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Re◆Incarnation―知らずの闇の迷いの徒―  作者: 瑞白青維
4.何者
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断ち切る炎




◆  ◆  ◆





 体が揺れている。

 縦に横にと忙しなく、揺れている。

 黒く塗り潰された視界。

 自分の瞼が閉じているのか、開いた上でどこかおかしくなったのかは分からなかった。

 しかし分からないなりに、後者の可能性が高いように思えてならない。

 何故なら身体の自由が利かず、手足の感覚が酷く遠くに感じられたから。脳の指令である微弱な電気の受け取り先が消えてしまったのではと錯覚してしまう程に――つまりどこかおかしくなってしまったと思える程度には、自身の異常を感じ取っていた。

 けれど幸いなことに、どうやら全ての感覚が狂ったわけではなさそうだ。

 一定のリズムで刻まれる熱い空気の流れ。

 動かない体に寄り添う、ぬるま湯の様な心地よい温もり。

 揺れてはいるが揺さぶられないようになのか、外敵から守るように体に巻き付き姿勢を支えている大きな何か。

 そういった存在を感じながら、ああ自分は一人ではないらしいと結論付けた。

 すると急に目頭に熱が集中し、涙が膨れて溢れ出す。

 はらはらと頬を滑る雫はどれも駆け足で止まることを知らない。

 喉奥がきつく締め付けられるように痛む。

 呼吸が苦しい。

 これ以上ないくらい深く安心していた。

 同時に、それと同等の悲しみに打ちひしがれてもいた。

 その理由は分からない。

 ただ、予感があった。

 嫌な予感だ。

 煙を掴むような不確かなそれは、無視してしまうにはあまりに大きな不安を胸に刻んだ。

「こわい」

 思いが勝手に声を得てしまう。今まで不動を貫いていたためか、口周りの筋肉が痙攣し歯の根が合わず口内でカチカチと音が鳴る。

 その時。

「ああ、怖いな」

 返答があった。

 そのことにどれほど驚いたことか。

 どれほど救われたことか。

 頭上から降るその声は輪郭が朧気で、距離感が掴めない。

 が、きっと近くにいてくれているはずだと直感が叫んでいた。

 声の主は自分を守ってくれているのだと、不明瞭な状況の中で何故かそれだけは揺らぐことなく信じることができた。

 なのに、安堵と悲愴がぐちゃぐちゃに掻き回されて生まれ続ける涙だけは、どうしても止まってはくれなかった。



 ああ、とまた思う。



 きっとこの人は死んでしまう――。



「さよなら」

 告げられた言葉が別れのそれであると気づいた時には、彼は既に背を向けていた。

 追いかけなければ。

 思ったが、身体は鉛のように重く動かなかった。

 それでも腕を前へ伸ばし地べたを這うと、べちゃっと水溜まりに拳が浸かった。

 赤い、水溜まり。

 先へ先へと長く続くそれを視線でなぞり上げると、離れ行く彼の背に目が留まる。

 呼吸が止まってしまいそうだった。

 このまま行かせてはいけない。

 何か、何でもいいから、何かを彼に残さなければ。

 必死に思考を回転させ、真っ先に頭に浮かんだ言葉を伝えるべく口を開いた。





◆  ◆  ◆





「はく、……げほ、ごほごほっ!」

 息が詰まり、(さや)は激しく咳込む。

 喉を突き刺す痛みと共に涙腺から水分が無理矢理押し出されていく。

 全身が痺れていた。が、平衡感覚と足並みを揃えて、それも少しずつ引いているようだった。

 自分がどこかに仰向けで横たわっていることを知る。けれど数度瞬いても現実感は希薄なままである。

 というのも。

 視界は真っ白。

 痛みのない眩しさが無言で天から降り注いでいた。

 どこだここは。

 自問して即座に「アホか俺は」と内心でツッコむ。

 白鵲(はくじゃく)の巣に、いるんだろう?

