことか死地に追いやり、最後には己の妄執のために血を絞り取ろうとした。
自らの手で、妻の願いを、妻が遺したただ一つの宝物を、完全に壊してしまったのだ。
「あぁ……マリア、マリアァッ!!」
永遠に閉ざされた氷の牢獄で、男は絶叫した。
砕け散る肉体の痛みなど、もはやどうでもよかった。
隣で喚く哀れな男のように、彼もまた取り返しのつかない過ちを犯したのだ。
もし、一度でも。ほんの少しでも、あの娘を愛して抱きしめてやっていれば。
自分は今頃、妻の面影を持つ娘の温かな笑顔と、彼女を生涯守り抜くと誓った強大な義理の息子の庇護のもとで、穏やかに妻の思い出を語り合う老後を迎えていたはずなのだ。
取り返しのつかない後悔と、自らの狂気が招いた究極の喪失。
「許してくれ……ロザリア……マリア……許して、くれ……っ!」
彼は、誰にも届かない懺悔を叫びながら、凍りついた石の床に血の涙を流し続ける。
隣で響く下劣な命乞いの声と混ざり合いながら。
狂気から醒め、真実の愛の残骸を知ってしまった哀れな男には、死という救済すらも与えられることはないのだった。




