綱成目線
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失恋した。いや、最初から諦めていた恋ではあるけれども、それでも他家に嫁ぐという、槇姫の告白の衝撃は大きかった。
気持ちを聞かせてくれと言われたのに、抱きしめて、「行くな――」と身勝手な願いまで口にしてしまった。
あの日から綱成には、小田原城の上の空の色まで鈍く映る。
「…げ、綱成!」
苛立ったように氏康に呼ばれ、綱成は慌てて頭を上げた。何度か名を呼ばれていた気がする。
「どうした。お前近頃おかしいぞ」
花押の練習をしながら、氏康が綱成に尋ねる。
氏康の周囲には、花押だけが書かれた料紙が何枚も散らばっている。
「おかしいって何がだ」
紙を拾い集めながら、綱成は平静を装う。
「ここ、五日間で俺の話を聞き逃したのが二度。問いの返しがおかしかったのが三度。腑抜けているにも程がある」
具体的な数を挙げながら、問い詰めてくるのがなんとも氏康らしかった。基本的にこの男は自分にも他人にも厳しい。
「お前だけでなく槇も変だ。二人の間で何かあったのか? 父上に聞いても、にやにやしながら『捨て置け』と言うばかりだ。俺だけ何も知らないみたいで気分が悪い」
「槇姫も……変なのか」
「ああ。お前の名を出すだけで、目が泳ぐ。何があったか尋ねると、泣き出しそうになる」
「す、すまん」
槇姫の変化は自分とは無関係に思えなかった。つい、綱成は謝ってしまう。
「何があった」
料紙から顔を上げ、氏康は鋭い目と声を綱成に向けた。この男にごまかしや嘘が通用しそうな気がしない。
綱成はやむを得ず、槇姫との間にあったことを話した。
「お前、人の妹に軽々しく手をつけやがって」
抱擁したことまでつつみ隠さず話すと、氏康はぎろりと綱成を睨む。綱成は小さくなって謝るしかない。
が、床の板目に額をこすりつけていた綱成は、次の氏康の言葉に耳を疑った。
「だが、槇に他家との縁談などない」
「え?」
呆けている綱成に、氏康は愉快げに告げる。
「恐らく、お前は槇に謀られただけだ」
「え」
「もう一度槇と話してこい。お前の調子がおかしいと俺まで変になる」
書き損じたらしい花押の料紙を、氏康は丸めてぽいっと投げた。
❋❋❋
出陣の日は近い。けれどこんな気持ちのままで、小田原を離れたくなかった。
(俺が謀られてる?)
氏康の言葉の意味を確かめるため、今度は綱成が槇姫を追う。流石に部屋に直接は行けないので、槇姫の部屋のある二の郭で待ち伏せていたところに、槇姫が現れた。
「綱成」
槇姫は綱成の姿を認めた瞬間、逆方向に走り出す。
「槇姫」
そうはさせるかと追いかけた。姫の足で綱成に敵うはずがない。廊下の端に追い詰めると、やっと観念したように槇姫は綱成の目を見た。
「姫に縁談なんか無いと氏康が言ってました――先日のあれは嘘だったのですか」
大分間を空けてから、槇姫は漸く頷いた。
「何故あんなことを」
からかわれていただけなのか?
