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綱成目線


❋❋


失恋した。いや、最初から諦めていた恋ではあるけれども、それでも他家に嫁ぐという、槇姫の告白の衝撃は大きかった。

気持ちを聞かせてくれと言われたのに、抱きしめて、「行くな――」と身勝手な願いまで口にしてしまった。

あの日から綱成には、小田原城の上の空の色まで鈍く映る。


「…げ、綱成!」

苛立ったように氏康に呼ばれ、綱成は慌てて頭を上げた。何度か名を呼ばれていた気がする。

「どうした。お前近頃おかしいぞ」

花押の練習をしながら、氏康が綱成に尋ねる。

氏康の周囲には、花押だけが書かれた料紙が何枚も散らばっている。

「おかしいって何がだ」

紙を拾い集めながら、綱成は平静を装う。

「ここ、五日間で俺の話を聞き逃したのが二度。問いの返しがおかしかったのが三度。腑抜けているにも程がある」

具体的な数を挙げながら、問い詰めてくるのがなんとも氏康らしかった。基本的にこの男は自分にも他人にも厳しい。

「お前だけでなく槇も変だ。二人の間で何かあったのか? 父上に聞いても、にやにやしながら『捨て置け』と言うばかりだ。俺だけ何も知らないみたいで気分が悪い」

「槇姫も……変なのか」

「ああ。お前の名を出すだけで、目が泳ぐ。何があったか尋ねると、泣き出しそうになる」

「す、すまん」

槇姫の変化は自分とは無関係に思えなかった。つい、綱成は謝ってしまう。

「何があった」

料紙から顔を上げ、氏康は鋭い目と声を綱成に向けた。この男にごまかしや嘘が通用しそうな気がしない。

綱成はやむを得ず、槇姫との間にあったことを話した。


「お前、人の妹に軽々しく手をつけやがって」

抱擁したことまでつつみ隠さず話すと、氏康はぎろりと綱成を睨む。綱成は小さくなって謝るしかない。

が、床の板目に額をこすりつけていた綱成は、次の氏康の言葉に耳を疑った。

「だが、槇に他家との縁談などない」

「え?」

呆けている綱成に、氏康は愉快げに告げる。

「恐らく、お前は槇に謀られただけだ」

「え」

「もう一度槇と話してこい。お前の調子がおかしいと俺まで変になる」

書き損じたらしい花押の料紙を、氏康は丸めてぽいっと投げた。


❋❋❋


出陣の日は近い。けれどこんな気持ちのままで、小田原を離れたくなかった。

(俺が謀られてる?)

氏康の言葉の意味を確かめるため、今度は綱成が槇姫を追う。流石に部屋に直接は行けないので、槇姫の部屋のある二の郭で待ち伏せていたところに、槇姫が現れた。

「綱成」

槇姫は綱成の姿を認めた瞬間、逆方向に走り出す。

「槇姫」

そうはさせるかと追いかけた。姫の足で綱成に敵うはずがない。廊下の端に追い詰めると、やっと観念したように槇姫は綱成の目を見た。


「姫に縁談なんか無いと氏康が言ってました――先日のあれは嘘だったのですか」

大分間を空けてから、槇姫は漸く頷いた。

「何故あんなことを」

からかわれていただけなのか?

