高二の春、フォームを変える
『恵の物語』
第31話 高二の春、フォームを変える
春休みの上川は、まだ冬の名残を抱えていた。
道路脇には薄汚れた雪が残り、朝の空気は頬を刺すほど冷たい。けれど、日差しだけは少しやわらかくなっている。
カフェ「雪」の窓ガラスにも、冬の白さとは違う光が差し込んでいた。
カウンターの奥で、雪がコーヒーを淹れている。
その香りを吸い込みながら、恵はテーブルに広げられたフォーム分析の資料を見つめていた。
高校二年の春。
上川恵は、もう“ただの天才少女”ではなかった。
オリンピックで金メダルを獲り、世界に名前を知られたジャンパー。
それでも今、彼女の前に置かれているのは、祝福の言葉ではない。
課題。
それも、かなり根の深い課題だった。
海斗コーチが、タブレットの映像を止める。
「ここだ」
画面には、踏切り直後の恵の姿が映っている。
スキー板の角度。
腰の位置。
肩の入り方。
腕の使い方。
見慣れた自分のフォームなのに、今日はやけに他人のように見えた。
海斗は淡々と言う。
「今のフォームは悪くない。むしろ世界で勝てるフォームだ」
恵は眉をひそめる。
「なら、なんで変えるべ?」
寄子コーチが、静かにカップを置いた。
「世界で勝てるフォームと、長く勝てるフォームは違うから」
その言葉で、店内の空気が少し締まった。
窓際に座っていたコスキネンコーチが、ゆっくり頷く。
「めぐ、今の飛びは強い。とても強いべ。でも、少し硬い」
「硬い……」
「んだ。風に勝ってる。でも、風と一緒にはまだ飛んでない」
恵は黙る。
それは、前にも言われたことがあった。
勝っている。
でも、硬い。
今の体だから成立している。
これから成長し、体格が変わり、筋肉のつき方が変われば、同じ飛び方では飛距離が伸びなくなる。
いや、場合によっては、怪我にもつながる。
海斗が映像をもう一度再生する。
「踏切りの瞬間、力が全部前に出ている。今はそれで飛べる。だが体が重くなった時、この力の出し方は板を押し潰す」
寄子が続ける。
「必要なのは、強さを減らすことじゃない。強さの逃がし方を覚えること」
コスキネンが日本語で言う。
「力を握りしめすぎない。少し、余白を作るべ」
恵は腕を組んだ。
「余白……」
何度も聞いた言葉だ。
カフェラテの泡。
ギャグコントの間。
風の窓。
理屈ではわかっている。
でも、ジャンプ台の上でそれをやるのは怖い。
勝ってきたフォームを変える。
それは、金メダルを獲った自分を一度疑うことでもあった。
恵は胸ポケットの鈴を指で弾いた。
ちりん。
「……怖いべさ」
雪が、カウンターの向こうで手を止める。
海斗は頷いた。
「怖くて当然だ」
寄子も優しく言う。
「怖さがあるから、丁寧に変えるの」
コスキネンが微笑んだ。
「壊すんじゃない。更新するべ」
恵は、ゆっくり息を吐いた。
「……更新か」
その時だった。
カフェのドアベルが鳴った。
ちりん。
全員が振り向く。
そこに立っていたのは、旅行バッグを抱えた二人組。
いや、二人組というより、騒音発生装置が二台。
博多の双子姉妹、光子と優子だった。
光子が大きく手を振る。
「めぐーー!!来たばい!!」
優子がすぐにツッコむ。
「朝から声デカすぎたい!ここカフェやけん!」
恵は目を丸くした。
「……は?」
雪が笑う。
「春休みに来るって言ってたでしょ」
恵は口を開けたまま、光子と優子を見る。
「いや、聞いてないべ!」
光子が胸を張る。
「サプライズたい!」
優子が呆れる。
「サプライズっていうか、事前連絡を雪さんにだけしてたんよ」
恵は額を押さえた。
「それ、うちにとっては奇襲だべ……」
コスキネンが立ち上がる。
「博多支部、到着だべ」
光子と優子が同時に反応する。
光子
「コスキネンさん!発音がさらに上達しとる!」
優子
「もう“だべ”が自然すぎるたい!」
コスキネンは得意げに言う。
「日々、更新しとるべ」
恵がすぐツッコむ。
「そこ更新するんじゃなくて、フォームを更新するんだべ!」
店内が笑いに包まれる。
けれど、光子と優子の目は、笑っているだけではなかった。
二人はテーブルの上の資料を見る。
フォーム映像。
風の記録。
着地の角度。
優子が少し真面目な声になる。
「フォーム変える話?」
恵は頷く。
「んだ。今のままだと、長くは勝てないって」
光子が椅子に座り、資料をじっと見る。
「なるほどねぇ」
恵は少し驚いた。
「光子が静かに資料見てるべ……」
優子が即座に言う。
「珍獣観察みたいに言うな」
光子は画面を指さした。
「めぐ、この踏切りの瞬間さ」
「ん?」
「なんか、“強い人が玄関のドアを押し開ける”みたいになっとる」
恵が固まる。
「……玄関?」
光子は身振りをつける。
「こう、バーン!って。『開けろー!うちが通るばい!』って感じ」
優子が横から言う。
「でも今後必要なのは、たぶん自動ドアたい」
一瞬、全員が黙った。
恵が眉を寄せる。
「……自動ドア?」
優子は頷く。
「そう。押して開けるんじゃなくて、近づいたらスッと開く感じ」
コスキネンが目を細める。