 呼吸が落ち着いてきた所で重い上体をどうにか起こす。

 空咳。

 手足の感覚が大分冴えてきた。

 目元を擦り、再度顔を上向けて。

 ぎょっとした。

 これは何だ。

 幾つもの巨大な「白」が、円を描くように頭上をゆらゆらと揺蕩っているではないか。

 一つ一つの大きさは様々なようだが、小さいものでも直径五mはありそうなそれの周囲を花弁もどきが舞っている。否、正しくは「白」の表面から剝がれるように別たれたそれが花弁もどきとして無邪気に踊っているようだった。

 これから生まれるものだったのか。

 思いがけず知ることになった事実に状況など忘れて胸が高鳴る。仮に、表で雪の誕生を見届けたとしてもこんな気持ちにはならないだろう。

 それは祝福を絵に描いたように、やわく温かな光景だった。

 なのにどういうわけか。

 ほろっと、先程とは違う理由で涙の雫が頬を濡らす。

 理由は分からない。ただなんとなく、水を吸った紙に絵の具が滲むように、胸中にじわりと広がるような寂しさを感じたのだ。

「なんでだろ。綺麗だと思うけど」

 袖で押さえるように涙を拭っていると。

『やはり痛みますか?』

 突如、眼前に文字が浮かび上がった。

「わっ!?」

 光爆ぜる花火で宙をなぞったような、しかし実際のそれよりも大分読みやすい文字は空に溶けるように消えてしまう。

「なに? なに今の、……けほっ」

 目を白黒させていると、つん、と控えめに肩を後ろから突かれる。

 反射的に振り返り、声もなく驚く。

 すぐ隣。

 いつからそうしていたのだろうか。見覚えのある人物が座していた。

 耳裏から後頭部にかけて刈り上げられた黒髪。誠実そうでありながら、どこか無機質な印象も受ける赤い瞳。たしか自分と同じくらいの身長だったように記憶していたが、服の上からでも自分にはない鍛えられた厚みが感じられる肉体。すっと背筋を伸ばしてそこにいるだけで、その身に鎧を纏っているような、彼自身が何かを守る鎧のような、何にも動じぬと言わんばかりの静けさを感じる。

 まだ一言も話したことのない彼の名は。

「アカツキ君、ですよね」

 掠れた声で呼びかけるも彼は閉口を貫く。

 だが、返答はあった。

『はい』

 先程同様、文字で。

 確かめるようにアカツキの方を見る。

 彼の表情は凪いでいたが、ゆっくりと動いた眼球はこちらを見ていた。

 再び宙に文字が光る。

『怪我の状態を確認しましたが、見たところ(さや)さんは軽傷でした』

『ただ、結界の外にいた時間が長いと聞いています』

『内側は満理(みつり)先生か(おぼろ)に見ていただかないと何ともです』

『つらいかもしれませんが、もう少し耐えてください』

「えっと、はい」

『あと、俺は声が出せないので、話しはこれでさせてください』

「えっ、……わ、かりました」

 一文ずつ一定の間隔を置いて伝えられた爆弾もありつつ無駄のない説明に、それしか返すことができない。

 疑問は頭にポンポン浮かぶが、それをアカツキにぶつけるにも、思考の回転速度を上げるにも、圧倒的に気力が足りない。今は気を抜けばぐったりと伏せてしまいそうな姿勢を保つことに注力する他ないのだ。生じる疑問は一切合切無視し、取り敢えずは「そういうものか」と思っておこう。

 順応しようと決めた――そんな時に限って、次なる疑問が即座に転がり込んでくるのはなぜなのだろうか。

「え!? 壱喜(いちき)君! ミハルさん! ……と、ホシウミさん? どうしたんですか? 一体何があったんですか?」

 アカツキを挟んだ向こう側。

 三人が丁寧な川の字に寝かされていた。みな怪我や黒ずんだ汚れに塗れボロボロで、何かあったことなど一目瞭然だ。

『霊力・体力ともに酷く消費しています』

『今は寝かせてあげてください』

「あ、すみません」

 青かった顔色をさらに青くして取り乱す(さや)を軽くあしらい、アカツキはどこか遠くへ視線を投げる。

 大きな声を出してしまったことを反省しつつ、(さや)も彼の視線を追いかけた。赤眼の動きに、特定の何かを捉えようとする明確な意思を感じたためだ。

 (さや)たちは断崖絶壁の崖の傍というか、高く連なる山の頂上の一つというか、そんな場所にいるらしかった。

 そこはある程度、広大に続くこの白銀の世界を見晴るかすことのできる場所だった。

 だからアカツキが何を見ていたのか容易に掴むことができたのかもしれない。あるいは、あれの他を圧倒する存在感に自然と目を引き付けられてしまっただけなのかもしれなかった。