槇姫が自分の気持ちを弄ぶような真似をするとは思いたくないが、理由が全然思い当たらない。

槇姫は泣き出しそうな顔をして俯いたまま、また綱成には衝撃的な事実を言った。

「父上が私と綱成の結婚を認めてくださいました。父から言われれば、綱成はきっと喜んで私を妻にする――」

綱成の心は一瞬大きく跳ね上がる。だが、そんなはずはない。

「某を二度も謀るおつもりですか?」

強く問いかけると、槇は重ための瞼から、はらりと涙をこぼした。

幼い頃はいざ知らず、裳着を済ませてから、槇の涙など見たことがない。綱成はひどく動揺する。

声も立てずに泣きながら、槇は首を横に振った。

「信じてもらえなくても無理はありませんが、此度の婚姻の話は本当です」

「ならば、何故あんなすぐに露見するような嘘を……」

乱暴に手の甲で目元の涙を拭いながら、槇姫は答える。

「父の命で結ばれてしまったら、綱成の気持ちが何処にあったのか、私は一生知ることが出来ない――」

「⋯⋯」

ああ、そういうことか、と漸く綱成は槇姫の理屈を悟る。

綱成の妻の立場ではなく、綱成の気持ちが欲しいということか。だが。


「そのために、あんな芝居をして、某を騙して」

「悪いことをしたと思っています」

槇姫は綱成から目を逸らして、気まずそうに謝ってくる。

怒りが湧いてくるべきなのだろうが、駄目だ、全然怒れない。

「では、他国に嫁に行くというのは、真に偽りなのですね」

「はい」

「殿が姫と某を娶せたいとお考えなのも真ですか?」

「父は元々綱成に目をかけています。私が綱成の妻にと願うのは、父にも好都合なんだと思います」

「⋯⋯」

自分では許されぬと思っていた感情を、北条家側ではそんな風に解していたというのか。

ずっと望んで望んで諦めていたものが、すぐ目の前にある。 槇の濡れた頬に手を伸ばす。触れていいのか? 本当に?

感情と理性がせめぎ合う。あと僅かで触れられる。けれど。

「やっぱり駄目です!」

乱暴なくらいの勢いで、宣言し、伸ばしかけた手を下ろした。

「何がです」

「殿の元に行ってまいります」

「何故」

「――殿の許しを得てから、あなたに触れたい」

本当に槇姫を望んでいいのか、綱成はまだ迷っている。だから、筋だけは通したい。

槇姫は最初、あっけにとられた顔をしていたが、すぐにくすっと笑った。

「綱成らしい」


氏綱はその日城に居なかった。玉縄の方に行っているらしい。

(殿は多忙だから仕方ない)

小田原城で一番見晴らしのいい櫓にのぼって、東の空を眺めた。時間が経つにつれ、現実と虚構の区別がつかなくなってくる。


『父は元々綱成に目をかけています。私が綱成の妻にと願うのは、父にも好都合なんだと思います』


(真なのだろうか……)


早く氏綱に確かめたい。綱成の焦燥が限界に達した三日目の夕方、氏綱は小田原に戻ってきた。


目通りを願うと、すぐに氏綱は時間を作ってくれた。

「いかがした」

綱成の方から形式ばった対面を願うのは初めてかもしれなかった。ただ事ではない、と氏綱もきっと構えている。

綱成にとって氏綱は、父以上に父のような人であった。

『わしのもとに来るか――』

父を亡くし、途方に暮れていた時、氏綱がそう言ってくれなかったら、僧にでもなり、読経三昧の日々であったかもしれないのだ。


「殿にお願いの儀があります」

声が、震えた。

何一つ不自由ない暮らしを与えてくれて、父の刀を直してくれ、名乗りまで諱の一字を賜った。これ以上ないくらい厚遇されておきながら、自分はまだ殿の大切なものをもらおうとしている――。


「申してみよ」

「厚かましい願いなれど言上仕ります。――槇姫様を某に賜ることできましょうか」

言い終えた後、喉が張り付くように乾いていた。心臓の音が自分に聞こえるくらい早くやかましく響く。氏綱が声を発するまでの短い間が、悠久の時のように感じた。


「わしの姫――ではなく、槇がいいのか」

綱成の真意を確かめるように尋ねられた。

「はい。槇姫がようございます」

もうここまで来たら、自分の気持ちを取り繕う必要などない。

「槇に何か言われたか」

「他家に嫁入りが決まったと……謀られました」

正直に答えると、氏綱は「ははっ」と高らかに笑う。

「困った娘だ。真にいいのか?」

氏綱が念を押してくる。

「はい。生涯大切に致します」

心から誓うと、氏綱は満足そうにほほ笑んだ。

「綱成」

上段にいた氏綱は一段降りてきて、綱成の前にしゃがみこんでいた。

「槇を――託す。死ぬ気で守れよ」

「は、はいっ」



櫛間綱成は北条綱成と名乗りを変え、槇との間に四人の子をもうけた。彼の一族は玉縄北条氏として、小田原北条家の支えとなる――。の子をもうけた。彼の一族は玉縄北条氏として、小田原北条家の支えとなる――。


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