槇目線
天文二年(1533年)
場所:小田原城
登場人物:槇‥北条氏綱の娘。氏康の妹。後の大頂院
櫛間綱成‥幼い頃父を亡くし、小田原城に引き取られる。後の北条綱成。
北条氏綱‥小田原北条家二代目当主
北条氏康‥氏綱の嫡男。槇の兄。
櫛間綱成が里見への援軍に加わり、房総半島に渡ると聞いた時、槇の鼓動は大きく跳ね上がった。
綱成——こと櫛間孫九郎綱成は、彼の父、櫛間九郎が北条氏綱の名代として戦に出、討死となったため、小田原城に引き取ることとなった。爾来、小田原城にて兄の氏康らと共に、兄弟のように育ってきた。
城に来た頃の綱成はまだ元服前で勝千代と名乗っていた。当初から兄より剣技に秀でていた。兄はよく勝千代に負けて悔しがっていた。
「勝千代は強いですね」
幼かった槇が褒めたことがある。勝千代は照れくさそうに笑った。
「強くなることで、俺は殿の役に立ちたい。北条家のために、戦いたいのです」
言われたその時はわからなかった。勝千代の覚悟など。
元服して勝千代は櫛間孫九郎綱成と名乗り、氏康の馬廻り衆として戦場に立つようになった。
率先して前に出る。元々剣に優れ、易易と強弓を放つ男が、命懸けで敵陣に向かって行くのだ。強いに決まっている。
(綱成が行かなくったっていいのに)
槇はイライラしながら父、氏綱の元を訪れた。
氏綱は書院で一人、何かの台帳をめくっていた。
「いかがした」
北条家当主氏綱は、内政にも軍略にも優れ、果断な二代目と内外で恐れられているらしいが、槇にとっては穏やかな父だ。
父の文机の対面に座る。
「綱成を里見の援軍に行かせると聞きました」
「そうだな」
「兄上は留守居ですよね。馬廻り衆の綱成が向かう必要がありますか」
北条の戦ならいざ知らず。いや、北条の戦だとて、槇は行ってほしくない。綱成が危ない目に遭うのは嫌だ。
「此度は本人が志願している。止める理由がない」
(またそうやって、自らに責と荷を背負い込む)
綱成はそういう男だ。氏綱に拾ってもらった――と、過剰に恩義を感じている。
そして、彼の父親と同じように、北条の為に嬉々として生命を張ってしまう危うさがある。
父も、兄も、綱成のその真っ直ぐな心根を、利用しているように、槇には見える。
見ていた帳面を氏綱は槇の方に向けた。
北条家家臣の名と数字が列挙されている。真ん中より後ろに綱成の名もあった。これは――。
「此度、里見に遣わす後詰の軍の名簿じゃ」
「おなごには見てもわからぬものにございます」
槇は父の方に帳面を向け直した。
「わからぬと言いながら、何故そちは綱成を援軍に向かわせるなと、父に意見する?」
「……」
槇は下唇を噛み締める。派兵されるのは綱成だけではないのだ。
元々槇は、言葉を紡ぐのがうまい方ではない。
(父上は、その『何故』の理由も知っているに相違ないのに)
槇は綱成に特別な思慕を寄せている。
機を見、隙を窺っては、綱成の前に現れ、二言三言、言葉を交わす——それだけでいつも胸は暖かくなる。
「——綱成は北条に必要な男だと思うからです」
自らの感情を排し、槇は先ほどの氏綱の問いに答えた。
武勇に優れ忠義に厚い。すぐに合理的な損得を勘定し始める北条家の男たちの中で、綱成の計算のない言動は、逆に頼もしく見える。
「なるほど」
氏綱は愉快げに口元を緩ませた。
「父上はゆくゆく綱成をどうされるおつもりなのですか」
父も綱成を気に入っているのは知っている。
「そちは綱成をどう見てる」
文机に頬杖をつき、氏綱はゆったりと槇の思惑を暴いていく。
今から、槇が言おうとしていることは、絶対に父の腹の中にもあるはずなのだ。
(それなのに——飽くまで私の言葉で、私の望みのように言わせるおつもりなのですね)
ならば、それでもいい。その代わり、絶対に否は言わせない。
「私は綱成の妻になりたく思っております。私が妻となれば、綱成は北条家一門衆。これまで以上に父上や兄上の頼みとなる男になりましょう」
一気に言った。口数の少ない槇が、ここまで明確に意思表示をしたことで、氏綱は少し驚いたらしい。一瞬大きく目を見開いてから、すぐに普段の穏やかな笑顔に戻る。
「――まあ、氏康も反対はすまいな」
「兄上も大手を振って喜びましょう」
「わかった。そちと綱成の婚姻は進めよう。援軍から戻ったら、祝言といたす」
「ありがとうございます、父上」
父に礼を言い、深々と頭を下げた。
「どうせそなたは、他に嫁に行く気も無かったのであろう?」
氏綱の言葉に槇は小さく頷いた。姉妹達が武蔵だ駿河だと嫁いでいく中で、槇は独り占めに決めていた。綱成の嫁になると。
