世界が口を結ぶまで
朧狐に久遠と話したことを大まかに伝えると、彼は朗笑し「なんか楽しそう」と感想を口にした。
「楽しそうって……」
「多分、なんでも不思議がってくれる鞘の反応が面白かったんじゃないか? やけに回りくどい言い方してたみたいだし。遊ばれちゃったかもな」
そんなまさかと思いかけて、「あはは! 良い反応」と目を細めた彼女の顔が脳裏を過る。
だとしたらあの人、普通に嫌な人ということにならないか。
「久遠なりに鞘のこと気に入ったんだと思う。いい奴だからきっと仲良くなれるよ」
「えー……あはは」
それらしい情報もなしに「いい奴」と言われても。胸中の呟きを野に放てないまま、ひとまず笑ってごまかしておく。仮にそうなのだとしても何が気に入られてしまったんだと、そこばかりが気になって気もそぞろになってしまう。
「それより、『意味が分からなくて』なんて言うわりに落ち着いてるんだな」
その指摘に、鞘は顔を上向け低く唸った。
視線の先、今朝方赤かった空は今は藍白に支配されている。
昨日は天候や花弁もどきに視界を遮られていただけで、ここにもちゃんと色彩豊かな空があることを今日知った。太陽はないけれど、それに代わる光はちゃんと輝いている。
上空を独占する光の環。約二四時間ぶりにお目にかかったそれは、本日もその輪郭を自身の放つ光で隠していた。
ふとそれを見ていて、この世界には太陽が不要なのだろう思う。きっとあれが太陽であり月なのだろう、と。
正解でも不正解でも特に困りはしない。とにかく太陽はない。新たな気付きここにありだ。
「怖い思いをしたり混乱したり、驚いてばかりなんですけど、この世界って見たことない色とか景色とかたくさんあるんです。そういう、驚き過ぎたのと物珍しさとで落ち着いてるように見えてるだけかもしれません。なんだろう、衝撃と感動を交互に味わってる感じですかね。あ、でも本当はフリーズしてるだけかも」
「なるほど。まあ、仮にフリーズしてるだけだとしても、怖いばっかりの場所ってわけじゃなさそうなのはよかったよ。
……それじゃこういうこと言ってもあんまり驚かないかもな」
「何です?」
「鞘にはしばらくここに住んでもらうことになる」
ざり、ざり、という二人分の足音がやけに大きく鼓膜を震わせる。
表情をなくす鞘を見て、朧狐は呼気だけで笑った。
「驚いたな?」
「……そりゃあ、そんなこと言われたらそれなりには」
「他に何か思うことは?」
「多分、感情ガ事態ニ追イツケテマセンネ」
棒読みで返すと、「だよなぁ」と彼の気の抜けた声。
「期間、とかは」
「一・二ヶ月くらい」
「具体的なんだか曖昧なんだか」
「うん」
「理由は……?」
「この世界にお前が来れてしまったからだ」
「え? いや、確かに来れたから今ここにはいますけど……それが理由?」
住むことと来れたこと。一体そこに何の繋がりがあるというのか。
朧狐はほんの少しだけ眉を下げ、先の鞘のように光の環へ視線を投じる。
「この世界の管理者は俺だ。俺が許可しなければ、白鵲の巣には入ることも出ることも不可能。本来ならそういうことになっている。
でもお前は来た。偶然であっても来れてしまった。言い方を変えれば、俺の許可なく侵入できてしまったということになる」
「侵入? そんなつもりはっ」
さすがに狼狽し声を上げた。悪意があって真白の大地を踏んだわけではない。断じて違うと、それだけは自信を持って主張できる。
「分かっているさ」
「いだ」
ばしんっと背中を押し出すように叩かれる。走り出そうとした心臓に待ったをかけるような、丁度いいタイミングだった。
「お前には敵意がないだろうし、警戒するような変な気配もしない。鞘は本当に偶然迷い込んでしまっただけなんだろう」
問いかけではない。彼の言葉は訳知り顔で放たれた。
「むしろ管理が行き届いていなかったという意味では俺に非がある。お前の日常を守ってやれなくてすまなかったな」
「それは多分違います!」
弾かれたように否定が口を衝いていた。
翡翠の目が丸くなる。
「俺も気になることがあって、それで、入っちゃいけないと承知であのカフェの倉庫に入ったんです」
「気になること?」
「はい、音が聞こえて。鈴みたいな音なんですけど」
「……そうか」
「自分から入ったようなものなので自業自得というか。いや、でも、管理されてて本来は入れないのになんで? ……まあ入ったのは俺なんで!」
言い切った途端、
「ふはっ」
朧狐が噴き出した。
はあ?