 遠く離れた場所に、巨大な氷塊が寝そべっていた。

 その形はなんとなく花に似ている。まるで泥中で咲く蓮のように、花冠だけ水中から顔を出しているかのような姿だった。

 かといって、(さや)にはそこに美しさを見出すことが欠片もできなかった。

 あれは花を模した邪悪の塊であることを本能が察していた。

 美しいどころか、その禍々しさに全身の皮膚が粟立っていくのが分かる。

 よく今まで気づかなかったなと、そこにこそ疑心が生じてしまった。

 と。

 氷塊の上を何かが動いていた。

 じっと目を凝らす。

 この世界では最も特徴的と言っても過言ではないあの金の髪は。

「え?」

 豆粒のような小ささで移動と静止を繰り返していたのは朧狐(おぼろぎつね)だ。

(おぼろ)さん、あんなところで何を」

虚飾(きょしょく)の神への対応中です』

 内声が音を得ただけだったがアカツキは問われたと思ったのか、すかさず教えてくれる。

 (さや)がちらりと横を見やるも、彼の瞳はこちらに向かない。相手がそうなら自分もそれでいいかと、自身も視線を氷塊へ戻した。

「きょしょく」

壱喜(いちき)が本を貸していると聞きました』

『読まれましたか?』

「すみません、巣のことが知りたくて関連するページばかり読んでいたかも」

 感情の読めない質問。気まずさに(さや)の声は萎んでいくが、アカツキは一つ頷き、実に淡々と文章を並べていく。

虚飾(きょしょく)の神とは、近年よく見られるようになった、人に忘れ去られた神の最期の姿です』

『神は人に記憶されていることで存在を保っています』

『故に忘却は死を意味する』

『しかし死を受け入れられずこの世に執着し、神を忘れた人々への恨み辛みを積らせると神格が堕ちてしまう』

『自己も他者も分からなくなり、怨嗟をまき散らして暴れる空っぽの神――虚飾(きょしょく)の神へと成れ果てます』

『今日はそれが表より二柱送られてきました』

『あそこに転がるのが二柱目です』

(おぼろ)が神気で動きを封じました』

「あれが、神様……?」

 ピンと来なかった。

 神と呼ばれる存在に実際に会ったことのない(さや)でも、あれを神と呼称することには違和感があった。

 神というのはこう、雅な着物を纏った人の姿をしていて、出会ったら拝みたくなるような不思議な求心力を持った存在なのかとばかり思っていた。

 今遠くで花を模した氷塊となっているあれは予想を遥かに超えた大きさをしているし、何というか、そもそも決まった形を持っていないものに無理矢理形を与えたように見えなくもない。

 ああなる前は一体どんな姿をしていたのだろうか。

『一柱目は(おぼろ)が既に対処済です』

「え!? ああ、まあ、お強い? ですもんね?」

『あなたが気を失っている間に星海(ほしうみ)が二柱目と交戦したようですが、手に負えず(おぼろ)とバトンタッチしました』

「ホシウミさんも!? じゃあもしかして、壱喜(いちき)君もミハルさんも戦ったんですか? それで怪我か何かされたとか?