槇姫が自分の気持ちを弄ぶような真似をするとは思いたくないが、理由が全然思い当たらない。
槇姫は泣き出しそうな顔をして俯いたまま、また綱成には衝撃的な事実を言った。
「父上が私と綱成の結婚を認めてくださいました。父から言われれば、綱成はきっと喜んで私を妻にする――」
綱成の心は一瞬大きく跳ね上がる。だが、そんなはずはない。
「某を二度も謀るおつもりですか?」
強く問いかけると、槇は重ための瞼から、はらりと涙をこぼした。
幼い頃はいざ知らず、裳着を済ませてから、槇の涙など見たことがない。綱成はひどく動揺する。
声も立てずに泣きながら、槇は首を横に振った。
「信じてもらえなくても無理はありませんが、此度の婚姻の話は本当です」
「ならば、何故あんなすぐに露見するような嘘を……」
乱暴に手の甲で目元の涙を拭いながら、槇姫は答える。
「父の命で結ばれてしまったら、綱成の気持ちが何処にあったのか、私は一生知ることが出来ない――」
「⋯⋯」
ああ、そういうことか、と漸く綱成は槇姫の理屈を悟る。
綱成の妻の立場ではなく、綱成の気持ちが欲しいということか。だが。
「そのために、あんな芝居をして、某を騙して」
「悪いことをしたと思っています」
槇姫は綱成から目を逸らして、気まずそうに謝ってくる。
怒りが湧いてくるべきなのだろうが、駄目だ、全然怒れない。
「では、他国に嫁に行くというのは、真に偽りなのですね」
「はい」
「殿が姫と某を娶せたいとお考えなのも真ですか?」
「父は元々綱成に目をかけています。私が綱成の妻にと願うのは、父にも好都合なんだと思います」
「⋯⋯」
自分では許されぬと思っていた感情を、北条家側ではそんな風に解していたというのか。
ずっと望んで望んで諦めていたものが、すぐ目の前にある。 槇の濡れた頬に手を伸ばす。触れていいのか? 本当に?
感情と理性がせめぎ合う。あと僅かで触れられる。けれど。
「やっぱり駄目です!」
乱暴なくらいの勢いで、宣言し、伸ばしかけた手を下ろした。
「何がです」
「殿の元に行ってまいります」
「何故」
「――殿の許しを得てから、あなたに触れたい」
本当に槇姫を望んでいいのか、綱成はまだ迷っている。だから、筋だけは通したい。
槇姫は最初、あっけにとられた顔をしていたが、すぐにくすっと笑った。
「綱成らしい」
氏綱はその日城に居なかった。玉縄の方に行っているらしい。
(殿は多忙だから仕方ない)
小田原城で一番見晴らしのいい櫓にのぼって、東の空を眺めた。時間が経つにつれ、現実と虚構の区別がつかなくなってくる。
『父は元々綱成に目をかけています。私が綱成の妻にと願うのは、父にも好都合なんだと思います』
(真なのだろうか……)
早く氏綱に確かめたい。綱成の焦燥が限界に達した三日目の夕方、氏綱は小田原に戻ってきた。
目通りを願うと、すぐに氏綱は時間を作ってくれた。
「いかがした」
綱成の方から形式ばった対面を願うのは初めてかもしれなかった。ただ事ではない、と氏綱もきっと構えている。
綱成にとって氏綱は、父以上に父のような人であった。
『わしのもとに来るか――』
父を亡くし、途方に暮れていた時、氏綱がそう言ってくれなかったら、僧にでもなり、読経三昧の日々であったかもしれないのだ。
「殿にお願いの儀があります」
声が、震えた。
何一つ不自由ない暮らしを与えてくれて、父の刀を直してくれ、名乗りまで諱の一字を賜った。これ以上ないくらい厚遇されておきながら、自分はまだ殿の大切なものをもらおうとしている――。
「申してみよ」
「厚かましい願いなれど言上仕ります。――槇姫様を某に賜ることできましょうか」
言い終えた後、喉が張り付くように乾いていた。心臓の音が自分に聞こえるくらい早くやかましく響く。氏綱が声を発するまでの短い間が、悠久の時のように感じた。
「わしの姫――ではなく、槇がいいのか」
綱成の真意を確かめるように尋ねられた。
「はい。槇姫がようございます」
もうここまで来たら、自分の気持ちを取り繕う必要などない。
「槇に何か言われたか」
「他家に嫁入りが決まったと……謀られました」
正直に答えると、氏綱は「ははっ」と高らかに笑う。
「困った娘だ。真にいいのか?」
氏綱が念を押してくる。
「はい。生涯大切に致します」
心から誓うと、氏綱は満足そうにほほ笑んだ。
「綱成」
上段にいた氏綱は一段降りてきて、綱成の前にしゃがみこんでいた。
「槇を――託す。死ぬ気で守れよ」
「は、はいっ」
櫛間綱成は北条綱成と名乗りを変え、槇との間に四人の子をもうけた。彼の一族は玉縄北条氏として、小田原北条家の支えとなる――。の子をもうけた。彼の一族は玉縄北条氏として、小田原北条家の支えとなる――。