隠しきれない不満が表情に出ているのが自分でもよく分かった。
どこに笑う要素がありましたかね。
「い、いい奴だなお前」
「……言動が合ってませんけど」
半眼で彼を睨みつける。と、堪え切れなかったのか本格的に笑われてしまった。恐らく鞘の紅潮した頬のことはとっくにバレているに違いない。
何でツボってるんだこの人。……仕方ないだろう。友達が全くいないわけではなかったけど人付き合いは苦手中の苦手なんだから。
空気を変えたい。ん、んんと軽く咳ばらいをすると、察しのいい少年は笑いを納めてくれた。多少引きずっているようだったが。
「俺が行ったカフェって何なんですか? 知り合いと一緒に行ったんです。普通のカフェにしか見えませんでしたけど」
「あのカフェは、巣の入り口を隠すための覆いだ」
服の袖で目元を軽く押さえる彼に、怪訝な眼差しを送る。
覆い? カフェが入り口なのではなく?
「鞘はこの世界が綺麗だと言っていたな」
「はい」
「今でもそう思うか?」
「? はい、思います」
「真っ白で何もないのに?」
「ええ、まあ」
そこが綺麗だと思ったし、他にもいろんな色彩があることを知ったばかりだ。
「これがないと歩き回ることもできないのに?」
彼は自身の首から下がるものを指先で弄ぶ。鞘が久遠を通して彼から受け取ったものと同じ石の着いた首飾り。ただし彼のものは三連作りになっており、石も多数光り輝いていた。
「それは、まだ来たばかりでよく分かりませんけど、はい」
まだこの石が何なのか、何から自分を守ってくれるものなのか、具体的な所を知らない。本当は今すぐにでも知るべきなのだろうが、今聞いては頭がパンクしてしまいそうだ。危機迫る状況でないのなら是非とも後程教えていただきたかった。
「妖を視てしまったのに?」
「それはこことは関係なくないですか?」
「関係大有り。なんだが、それは落ち着いたらでいい」
彼は一瞬表情を曇らせるも、次の瞬間にはまた穏やかに微笑んでいた。
笑顔は彼の基本表情なのだな。と関係ない所で考え、そのレパートリーの多さに感心してしまう。
「この世界はお前が思っている以上に厄介な場所なんだ」
「悪い場所、ということですか?」
「人の立場から見れば厄介だが、悪い場所とも良い場所とも取れるだろう。長所は短所って言うだろ。何でもそうだけど、この世界も世の理に反することなく両方の側面を持っている。いろんな使い道があるんだ。だからあらゆる悪意に、善意に狙われる。この場所を手に入れようと、巣の外では今も監視の目が光っている。
そんな中、お前を気軽に帰してみろ。どんな非道を尽くされるかわかったものじゃない」
”非道”。”酷い”ではなく”非道”である。鞘にとっては日常的な使用頻度が極稀な言葉の一つだ。
「……どうなるんですか?」
「死ぬよりも酷いことをされてしまうかもしれない。この世界を手に入れるための情報を、例えば、お前の脳から抜き取ったり、とかな」
「……SFくさい」
げんなりとして呟く。昨日・今日の出来事の中で最も胡散臭い話だった。
「そこっ、つまんねー映画観たような顔をするんじゃない。仕方ないだろう事実なんだから。そういうの好きな知り合いがいるんだよ」
何だって!?