 っていうか俺、ホシウミさんに外でなんかされそうになって、……それで……その後は……?」

『いろいろありました』

 思い出そうと(さや)が頭を捻るも、これ以上ないほどざっくりとまとめられてしまった。

「いろいろ?」

『それは追々』

 時系列のダイナミックさもさることながら、会話の温度差がすごいのなんの。

 アカツキの表情筋はピクリとも動かない。横でああだこうだと狼狽する自分が馬鹿みたいだ。驚いているのも慌てているのも本当なのでどうしようもないのだが。

「でも(おぼろ)さん、対処ってあそこで何して――」

 言いかけた時。

 朧狐(おぼろぎつね)の頭上で三度、大きく光が瞬いた。

 認めた(さや)が口を開くよりも早く、おもむろにアカツキが立ち上がり、空に向けて何かをぶん投げる。

 「体育会系だ」。思わず呟く。と、今度は頭上で青い花火が小さく花開く。些か可愛すぎるサイズだった。

「どっちも綺麗ですね。何ですか、これ?」

 疲労の蓄積された頭で何気なく尋ねる。

 その間にも、アカツキは素早く元の位置に座り込むと指で印を組み「ふっ」と短く息を吐く。

 刹那、(さや)は初めて結界という障壁を目にすることになった。

 自分達を囲む形で複雑に組み上がる透明色の半円。それが一層、二層、三層まで重ねられる。

 たった一瞬で終結した緻密且つ繊細で芸術的な作業に、目をかっぴらいて固まってしまう。

「い、まの……」

『これは合図です』

(おぼろ)から合図があったので返しました』

「ん? ああ、そういう」

 そっちではないのだが。

 余韻が抜けずに呆けていたために、つい反応が鈍くなってしまう。

 それもあってのことだったのかもしれない。

『今からあの虚飾(きょしょく)の神を(おぼろ)が殺します』

 アカツキが送る文章に言葉を失ってしまったのは。

 ひゅう、と高い風音が鼓膜を揺らす。

 結構強く風が吹いていたんだな、とか。

 冷え切った身体には吐息さえも温かく感じるんだな、とか。

 関係のないことばかりに思考を割いてしまって、現実逃避とはこういうことかと一人納得してしまった。

「なんで?」

 たっぷり間を置いたくせに、やっと言えた言葉がそれだ。

 頭の中にはもっといろんな言葉が飛び交っていたが、なんとかすぐに口にできそうなものはこれだけだったのだ。

 (さや)の受けた衝撃を知ってか知らずか、アカツキの綴る文字にはにべもない。

虚飾(きょしょく)の神は力尽きて消えるか、殺されて消えるかしか道が残されていません』

『どの道死にますが、活動している間、周囲には甚大な被害が生じます』

『また、活動している神自身も身を焼かれるような苦しみを味わい続けているのだそうです』

『だから早々に命を絶つことが人にとっても神にとっても最善なんです』

「ちょっと、待ってください。神様なんですよね? それで、その、(おぼろ)さんは半神、でしたっけ? なんで(おぼろ)さんが殺すんですか? 仲間ではないんですか?」

 動揺がそのまま声音に反映されていく。

 この状況は、ホシウミとまるで逆だ。

 壱喜(いちき)(さや)の命を断とうとするホシウミを止めたがっていた。(さや)のことも守ろうとしてくれた。ホシウミのために。(さや)のために。

 ならば朧狐(おぼろぎつね)にだって、それは当てはまるのではないのか。

 朧狐(おぼろぎつね)のためにも、殺すなんて簡単に容認すべきではないのではないか。

 虚飾(きょしょく)の神のことはまだ(さや)にはよく分からないが、殺されることが正しいことのように言い切ってしまうのは早計ではないのか。

 汗を吸った服が纏わりついて気持ち悪い中、そこに冷や汗が追加で混入して不快感ばかりが増していく。

 何かとてつもなく嫌な感じがした。

(おぼろ)とあれは仲間ではありません』

『先程も言いましたが、あれはほっとくと厄災を振り撒きます』

(さや)さん、今身体が普段よりずっと重く感じませんか?』

『それは白鵲(はくじゃく)の巣のこともありますが、虚飾(きょしょく)の神の神気の影響を受けているからでもあります』

(おぼろ)が来てくれたからこの程度で済んでいますが、彼がいなければあなたはこの場にいるだけで死んでいた可能性もあります』

『我々は身を守る術を知っていますが、それでもぎりぎりです』

『早々に命を絶つことが最善とはそういうことです』

 相も変わらずアカツキはこちらを見ようとしない。あくまでも、どこまでも機械的だ。(さや)の話に耳を傾けてくれてはいるが、こちらの心情を慮る様な言動や、彼自身の考えを書き連ねるような様子は一切ない。

 壱喜(いちき)のように、彼が自らの感情を吐露してくれたら(さや)はどんなに救われたことだろう。相手の意図が読めないこの状況は、今の(さや)には普段よりも何十倍も堪えるものだった。