「……いい例えだべ」
海斗が腕を組む。
「続けろ」
光子が急に演技に入る。
「手動ドア役、光子です」
優子がすぐ合わせる。
「自動ドア役、優子です」
恵は嫌な予感で顔をしかめる。
「まさか、始まるべか?」
光子が低い声で言う。
「おい、自動ドア。最近お前、甘やかされすぎやろ」
優子が涼しい顔で返す。
「何が?」
光子
「人が近づくだけで開くとか、努力が足りん!」
優子
「いや、それが仕事たい」
光子
「こっちは毎回、押されて、引かれて、時には足で蹴られて、それでも開きよるんぞ!」
優子
「それはただの古いドアたい!」
カフェの常連客まで笑い出す。
恵は頭を抱える。
「フォーム分析からドアの喧嘩になったべ……」
光子はさらに続ける。
「手動ドア『わしは根性で開く!』」
優子
「自動ドア『根性よりセンサーたい』」
寄子が吹き出す。
「センサー……!」
コスキネンが、急に真剣になる。
「センサー。これ、大事」
恵が顔を上げる。
「え?」
コスキネンはタブレットの映像を指さした。
「今のめぐは、ドアを押してる。強い。でも、風を感じてから動くセンサーが少し遅い」
海斗も頷く。
「踏切りで力を出す前に、風と板の返りを感じる時間が足りない」
優子が言う。
「ほら。自動ドアたい」
光子が得意げに胸を張る。
「めぐ、これからは“自動ドアジャンプ”たい!」
恵は叫ぶ。
「ネーミングがダサすぎるべ!!」
雪が笑いながらコーヒーを追加する。
「でも、わかりやすいね」
寄子がノートに書き込む。
「押して開けるフォームから、感じて開くフォームへ」
海斗が短く言う。
「使える」
恵は信じられない顔で双子を見る。
「あんたたち、今の一瞬でヒント出したべか」
光子は笑う。
「何げない違いを見るって、そういうことたい」
優子も頷く。
「手動ドアと自動ドア。どっちも開くけど、開き方が違う。めぐのフォームも、飛ぶことは同じでも、飛び方を変えるってことやろ?」
恵は黙った。
確かにそうだ。
今のフォームは、押して開ける。
力で空気を割る。
でもこれから必要なのは、感じて開く。
風の流れを読んで、余白を持って、スッと入る。
自動ドア。
名前は最悪だ。
でも、感覚は妙にしっくり来た。
⸻
午後。
上川のジャンプ台。
春休みの風は、少し湿っていた。
恵はスタートバーに座る。
下には海斗。
横に寄子。
少し離れてコスキネン。
観客席の端には、光子と優子が並んでいる。
光子は手を振って叫ぶ。
「めぐー!自動ドアたい!」
優子がすかさず叫ぶ。
「押すなー!センサーで開けー!」
恵は顔をしかめる。
「うるせぇべさ……」
でも、胸の奥で何かがほどけていた。
白風の礼。
無音の一秒。
(押して開けない)
(近づいて、感じて、開く)
青信号。
バーを押す。
助走。
雪の音がまっすぐ伸びる。
踏切り台が近づく。
いつもなら、ここで力を前に出したくなる。
でも今日は違う。
足裏で板の返りを感じる。
風がわずかに頬をなでる。
肩を固めない。
腰を急がせない。
センサーで開く。
踏切り。
ふわっ、ではなく。
すっ。
空気の中に入った。
下から見ていたコスキネンが、静かに頷く。
「今の、いいべ」
海斗の目も動く。
「押してない」
寄子が息を呑む。
「余白がある」
恵は空中で、いつもより少しだけ楽に感じていた。
強く飛んでいるのに、力んでいない。
風に抵抗していないのに、落ちない。
着地。
スッ。
距離表示が出る。
練習ジャンプとしては、十分すぎる距離。
光子が立ち上がる。
「自動ドア、開いたーー!!」
優子
「いや、ジャンプ台でその実況やめんかい!」
恵は着地地点で振り返り、思わず笑った。
「……ほんとに開いたべさ」
⸻
その日の練習後。
カフェ「雪」では、反省会という名のコーヒータイムが開かれていた。
海斗が映像を見ながら言う。
「踏切りの押しが減った」
寄子が続ける。
「そのぶん、空中で姿勢を直す回数も減ってる」
コスキネンが頷く。
「めぐ、今日少し大人の飛びになったべ」
恵は照れくさそうにカップを持つ。
「まさか自動ドアでフォーム変わるとは思わなかったべ」
光子が真顔で言う。
「人類の進歩は、だいたい変な例えから始まるたい」
優子
「いや、そんな壮大にするな」
雪が笑う。
「でも、今日のは本当にヒントになったね」
恵は双子を見た。
「ありがと。正直、助かったべ」
光子と優子は、一瞬だけ照れた。
けれど、すぐに光子が言う。
「じゃあ次は、“回転寿司の皿がジャンプ台だったら”でいくたい!」
恵
「絶対いらんべ!」
優子
「いや、意外といけるかもしれん」
コスキネン
「皿は回る。風も回る。使えるべ」
海斗
「やめろ」
全員が笑った。
でも恵の中には、確かにひとつ新しい感覚が残っていた。
押して開けるのではなく、感じて開く。
春休みの上川で、
博多の双子が持ち込んだ妙なギャグコントは、
恵のフォームを一段先へ進めるきっかけになった。
窓の外では、春の風が小さく旗を揺らしている。
恵は胸の鈴を鳴らした。
ちりん。
「更新、始まったべさ」