青い顔で反射的に飛び退く。「信じられない」と顔に張りつけてしまえば、震える声を抑えきれない。
「最後のが一番聞きたくなかった……! そんな気楽に『危ない友達』の情報を開示しないでください! というか敵と友達なんですか!? 複雑!」
「友達じゃない。あくまでも知り合いだ」
「知り合いってほぼ友達みたいなものでは」
「鞘、お前は互いにちょっと顔を知ってて少しは話したこともあるかな、程度の奴と友達になれるのか?」
「ああ、そういう……」
冷静に、というより平坦に解説されると、合点がいくのと同時に「それは知り合いでもなくないか?」と首を傾げたくなった。わざわざ反論などしなかったが。
「とにかく、今お前を返すわけにはいかないんだ。そのことは分かってほしい」
「……一・二ヶ月というのは?」
「この世界はもうじき閉じる」
「閉じ、る?」
「実はこの世界は少しずつ小さくなっているんだ。今は外に入り口を展開しているが、もうじきそれもできなくなる。この世界は外との繋がりを断ち、この世界の中だけで完結する。今はそういう、閉じかけの時期だったんだ」
「はあ」
「入り口が閉じてしまいさえすれば、外の連中はこの世界に手を出せなくなる。つまりそれまでの辛抱というわけだ。そしてその目安が約一・二ヶ月程だと俺は見ている」
世界が、閉じる。
それがどういう状況になることを示しているのかは想像もつかないが、一・二ヶ月後、この世界は二度と誰の目にも触れられないものになるらしい。
惜しいことだ。
「分かるものなんですか」
「当然だ、管理者をなめるなよ」
ふふんと得意気に胸を逸らす朧狐の声を聞きながら、繰り返し思う。
綺麗な場所なのに、惜しい。
「二つ程、訊いてもいいですか?」
沈みそうな思考を振り払いたくて、心に留めていた疑問を解放する。
「カフェには俺の知り合いも一緒に行きました。その人は、無事にカフェから出られますか? あ、もう一日経ってるのか……出られましたか? 今後も無事に生活できますか?」
「鞘君」と快活に笑う幸城の姿が頭に鮮明に浮かぶ。
あの人は今どうしているんだろうか。自分の所為で想い人の息子がいなくなってしまったと胸を痛めていなければいいが。変なことに巻き込まれたりしていないだろうか。
「無事に出たし、巣のことでその知り合いの生活が脅かされることはない」
断言されたその言葉に一先ず心の底から安堵した。自分の所為で幸城に何かあっては申し訳がない。何より、自分に何かあったとなればあの人の方から無理矢理首を突っ込んできそうでそれも怖かった。浮かれたような打ちのめされたような、そんないつもの調子で母への惚気を誰かに語ってもらっていた方が安心できるというものだ。
「もう一つは、表では俺はどうなったことになっているんですか? まさか素直に行方知れずなんてことにはなってませんよね?」
「友人と旅行に行ったことになっている。カフェに一緒に行った知り合いにもそれで通っているはずだ」
そんな都合のいい話に……。
「できるんですか?」
「できるんだなこれが」
様になるウィンクを決める朧狐に、鞘はほおと息を吐く。
嘘か真か。確証は何一つないというのに猜疑心の「さ」の字もなかった。鞘はそれにこそ懐疑の目を向けたくなる。どうやら自分の中に、彼の、朧狐の言葉を疑うという選択肢は存在すらしていないようだった。まさか心を操られたり催眠をかけられたりなどしていないだろうなと、むしろ自身の心理状態に疑念を抱きたくなってしまう。
「……分かりました。騒ぎになってないならいいんです。ありがとうございます」
「他に気になることは?」
「今は、考えます。時間をください。後でいろいろ出てくると思います」
「そうか。何か困ったことがあったらいつでも言ってくれ。と言っても、俺は家にはいないことが多いんだ。呼んでくれたらすぐに駆けつけるが、頼りになる奴はたくさんいるから、何かあったら頼るといい」
言われて思い出されるのは、少年少女の冷たい視線の束である。
話の流れからして、恐らく彼らと生活を共にすることになるのだろう。大丈夫なのか。不安で胸が潰れてしまいそうだった。
特にイチキと呼ばれていたあの少年。彼は怒鳴ってばかりいたではないか。周りの少年たちは面白がっていじっている雰囲気もあったが、もしも目の前で怒号されたらと想像するだけで体温が下がっていくような気がした。
でも、何だかんだと騒ぎつつお礼が言えるのは今時珍しい丁寧な――。
あ。
つらつらと考える内、はたと気付いた。
白鵲の巣の管理人、朧狐。
鞘もまた、彼に言わなくてはならない言葉があったことに。
「朧さん」
「ん?」
「助けてくれてありがとうございました。服とか、汚してすみませんでした」
そろりと目を向けた彼の上着――特に袖部分――は、汚れなど許されない新品のように綺麗なものだった。
人物紹介の挿絵を入れました。
鞘は現状びっくりぽんぽこぽんなので今は目がぱっちりしていることが多いと思います。
 