「……妖も、ああいった神も、表から送られてくるんですよね? どうして表で対処しないんですか? 今日だけで二柱って、そんなのあんまりじゃないですか?」

『妖ならともかく、神は人では殺せません』

『現状、最小限の被害で虚飾(きょしょく)の神を殺せるのは日本中を探しても(おぼろ)以外にいるかどうか』

「な」

(おぼろ)は半神ですから』

「でも」

『始まります』

 言い募ろうとする声を制するように、アカツキが「しぃっ」と細く息を鳴らす。

『衝撃に備えてください』

 光を帯びた文字が(さや)の視界をやさしく飾る。

『どうか、目を逸らさずによく見ていてください』

『これはこの世界の日常です』

 赤眼は依然、前だけを見据える。

 まるで何一つ見逃したくはないと、目の前の光景に強くしがみ付くようにじっと前だけを見つめていた。

 だから(さや)も、揺れる瞳を同じ方へ向けた。

 目を背けてはいけない。

 恐怖に彩られた自分自身へそう言い聞かせて。





 朧狐(おぼろぎつね)は凹凸の激しい氷塊の天辺、その中央付近で足を止めていた。

 膝を付き地面に向けて何かをしているようだが、詳細を見て取ることは(さや)にはできない。

 彼はしばらくそうしていたが、ある時勢いよく立ち上がると空へ向けて手を掲げる。

 すると、(さや)の頭上の「白」から何かが飛び立った。

 流星だ。

 長い尾を伸ばした星が真直ぐに朧狐(おぼろぎつね)の元へ飛んでいく。

 彼の手に吸い寄せられていったそれは美しい刃へと姿を変え、

 唐突に、ごおおと音を立て燃え盛る青い炎を纏った。

 とても大きな炎だった。

 ともすれば、朧狐(おぼろぎつね)ごと呑み込んでしまうのではないかと思えるほどに。

 朧狐(おぼろぎつね)の両手は剣ごと炎を握り締めている。が、熱くはないのか。彼は悠然とその場に立ち続けていた。

 逆手に持ち替えられ剣先が下を向く。

 ほんの少し間が空いて、

 氷塊に剣が沈む。

 次の瞬間。

 キャアアアアァァアアぁぁぁぁ――――嗚呼嗚呼嗚呼アアアアアアアア!

 世界を揺さぶったのは高低様々な声が斑となった断末魔だった。

 それは(さや)の鼓膜を引き裂く勢いで脳内に侵入し、好き勝手に爪を立て、抉り、貪っては脳天を突き抜ける。それほどまでに暴力的で破壊的な声。叫びよりも訴えに近い声。

 遅れて大地がひび割れ、その破片が突風とともに(さや)たちを襲う。

 飛来物を受け、結界が絶え間なく軋み罅割れていく。

 一際大きな岩が衝突し、結界の一層目が弾け飛ぶ。

 硝子の砕けるような音を僅かに捉え、(さや)の中に現実感が帰って来た。

 はっとするも息ができない。何かに首を絞められているような圧迫感に、血液が首から上で渋滞し始める。気持ち悪い。吐きたい。でも吐けない。口を開く。唾液ばかりが膝に垂れていく。目頭が燃えるように熱い。

『手を放してください』

 視野に黒い靄がかかる中、チカチカと光るものがあることを認めた。

 すると、急に喉のつかえが外れた。

 大量の酸素が一気に肺を満たしていく。

 その反動で咽て、身を倒しながら咳き込んでいるとじわじわと他の感覚が蘇ってくるのを感じた。

 大きな手に背中が擦られている。

『ゆっくり息を吸って』

 アカツキに示されるがまま、懸命に肺を膨らませる。息を吐く。頭に酸素が回り、これが正しかったのかと体が分かってしまえばあとは同じことを繰り返すだけだ。

 気付くと、あの声も風も止んでいた。やけに自分の呼気が大きく聞こえる。目を閉じると鼓動もばくばくと未だに疾走していることを知った。

 危機感の足りない主に代わって、身体は必死に頑張ってくれていたらしい。

 短い時間だったかもしれないし、長い時間だったかもしれない。

 頭痛はあったが、しばらく休むと呼吸も安定し、視界がクリアになってきた。

 身体に力を込めるとぐわんぐわんと耳奥にあの声の余韻があったが、振り払うようにして上体を起こす。

 と。

「……? アカツキ君……、なんで俺の腕、押さえてるんですか……?」

 いつこうされたのだろうか。(さや)の左腕にはやんわりと押さえつけるようにアカツキの手が重ねられていた。

 思わずぱちぱちと目を瞬かせてしまう。

 アカツキは意味のないことをやるような人には思えない。故に理由あってのことなのだろうとは思うのだが、(さや)の行動の妨げになりようもない力加減といい、一体何があって何のための手段だというのか。