「父上、一つお願いがあります」
「まだあるのか、なんじゃ」
「私との祝言のお話、今少し綱成に話すのをお待ちいただけますか」
「……」
今度は綱成に何を仕掛けるつもりかと、氏綱は呆れたように槇を見る。けれど、止めはしなかった。
「あいわかった」
城内は戦支度で物々しい雰囲気になっている。氏綱はかなり多くの援軍を今回送るようだ。
(綱成が房総に行く前に、綱成の気持ちを確かめたい)
槇は乳兄弟の樟葉に頼み込む。
「明日、綱成と二人で話をしようと思っています。部屋を人払いしてほしのです」
樟葉はかねてから、槇の気持ちを知っている。あっさりと「かしこまりました」と請け負ってくれた。
次の日。綱成を待ち伏せて、槇は計画通りに、彼を部屋に通すことに成功する。
だが、綱成はひどく落ち着かない様子だった。
基本的にわきまえ過ぎる男なのだ。もどかしい。
北条家の姫との縁談を父から持ち込まれれば、綱成は絶対に迷わず請ける。それは、わかっている。
(だけど、それでは綱成が私自身をどう思っているのかわからない)
本心を、知りたい。だから、槇は嘘をついた。
「縁談が決まりました」
二人きりになった座敷で静かに言う。綱成の目が泳いだ。
「え」
「詳しくは申し上げられませぬが、東国の大名の御嫡子様の元にこの秋に――と」
「何故某に⋯⋯」
震えた声で綱成が尋ねる。
槇だって綱成の言葉を聞くのは怖い。妹のようなものだと、一笑に付されるかもしれない。何の感情もなく、祝辞だけを告げられるかもしれない。
(そうなったら、婚姻した後、気まずい)
けれど、それでも知りたかった。彼にとって、自分はどのような存在なのかと――。
「連れて逃げてくれ――などとは申しませぬ。ただ、会えなくなる前に、一言だけ綱成の気持ちが聞きたいのです」
綱成は槇から目を逸らした。困り果てたように眉間を指で引っ掻く。
「某の気持ちを聞いていかがいたします。徒にしかならぬのに」
大分間を置いてから、綱成は吐き出すように言った。
そして、言ってから『しまった』という表情を見せた。
『徒にしかならぬ』
槇への感情を吐露したも同然なのに、それでも言ってくれない。「好き」とも「お慕いしております」とも。
言葉を飾らず策を弄さない。綱成らしい告白が、槇にはもどかしい。
「綱成、私は」
膝を詰めて、槇は袖から手を伸ばす。固く握られた綱成の拳の上に、そっと掌を重ねた。
「ずっと、そなたに手を引かれて歩いて行きたかった⋯⋯」
幼い日の勝千代への憧憬を槇はずっと抱いたままでいる。
綱成が小さく息を呑んだのがわかった。どんな言葉が返ってくるのか、槇も身を強張らせる。けれど、槇の耳に届いたのは、綱成の声ではなくて、衣擦れの音だった。
「……」
気がついたら綱成の腕に抱きとめられていた。衣越しにでも綱成に伝わるのではと危ぶむほど、鼓動が早く強くなる。
反射的に身を引こうとした槇の身体を、逃さぬと言わんばかりに綱成は回した両腕に力を込める。
「行くな——」
槇の想像を遙かに超えた綱成の本当の声だった。
「綱成⋯⋯」
どれくらい触れ合っていたのかわからない。
「も、申し訳ありません」
はっと我に返ったのか、綱成は抱擁を解く。
謝って退出しようとする綱成に言った。
「我儘を言いました⋯⋯でも嬉しかったです」
嬉しい。それは本当に嬉しい。
だけど——舞い上がった気持ちの分だけ、綱成を騙したという罪悪感が槇を刺した。
「樟葉、どうしよう」
部屋に戻ってきた樟葉に事の顛末を語る。樟葉は大仰に溜息をついてから、冷ややかに言う。
「姫の口から綱成殿との婚姻が決まったことを告げるものだとばかり、私は思ってました」
「だって、それだと綱成は絶対喜んで私を妻にしてしまう」
「いいじゃないですか」
「嫌です。北条の姫でなく、私のことをどう思ってるか知りたかったのです……」
当主の娘と、当主に恩を受けた若者。対等でないからこそ、綱成の本音を知りたかった。
そしてその機会は祝言を挙げる前の今しかなかった。
「大成功じゃないですか」
槇は小さく頷く。そう、策は成功した。
ただ、問題は——綱成は槇が他国に嫁に行くという嘘を信じたままということだ。
「早く誤解を解かれた方がよろしいのでは」
「嘘をついていたのがわかれば、嫌われますよね……」
「それは樟葉にはわかりかねます」
「どうしよう、樟葉」
自業自得ですよ、と樟葉は全く容赦がない。
綱成はもうすぐ房総へ遠征に出てしまう。行けば二か月から三か月は戻らないであろう。
行く前に真実を話さなければとわかっていても、なかなか切り出せなかった。