『正気に戻りましたか?』

「はい?」

『いいえ、こちらの話です』

「はあ」

 涼しい顔で一人得心のいったらしいアカツキは立ち上がり、傍に横たわる壱喜(いちき)たちの様子を念入りに確認し始める。

 いくら結界で守られていたとはいえ、無防備な状態で先の衝撃を受け止めるのは体に酷だろうと、(さや)でさえぼんやり思う。

 自分も何か手伝った方がいいのだろうか。そうは思うが、何ができるだろうかと考えると身体に力が入らない。首を巡らせ周囲の様子を伺うことですら億劫に思えてならない。

 あ。

 (おぼろ)さん。

 この状況下で彼のことを思い出せたのは奇跡的なことだった。

 のろのろと顔を上げ、落ちそうになる瞼を叱咤して白銀の中にその姿を探す。

 彼の上着も白いので少々手間取ったが、見つけた。

 氷塊は跡形も無く消えていた。まるで初めから存在さえしていなかったかのような完全なる消失だ。

 そして朧狐(おぼろぎつね)は、高さだけ動いたのだろう。元々彼がいた位置から目線をぐっと、これでもかと下げた更地に彼は佇んでいた。

 彼の手にする刃にはまだ小さく青い炎が寄り添っている。既に勢いの欠いた(ともしび)のような光が彼の姿を幽鬼のようにぼんやりと白い大地に浮かび上がらせていた。

 怖い。

 (さや)は率直に思った。

 何がなんて分からない。けれど胸に風穴でも迎えたような空虚な冷感があった。それなのに、温感のバランスの悪いことに顔は強く熱されて、ふっくらとした涙が幾つか頬を駆けていくのだ。

 やがて炎は消え失せ、朧狐(おぼろぎつね)の手には雪のように白く美しい剣だけが残された。

 朧狐(おぼろぎつね)が顔を上げる。

 多分、目が合った。

 彼は手を振るように(さや)に向けて剣を振るが、あまりの遠さに、(さや)には彼がどのような顔をしているのか全く分からない。

 どう応じたらよいものか迷っていたその時。

『伏せて』

 (さや)の眼前に文字が煌めく。

 身体を強く押され、傾いた上体に引っ張られる形で地に倒れ伏す。

「ぐっ」

 呻くのと同時。

 視界の端で鋭く光るものがあった。

 影が、(さや)に覆い被さってくる。

 (さや)は反射的に硬く目を閉じた。

 衝撃に備えて身を硬くする。

 しかし幾分か時が過ぎてもそれが訪れない。

 何事かと思いそろそろと目を開けると。

「邪魔しないで! 放して!」

 飛び込んできた光景に驚愕した。

 なんと、ボロボロのホシウミがアカツキによって取り押さえられていたのだ。彼女の細い両腕は逞しい腕一本に捻り上げられ、小さな背中には膝を押し込まれている。時折「かはっ」と苦し気に空咳している様子からも、共に生活する仲間だろうと妥協を許さないアカツキの姿勢が窺える。

 呆然と事態を見守ることしかできない(さや)の前で、ホシウミが不自然な間を置いてアカツキに吠えたてるという不思議な舌戦が繰り広げられる。恐らくアカツキも彼女に文字を通して何らかのメッセージを伝えているのだろうが、どういうわけか今の(さや)にはアカツキの言葉を目にすることはできなかった。

「今日止めたって無駄だよ! 僕は絶対こいつを殺してやる! こんな奴に、こんな奴に何もかも奪われて堪るかっ!」

 ほとんど呼気に近い怒号。

 完全に身動きを封じられているにも関わらず、憎悪に燃え滾る彼女の目は殺意を衰えさせることなく(さや)だけを射抜いてくる。

 一体何が彼女をこうも突き動かすのだろう。

 刺さる視線から逃れることもできず、真直ぐに受け止めてしまった(さや)の背筋が凍り付く。

 彼女にとって自分は弱者。

 自分にとって彼女は強者。

 この身にしかと刻み込まれた力関係を鑑みても、ホシウミの必死さは異常だった。

 自分のことが気に入らないのは、まあ分かる。だが殺すことに拘るのは何故だ。明らかに弱い他者を、周囲の反対を押し切ってまで狙いに来ることにどんなメリットがあるというのか。

「あの」

 (さや)が口を開きかけると、「こら」と間に入る者があった。

「何やってるんだよ星海(ほしうみ)

(おぼろ)さん!?」

 笑みを含んだ、拍子抜けするほど軽やかな声。

 いつやって来たのか。拘束されるホシウミの傍にちょこんと座り込む朧狐(おぼろぎつね)の姿があった。

「はいはいっ。朧狐(おぼろぎつね)こと俺なんだけどー、すまなかったな(さや)。大変な目に遭わせてしまった」

「いえ、別に(おぼろ)さんの所為ではないので……」

 驚きを示すのは(さや)ばかりでアカツキもホシウミも慣れているのか、彼の突然の登場には全く反応を示さない。むしろこうなることをどこかで分かっていたかのような空気感があった。

(あかつき)、押さえてくれてありがとな。でもそれきついと思うから俺と交換して」

 こくり。

 一つ頷いて朧狐(おぼろぎつね)にホシウミを預けるアカツキ。彼はそのまま壱喜(いちき)やミハルの元へ戻ってしまう。

 一方ホシウミは、開放的になった肺の力を借りて「触るな」やら「来るな」やら喚きながらも強制的に朧狐(おぼろぎつね)に向かい合わせで手を取られてしまう始末だ。

 なんか絵面が一気に、ぞっとするほど微笑ましくなってしまった。

「それで? 星海(ほしうみ)は何をそんなに怒ってるんだ?」

 小さい子にするようにやわやわと左右の手を握られ、ついでにふらふらと揺らして遊ばれているホシウミは、満身創痍なのを無理矢理度外視すればただの可愛らしい女の子だ。そう、我儘が通らなくて怒っている、街中でたまに見かける子どものようだった。

(おぼろ)が簡単にあんなの住ませるとか言うから悪いんだ! 殺すからさっさとどいて!」

 ギャン! と狂犬よろしく牙を剥いてみせるも、何故だろう。相対しているのが朧狐(おぼろぎつね)だからだろうか、(さや)が受ける恐怖は半減している。でも「あんなの」呼ばわりなんてされいるのだから、本当はもう少し傷ついてもいいのかもしれない。

 直視している朧狐(おぼろぎつね)などはどこ吹く風という感じで、むしろ目元を和らげ可愛いものを見る時の眼差しで彼女と話を続ける。

「殺すとは物騒だな。星海(ほしうみ)にそんなことさせるわけないだろう」

「じゃあ(おぼろ)が殺して! できる!? できないでしょ!?」

「考えたこともないな」

「ほら! じゃあ僕がやるしかないじゃん!」

「いや、そもそも殺さなくていいんだよ。不満があるなら聞くし、解決できることなら解決するから。な?」

「たまには僕の言うことも聞けよっ!」

「聞くよ。聞きたいから教えてほしいって――」

「そういうことじゃない!」

 (さや)ははっとする。

 ホシウミの纏う空気が変わったような気がした。

 彼女が朧狐(おぼろぎつね)を突き飛ばす。

 しかしその力はあまりに弱々しい。両者の距離は変わらず、互いの手が解けただけだ。

 重い沈黙が場を支配する。

 数拍分の心音を聴いた頃。

「……ぅっ」

 項垂れたホシウミの唇から嗚咽が零れた。

 ぱたっ。

 僅かな音をたて、朧狐(おぼろぎつね)の袴に彼女の涙が落ちていく。

 (さや)は思わぬ展開にぎょっと目を見開く。

 それはアカツキも同じだったようで、初めて(さや)とアカツキは無意味にアイコンタクトした。

 ホシウミの涙を真正面から受け止め、それでも穏やかに微笑んでいるのは朧狐(おぼろぎつね)だけだ。

「もう僕は、ずっと前から(おぼろ)にお願い事、してるよ。なのに、……それもダメなのに、今更話聞くなんて言われたって、全然響かないんだから」

 傍に控える(さや)たちの存在を忘れたかのように、今まで強気で常に相手を見下す素振りでいたホシウミの声がか細く震えている。何かに打ちひしがれ絶望したかのような声音は、聞いているこちらの胸が痛くなるほどに切実なものだった。

「……星海(ほしうみ)、そのことは悪いと思ってる。けど俺にもできることとできないことがあるから、そこは分かってほしい。本当に、それはごめん。

 今回のお願いも聞けないけど、ちゃんと話し合おう。星海(ほしうみ)(さや)も納得できる解決方法が簡単に見つかるとは思ってないけど、(さや)だって来たくてこの世界に来たわけじゃないって言ってたし」

「嫌いだ。(おぼろ)なんて」

 やけに明瞭に放たれた言葉は抑揚も無く冷め切っていて、話に全く関係のない(さや)の心を抉った。

 朧狐(おぼろぎつね)も多少驚いているのか、目を見開いて微動だにしない。

 ホシウミはさらに続ける。

「僕の声に耳を傾けてくれないお前なんか嫌いだ。僕の痛みに応えてくれないお前なんか嫌いだ。嫌い。嫌い。大っ嫌い」

 しんと、水を打ったように場が静まり返る。

 痛いほどの沈黙。

 鼓動がみなに聞こえてしまうのではないか。(さや)がそう錯覚するほどの、張り詰めた嫌な時間が流れていく。

「そっか」

 ホシウミに応えるべき人はやはり笑んでいた。とてもやさしい声音は、先程のやり取りが嘘のように、けれどしっかりと先の彼女の言葉に応えていく。

「分かった。でも俺は星海(ほしうみ)のことが大好きだよ」

「うるさい。あっち行って」

「うん、分かった」

 ぴしゃりと跳ね退けられたがそんなことは歯牙にもかけないのか、朧狐(おぼろぎつね)は立ち上がると簡単にホシウミの傍を離れていく。彼はアカツキの前に膝を付き、これからのことを手短に伝えているようだった。

 「俺が三人運ぶから星海(ほしうみ)(あかつき)が」などという会話が漏れ聞こえるが、(さや)の視線はホシウミの背中に留まったままだ。

 彼女の小さな肩は震えていた。

 嫌いだと相手を拒絶した少女が背中を丸め、両手で顔を覆い隠して泣いている。

 ……どう、したらいいだろう。

 そんなことを思ってみてもどうしようもない。

 分かっていてもその思考から離れることができない。

 自分が原因……とまでは思わないが、自分の存在が多分に影響して出来上がった状況であることは間違いないのだ。

 どうしたらいい?

 どうすべき?

 そもそも二人はこれでいいのか?

 「嫌い」と言った方も言われた方もこれでいいのか?

 後で仲直りするよね? 二人は長く一緒に暮らしてるんだし。喧嘩だってきっと何度もしてきているのだろう。

 ……え、仲直りするんだよね?

「よし、邸に戻ろう。みんな手当てしないとな」

 胸中の靄の扱いに戸惑う(さや)とは相反する晴れやかな声と共に、眼前に朧狐(おぼろぎつね)の手が差し伸べられる。

 それをじっと凝視して思い出されるのは、つい先ほどまで氷塊としてこの世界に存在していた虚飾(きょしょく)の神のことである。

 この手は、強大な力を以てして虚飾(きょしょく)の神を殺したばかりの、これから大人になろうとしている、未だ子どもの、(さや)のものよりも少し小さな手。

 それを取るか取らないか、逡巡したのは瞬きの間のことだった。

 だが察しのいい彼は、出会った時のように(さや)をいとも容易く担ぎ上げてしまう。

 それが、酷く申し訳なかった。





 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 また遅い更新となってしまいましたが、なんとか新たなお話を迎えることができたことが嬉しいです。戦闘の描写は勿論楽しいのですが、今回のような気持ちのぶつかり合いというのもとても好きな場面になります。ちゃんと書けているかはともかく、ちょこちょこ直しも入れつつできる限り想像を形にできるようにしたいものです。

 現在次回の更新日を決められる状況にないので、また気分で書き進めて更新していくことになると思います。何かのご縁でまた読んでいただけることができましたら幸いです。

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